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古宇利島の港(ウプドゥマイ)
 今帰仁村古宇利島に渡る。平成17年2月に橋は開通した。島の出入り口であった港を、橋の開通前に訪ねてみた。運天港から7時25分発の便で古宇利島に渡り9時50分の船で戻った。天気はくもり。海上の波少し高し。
 タイミングよく島の方と同船する。ウプドゥマイ(大泊)や船について立ち話であったがうかがうことができた。小浜区長さんに、工事の入る神アサギと古宇利大橋の橋詰め付近の案内をしていただいた。目ぼしいサバニがないか漁港あたりも歩いてみた。早朝の大急ぎのウプドゥマイ回りであった。
 ウプドゥマイ(古宇利港)と運天港を結ぶ航路は戦後のことである。戦後間もない頃まで、古宇利島と運天(クンジャー浜、戦後運天港)を結ぶワタサー(渡し舟)はくり舟→サバニ→伝馬船・山原船→焼玉船→ディーゼル船へと変遷をたどる。戦前は定期のワタサー舟があったわけではなく、本島側へ、あるいは古宇利島に用事があると舟を頼んで出してもらっていたという。
 明治後半から大正初期にかけてはヤーヌクヤ(上間喜吉氏)がサバニと伝馬船の二艘でやっていた。その後のことは『古宇利島のかがり火』(玉城信男著)でまとめられている。
 ワタサー(渡し舟)の舟着き場(チグチ:津口)と呼ばれ、古宇利島側はウプドゥマイとグサブー、運天側はクンジャー浜である。不定期なので客がいると旗をあげ、煙を出したりして合図した。サバニで渡るときは、濡れるのを覚悟し、皆で漕いだり、ユー(海水)をくみ出したりした。伝馬船は多くの荷物や人を運ぶことができる。ところが、風まかせのところがあり、向かい風にあたると一時間以上もかかったという。
 戦後三年間はサバニと伝馬船がワタサーをしていた。競いあってやっていた時期もあるが、伝馬船が共同組合経営となってから船頭はトーヒチ屋とゴンペー屋となる。昭和20年10月1日今帰仁村陸上競技大会の当日、応援に向う島の人たちを乗せた伝馬船が転覆するという大惨事が起きた。この出来事をきっかけにエンジン付き船(焼玉船:ポンポン船)となり、渡し場は運天港へと変る。
 
・1948年8月〜1953年
第一古宇利丸就航する(台風で破損)。
・1953年8月〜宝玉丸(中古)が就航する。
・1954年9月〜1969年8月
 第三古宇利丸(台風で炬港口で破損する)
・1970年1月〜第五古宇利丸(フェリー)
・1984年1月〜現在 第八古宇利丸
 
古宇利港の様子
 
シラサ辺りから見たウプドゥマイ
 
第一桟橋とナカムイヌ御嶽
 
戦後間もない頃に作られた第一桟橋(現在)
 
脚はドラムカンにコンクリート
 
 ウプドゥマイ(大泊)は舟が碇泊したことに由来するのであろう。古宇利島の南側に展開した集落の前方にウプドゥマイがある。戦後、焼玉エンジンの船になると桟橋が必要となり第一桟橋が建設された。橋桁はドラムカンを利用し、それにコンクリートが流し込んである。
 焼き玉エンジンの船の頃、冬場や波の荒い日にはタイミングを見計らって飛び降りなければならず、また干潮時に接岸したときなどは、桟橋より船が下になるので荷物を投げたり、手渡ししてから降りた。船の乗り降りに苦労があったという。
 
『球陽』尚敬王7年条(1720年)
(角川書店 262頁)
 今帰仁郡古宇利邑の大城、水梢七人を率ゐ、四幅帆船に坐駕す。亦山川・玉城等は、水梢十九人を率ゐ、七幅帆船坐駕す。康煕辛寅の年春二月の間、那覇津より一斉に開洋し、読谷山外に回至して、に逆風に逢ふ。七幅帆船、礁を衝きて破壊す。大城の船、他の船と相離るること一里許りなり。大城遥かに山川の破船するを看るや、即ち其の処に到り、二十名を撈救す。此の時、波濤稍ゝ静まり、風未だ吹きて順ならず、以て直ちに回り難し。只風に任せて沈浮し、諏訪瀬に飄到す。彼の島より供給養贍して、本国に回り来る。是の年に至り、褒美を荷蒙し、黄冠を頂戴す。
 
※康煕辛寅→?
 諏訪瀬島は奄美大島の北方にある島のひとつ。
 
【幕末日仏交流記】【1844年6月11日】
(フォルカード:中央文庫)
 提督のお供をして、現地の人が古宇利島と呼んでいるエルベール島に出かけた。これは地図で確認すると、とても小さな島だ。島と同じ名前の村が一つあるだけだ。耕地もあるが、島の大部分は巨岩と、まるで原始林のように鬱蒼と茂る森で覆い尽くされている。風景画家にとって格好の素材となろう。なにしろどこまで歩いても才能を遺憾なく発揮することができるのだから。
 こんなに人里離れたところまで監視の目は行き届いていた。耕された狭い盆地に差しかかると、一人で粟を刈り取っている少年に気がついた。少年に近づいて、ちょっとした質問をしてみると、喜んで答えてくれた。しかし話はすぐ中断された。下品な顔の男がどこからか四人現て、少年に襲いかかろうとしたので、かわいそうな子供は恐ろしくなって、一目散に逃げて行った。
 
『球陽』尚育王12年条(1846年)
(角川書店 551頁)
 本年4月26日、今帰仁郡古宇利村の洋面に異国船一隻の到来する有り。其の船、古宇利村二三里許りの洋面に湾泊す。人数六名、杉板一隻に坐駕して来し上岸す。手を用つて比勢し牛・羊・蔬菜等の件を請求す。随ひて牛一疋・羊ニ疋・蒜二升五合・蕎四斗を給するに、即ち本船に回る。翌27日に至り、又該人数八名、杉板一隻に坐駕して来し上岸し、蕃署・蔬菜等の物を求む。随ひて蕃署二十蕎一斗を給するに、即ち本船に回り、遂に亥子方に向ひて駛去す。其の船形・人相、絵図と対看するに、恰も阿蘭陀に似たり。
 
 1846年6月6日(旧5月7日)運天港にフランス艦船が三艘やってきた。フランス艦隊がやってきた10日前くらいである。
 この記事の「船形・人相、絵図と対看するに」が非常に興味深い。それは、「山原の津(港)と山原船」のまとめ」で報告するが、首里王府の達(たっし)が末端まで浸透し機能している様子が伺える。貢租や祭祀においても同様なことが言えるのではないか・・・。


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