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今帰仁の港
1. 津(港)に関する地名
 港のことをナートゥやチェーグチやツグチなどと呼ぶ。漢字で「津」や「津口」と記されているのは港のことである。今帰仁の代表的な港に運天港と炬港、それと湧川港がある。他にツグチやナートゥなどがある。港に因んだ小地名に、ナートゥ・ナトゥチビ(港の尻)<今泊>・ナガナートゥ(長港)<諸志>・ナートゥ(港)<崎山>・トーミナトゥ(唐港)<上運天>などがある。さらに、トーシンダー(唐船田)<今泊>・トーシングムイ(唐船小掘)<与那嶺>・トーグムイ(唐小掘)<仲宗根>など中国(唐)と貿易をしていた時代の痕跡を示す地名がある。その他にピサチ(船の先)やハミグムイ(甕小堀)やハキヂ(船掛け)がある。
 今帰仁村の西の端にある字今泊は今帰仁村(ムラ)と親泊村(ムラ)が合併した村(字)であるが、小字に親泊原がある。今泊には港口にちなんだ津屋口(チェーグチ)墓があり、チェーグチの近くにナガナートゥがあり、往時に港や港口であったことを示している。
 親泊という地名も、北山王の居城であった今帰仁グスクにちなみ、「親」(立派な、大きな意)「泊」(港)という港地名である。他に港(泊・湊)のつく小字として、親泊原<今泊>・北港原<諸志>・南港原<諸志>・港上原<諸志>港原<崎山>・港原<仲宗根>・湊原<湧川>がある。これらの小字名も、港があったことに由来するものであろう。
 さらに今帰仁を代表する港に運天港がある。『おもろさうし』で「うむてん つけて こみなと つけて」とうたわれ、『海東諸国紀』の「琉球国之図」(1471年)では「要津 雲見泊」とあり、重要な港として知られていた。
 「琉球の歴史」を大きく変えた事件に薩摩軍の1609年の琉球侵攻がある。沖縄本島での足掛りは、「運天」と「こほり」、それに「親泊」であった。その後、運天港(津)は琉球の四津口(運天・寒汀那・湖辺底・仲泊)の一つとして、薩摩への仕上世米の積み出し港であった。さらに近世の琉球が薩摩支配下にあることをカムフラージュする港として機能した。
 運天港には番所と在番が置かれ、今帰仁間切の行政の中心となるが、また避難港としても利用された。大和から来る船、あるいは伊是名への渡海や山原船の往来の拠点であった。同治9(1870)年に伊江王子が伊是名島に渡ることになった。その時の達(たっし)は、今帰仁間切の運天港から伊是名島に届けられた。伊江王子が今帰仁間切に着いたことが古宇利筑登之から知らされると、伊是名島から役人が派遣された。王子の乗った船が古宇利島沖に見えると遠見番が島中に知らせ、迎えの船をだし、伊是名港に曳いていく段取りとなっていた(「玉御殿御初祭並清明祭祀日記」『伊是名村史』所収)。それからすると、当時運天港から伊是名島へ行く航路であったことが知れる。
 このように今帰仁の港(津口)は様々な歴史を持ち、そして変遷をたどってきた。特に、近世には陸上の宿道(スクミチ)も重要な役割を果たすが、一方「海上の道」も、交通や輸送ばかりでなく文化の交流の道としての役割も果たしてきた。
 
【今帰仁間切輸出の部】(明治31年)
製藍・薪木・木炭・砂糖・白米・角木
楷木・徳利・小麦・杉四分板・丸木
杉七分板・豚・棚木・ケキ木・石灰
 
【今帰仁間切輸入の部】(明治31年)
焼酎・茶・石油・白米・大豆・甘藷・素麺
杉板・瓦・甕・小麦・樽板・鍋・味噌
雑品入・戸棚・昆布・徳利・芋柏・粟
樫木・イク木・椛・製藍・西洋綛
 
2. 親泊
 今泊は今帰仁村(ムラ)と親泊村(ムラ)の合併字(アザ)である。合併する前の親泊は、エードゥマイと呼ばれ港地名が村名になったとみられる。いつの頃、港として機能していたのか定かではないが、北山グスク(別名今帰仁グスク)が栄えていた時代の港であったのであろう。それが、いつ小地名として、あるいは村名となったかも不明である。1609年の薩摩軍の琉球進攻を記録した琉球側の資料の『喜安日記』に「親泊」沖で詮議したことが記されている。その頃には親泊が地名(村名)として出てくる。親泊そのものが港地名であり、津屋口やナガナートゥなどの港地名もある。親泊は「大きな港」や「りっぱな港」の意味を持ち、今帰仁グスクが北山の拠点として栄えていた時代の重要な港だったのであろう。その痕跡を「親泊」の地名に残している。
 
親泊(今泊)のナガナートゥ付近
 
3. 炬港
 今帰仁村字仲宗根を流れる大井川の下流域にあった港のことである。方言ではテーミナトと呼び、東側は字渡喜仁と、西側は崎山から伸びた陸地で囲ったような小さな入江になっている。大井川とジニンサガーラ(下流ではヒチョシナガーラという)が炬港で合流する。土砂が堆積し、港としての機能は今では果たしていない。
 炬港の名称の由来は、進貢使として中国に赴いた大里親方宋森が帰国の途中台風にあい、漂流して今帰仁の海岸にたどり着いたが、神火の炬火に導かれ、無事に仲宗根湊に到着したというので炬港(湊)と名付けたという(『琉球国由来記』、球陽尚真王10年条附)。古くから冊封船の往来に際して、沿岸の各要所では昼は煙、夜は烽火(のろし)をあげて航路を知らせる習わしがあり、この伝説も烽火に関連したものと思われる(『南島風土記』)。
 炬港は運天に近いこともあり、「おもろさうし」巻14-46、No. 1027に
「うむてん つけて こみなと つけて(運天に着けて、小港に着けて)」
と謡われている「こみなと」は、炬港を指しているのではないか、「こ」は「て」の誤記だとみる見方もある。
 炬港が栄えていた時代には、大井川下流の仲宗根の前田原や田原付近まで山原船や唐船がさかのぼってきたといわれ、付近にトウグムイ(唐掘)やハキンジョウ(掛場)の小地名が残っている。また、炬港は仲宗根・岸本・寒水・謝名・崎山などの貢納を運び出す港として使われ、崎山側の海岸には、これを集積しておく倉庫が明治末期まで残っていた。当時は那覇との間を往復する船が絶えることがなかったというが、港内が浅いために大船の入港はなかった。
 鹿児島県の奄美大島・徳之島・喜界島・沖永良部島・与論島は、近世「道の島」と総称されたが、それらの船は、運天港には寄港しても炬港には寄らなかった。大正初期になると炬港から大井川橋付近まで山原船が入り、サバニは、さらに上流の寒水まで行き来した。
 大正3年頃になると石油発動機船が那覇港との間を6時間要して航行した。炬港からは砂糖・藍・バナナ・薪炭などを積み、那覇からは米・酒・大豆・麦粉・素麺などの商品を積み込んできた。汽船は港口に錨をおろし、満潮時を見計らって伝馬船で伸宗根のピサチまで荷を運んだ(『今帰仁村史』)。現在では干潮時には干潟となり、かつての港の面影はなく、静かな風景である。
 
炬港のクビンジャイシ
 
【炬港にまつわる伝承】(球陽)
今帰仁郡の炬港(尚真王10条 附)
 首里の孟揚清(大里親方宗森)、貢使と為り、に入り京に趣き、公務全く竣りてより国に帰る。時に、に颶風に遭ひ、針東西を失し、風に任せて飄流す。巳に数日を経て今帰仁郡外に漂到す。然り而して暗々たる黒夜にして何処なるやを知らず。人皆之れを驚訝し、只海洋に翔すること有るのみ。時に神火有りて大いに炬火を燃やし、山と港とを示知す。船内の人大いに之れを称謝し、仲宗根港に弔進し、以て恙無し。因りて此の港を名づけて炬港と曰ふ。
 
「船税及焼酎税書類」
(『沖縄県史』第21巻 資料編11所収)
 
【炬港】
 炬港は運天港に接近し、仝間切内謝名、仲宗根、崎山、平敷、寒水、岸本の六ケ村に亘る。本港も旧藩の頃右六ケ村の税品を収納したる所なれば、那覇との往復常に絶えず。然れども、港内水浅くして大船を入るゝ能わざれば、道の島往復等の船舶此所に寄港するが如きことあらず。且つ焼酎販売営業者も僅少なれば到底他府県に迄輸出せんとするが如きは之あらざるべし。
 
4. 歴史的な運天港
 「大島に流された源為朝が『運を天にまかせて』たどり着いたので『運天』という地名となり、最初の琉球王舜天は為朝の子である」という伝説があるが、この源為朝の運天漂着伝説は1650年に書かれた『中山世鑑』に記されている。他の史料(『幻雲文集』)から、少なくともその100年程前から「為朝渡来伝説」があったことが知れる。
『おもろさうし』の14巻46の謡(うた)に、又うむてん つけて(運天につけて)
 こみなと つけて(小湊につけて)
とあり、運天は『おもろさうし』が謡われた時代にも、重要な港として機能していたことが分かる。
 1471年に記された『海東諸国紀』(朝鮮人申叔舟著)に登場する「雲見泊 要津」(運天港、重要な港)が、現在のところ運天に関する最も古い文献史料である。600年以上も前から、運天港は外国人にとっても記録するに値する、大切な場所であった。
 新井白石『南島誌』で「海港は二ケ所にある。そのうち、東北にあるのを運天湊という。湊は、水上の人が会うところであり、そして、このあたりに海の船が停泊する所なのである≪運天湊は、もと運見泊と書いた。・・・湊の奥ゆきは一里十七町、幅は二町あり、大きい船の五、六十隻は停泊させられる≫」と運天港の様子を記してある。
 運天港の近くの崖の中腹に、百按司(ムムジャナ)墓はある。少なくとも1500年代までさかのぼることのできる古い墓で、「百按司」の名前のとおり、数多くの按司(貴族)を葬った墓と考えられる。漆(うるし)塗りの家型の木棺が納められている。
 1609年、薩摩軍は琉球に侵攻し、古宇利島と運天港を舟元としながら、すでに逃げて無人となっていた今帰仁城を焼き討ちにした。薩摩軍が直接首里に攻め入らず、わざわざ運天港に立ち寄った背景として、本島北部の要所として運天港の存在が薩摩に十分知られていた。薩摩の侵入後、運天港は四津口(那覇・湖辺底・勘定那・運天)の一つに数えられ、薩摩への仕上世米の積み出し港として、重要な役割を果たすことになる。
 運天には、かつて今帰仁間切番所(ばんじょ)があり、明治30年には役場と名称を変え、大正5年まで行政の中心地であった。間切番所には地頭代(現在の村長)をはじめ、色々な役職の役人が規定に従って仕事をしていた。また、運天には在番(ざいばん)という役場があり、首里王府の役人や薩摩役人による監視の任を果たした機関である。在番役人は近海や運天港に入ってくる大和船や異国船などを監視する。
 運天港付近の崖下にある大北(ウーニシ)墓には、北山(今帰仁)監守の二世、四世〜七世とその一族が葬られており、別名按司墓とも呼ばれている。一世は首里の玉御殿に、三世は今泊の津屋口墓に葬られている。大北墓に関わる人々は北山王が滅んだ時代から、北山城が焼き討ちにあい、監守制度が形骸化していく時代を担った人々と言える。1816年に琉球を訪れたバジル・ホールは『朝鮮・琉球航海記』の中で、運天港を良港と評価し、ポート・メルヴィルと命名した。彼の目に映った運天は「道路は整ってきれいに掃き清められ・・・海岸と平行して、30フィート(9m)の幅を持つ素晴らしい並木道があった・・・そこには木のベンチが置かれ、木のそばには石の腰掛けをしつらえた場所もいくつかある・・・」。
 1741年、大島に漂着した唐船が運天港に回されるという事件があった。常時三人の見張りをつけた他、唐船に近寄らない、女性は付近を通らない、大和唄を歌わないなど厳しい申し渡しが出された。これは薩摩による琉球支配を中国側に知られないようにとの、政治的な配慮によるものであった。1846年、フランス艦船三隻が運天港に入港した。来航の目的は交易の条約を結ぶことであり、島津から知らせを受けた幕府は鎖国体制に影響を及ぼさなければ交易をしてもいい、という暗黙の了解を与えた。しかしそれを知らない首里王府は「物産が少ない」という理由でフランスの申し出を拒否した。フランス艦船が運天に滞在中、二人の船員が亡くなり、対岸の屋我地島に「オランダ墓」が残っている。
 1853年、アメリカのペリーが率いる艦隊が「日本開国」に先立つ約1年前に琉球を訪れ、条約の交渉をしながら詳細な地図を作成した。『ペリー提督の東洋遠征記』によると、運天港は「大琉球のこの美しい港」と表され、「運天村では良質の水が得られる」と記してある。その他山原の湾やリーフについて、詳しい記録を残している。
 
ペリーの図
 
 『水路誌』(明治の初期?)に「古宇利島と陸岸前面の礁脈との間、並に内方に於て屋我地島と陸岸との間にあり。後の部分は海峡の狭所にして、小船は運天村の安泊地得べし。外方錨地は深水なれども北風の暴露す。運天村は此近傍の主村にして多量の良水を得べく、且つ運搬便なり」とある。
 上杉県令は、1881(明治14)年11月からおよそ一ケ月かけて沖縄本島各地を巡回し、『上杉県令巡回日誌』を残している。今帰仁間切にも訪れ、番所、首里警察の分署、鍛冶場があることにふれ、更に百按司墓の白骨がむき出しになっている様子が記されている。翌年、百按司墓の修復について県令自ら内務省に文書を提出している。
 明治の三大探険家のひとりとされる笹森儀助は、青森県弘前の出身。1893(明治26)年48歳の時に「決死の覚悟で」琉球各地を探険し、『南嶋探険』を著した。運天にも訪れ、運天港を「沖縄第一の良港」とし、為朝伝説やオランダ墓についても記している。また百按司墓の修復がなされたことについてもふれ、三個の木棺の実測図を残している。
 「運天港に着く。羽地番所より二里四十間。該港今帰仁間切運天村に番所あり。該間切は二十ケ村より成る。本日経過せしは、羽地間切親川村々屋より十町にして仲尾村、拾町呉我村、拾三町今帰仁間切湧川村、一里天底村、拾町上運天村、二十三町にして運天村番所に至る。名護より四里八町、那覇より二十一里二十四町三間。
 運天港は湾口北に面す。干潮七丈五尺、満潮八丈五尺、東西四町十間、南北九町。東北六町を隔てゝ羽地間切屋我地島あり。周回四里。西北拾壱町三分三厘隔てゝ今帰仁間切古宇利島あり。周回一里。即ち船舶入港の針路にして、両岸に暗礁あり。故に港口狭く出入り甚だ危険となすも、港内安全にして汽船数艘を容れゝに足る。以て沖縄第一の良港と為すべし。神戸・鹿児島等より那覇へ航行の船舶、若し台風の虞あるは、必ず此港に避くと。之より以北は山嶺畳重にして、沿岸河川に小村落点在するのみ。而して物産少なく、運輸の便を欠く。然れども、本港の最良なるを以て往昔首里王城を名護に移し首里王城を名護に移し、運天港より南岸の名護、屋部川に二里間の運河を通じ、此港を利用せんと一時盛なる議論ありと云う」(『南島探険』2平凡社151〜152頁)。
 1922(大正11)年、運天森に源為朝公上陸之趾碑が建立された。石は1874(明治7)年国頭間切の宜名真沖で座礁したイギリス船のバラスト(船を安定させるための底荷)が使われている。書は東郷平八郎。時代背景や書を書いた人物から、為朝伝説が皇民化教育に利用されたことが伺える。1924(大正13)年運天隧道(ずいどう、トンネル)が開通した。そのころは海上交通から陸上交通への転換期で、そのことがトンネル開通につながった。トンネルができる以前は急な坂道を上り下りし、大変不便だった。人力で掘り、女性や子供たちまで工事に加わったという。1997(平成9)年、落盤の危険により大規模な改修工事がなされ、かつての面影を失ってしまった。
 1908(明治41)年、間切が村(リン)に改称され、それに伴い、今帰仁間切は今帰仁村に改称された。交通が海路から陸路に移ると、仲宗根が地理的に便利になり、1904(明治37)年郵便局が寒水(現玉城)に1916(大正5)年村役場が仲宗根に移動した。以後仲宗根が行政の中心地となる。
 運天港は日露戦争中には、燃料給水の補給基地として使用されていた。大正期〜昭和初期には奄美諸島(鹿児島県)や近隣離島との間の交通の要所となり、流通の中心地として畜産物・サトウキビ・黒糖などを取り扱っていた。大正初期には今帰仁村仲宗根に台南製糖の工場が設立され、工場までレールが敷設され、トロッコにより黒糖などが運搬された。
 第二次大戦末期には日本軍の高速輸送艇・特殊船航艇・魚雷艇の基地となったが、終戦直後は一時米軍輸送船艇団の駐屯基地として使用された。また、戦後しばらく続いたスクラップブーム時代に本土へのスクラップ積出港として利用されていたことは、三島由紀夫の「潮騒」からもうかがえる。
 昭和34年に仲宗根の台南製糖工場跡地に北部製糖今帰仁工場が設立されると、従来の運天港に隣接した上運天小字親川原に同35年仮岸壁を建設した。この岸壁は水深5m・長さ36m、1,000t級の船舶が出入りできる。この場所は浮田港と呼ばれたところで、仮岸壁の建設は、今帰仁村を中心とした国頭地方の広い農業地域を後背地とする運天港の機能を再開させた。同年4月には米民政府の援助で水深6m・長さ95mの2,000t級船舶接岸用埠頭の建設に着工、同年9月重要港湾に指定された。同38年埠頭完成と同時に今帰仁村が譲り受け、村営としての港湾業務が本格的に開始された。同47年の復帰に伴い日本港湾法が適用されたため県庁管轄に移行、同50年に開催された沖縄国際海洋博覧会の資材の陸揚場となったことから近代港湾として整備拡充がなされた。現在、ターミナルビル・保税地域・倉庫5棟・埠頭400mが完成し、水深7mの水路浚渫により1万t級船舶接岸用の岸壁がある。
 主な取扱荷物として、移出品にチップ・糖蜜・砂など、移入品に砂糖・資料・サイロタンク・空缶・空ビン・パイルなどがある。字運天にある埠頭は北東沖の古宇利島(今帰仁村)を結ぶ連絡船の発着、レジャー・漁業基地として利用されており、字上運天の港湾とも連絡されている。平成17年2月に古宇利島と屋我地島間に古宇利大橋が開通し、現在今帰仁村天底と屋我地島の間に架橋工事が行われている。
 
「船税及焼酎税書類」
(『沖縄県史』第21巻 資料編11所収)
 
那覇港に勝る運天港
 運天港は那覇港にも優るの良港と称す。然れども本港に定繋せる船舶は極めて僅少にして、輸出入共に他間切船に依ると雖ども、多くは那覇の往復に止まりて、他府県に航行して営業せんとするが如きものあるにあらず。遇々道の島に航行せんとするもの、又は道の島あり。那覇に航行せんとするもの風潮の為め、一時寄港することあるも其数実に僅少にして、故らに本港より酒類を買入れて脱税せんとするが如きは、目下の処にては之れあらざるべし。然るに本港湧川村沖に碇泊せる日本形船一艘あり。其在籍を問うに喜界島にして沖永良部島より来り、順風を竢て帰島せんとするものなりと。或は密に焼酎を積入したるやも図られざれば、必ず之を臨検せんとせしに、生憎強風雨に遇い之に近寄る能わず。遺憾ながら空しく本港を出立したり。


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