【運天港】
山原(北山)の歴史の柱の一つは今帰仁グスク、その次に上げるとすると運天(ウンテン)港である。12世紀初頭、源為朝公が「運は天にあり」と漂着したのが「運天」だという。オモロに「うむてん つけて こみなと つけて」と謡われ、15世紀(1472年)の『海東諸国紀』(琉球国之図)に「要津 運見」と登場する。
東側からみた運天港
1609年薩摩の琉球侵攻の時、沖縄本島上陸の足がかりとなった津(港)である。1609年今帰仁間切が今帰仁と伊野波(本部)の二つの間切に分割されると、今帰仁間切の番所は運天港に、本部間切は伊野波(後に渡久地)置かれた。近世末になると、バジル・ホールの来航(1816年)、フランス艦船(1846年)、ペリーの一行が運天を訪れ(1853年)運天港や付近の村の様子を文章や地図に残してくれた。
1742年に唐船が大島に漂着したとき、翌年1月運天港に引き入れ収容した。首里王府から様々な達しが出され、薩摩支配を悟られないようカムフラージュした港である。それと、薩摩への仕上世米を積み出す琉球国の四津口の一つでもある。
明治になると上杉県令や尾崎三良が訪れ、また笹森儀助、加藤三吾、菊池幽芳などが訪れ、運天の史料を残してくれた。大正になると運天にあった今帰仁間切(村)番所(役場)は、仲宗根に移され、山原船が主役を担った海上輸送の時代は終わりを告げた・・・。
「沖縄の歴史」に登場する運天港
山原の三津口の展示
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