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(二)徳川実紀(有徳院殿御実紀附録巻三)
 「徳川実記」は徳川将軍家の公式日記で、将軍個々の毎日の行動をつぶさに記録するものである。それに新居の三人が八代将軍吉宗公(諱名「有徳院」)にお目見えしたときのことが記されている。
 
 ここに諸国に米殻を運送することをすきはひとせる舟人等十六人。あるとき風濤の變にあひ。すでにあやうかりしが。からうじて一つの島にこぎよせしに。かへるべきたづきもなければ。岩根の藻草。または鳥魚などとりくらひて。あかしくらすほどに。はかなく年月も立て。廿年の星霜をぞ經たりける。かゝりし程に十六人の者共も多く死うせて。たゞ三人のみながらへしに。其後また風濤にあひし舟。此島に流れ來来りければ。ともに歸郷の事をはかり。みな打つどひて。あやしき舟をつくり。それにとり乗て。ひたすらに伊勢太神宮をいのりけるが。思ふ方の風さへ吹て。おもはずも八丈が島につきぬ。此島は代官齋藤喜六郎直房が隷下の地なれば。とみにこのよし訴へ申せしに。やがて江府に召れて。元文四年六月二日吹上の御庭に於て。かの舟人等を内々御覧あり。喜六郎をして。島のありさま。風土などくはしくとはせ給ひしに。いとよくこたへ進らせ。はじめ本國をのり出せし時たづさへし米券。銀錢などをも。うしなはずもちかへりしかば。かろき者には神妙のふるまひなりとて。もの多くたびて。故郷にかへされけり。はじめの三人は甚八。仁三郎。平三郎。後の舟人は留藏。武平次。庄兵衛といへりしとぞ。これ政にあまねく御心をもちひさせ給ふあまり。かゝる絶島の地の事までも。くはしくとはせ給ひて。政のたすけとさせ給はんとの盛慮ならんかし。(仰高録、享保盛典)
 
(三)(吉宗上覧についての証言)(1)異国漂着船話、(2)無人島漂着物語
 これまで上げた(一)、(二)、以外に、この事件に関しては、江戸城吹上御殿庭における世話役の幕府役人の聞き書きが(1)、救出者宮本善八船乗組員(岩手県宮古、花巻地方の人)からの聞き書きが(2)として書き留められているのも異例である。今のマスコミ的にと、これが当時全国的な関心が寄せられていたことを示す興味深く貴重な資料である。(1)には、公式な取り調べ以外で、新居人と吉宗が実際に言葉を交わした様子が示されている(東京商船大『異国漂着船話』第二冊)。(2)は岩手・南部藩の文書にあったもので、将軍上覧が江戸市中の評判となったことが語られている。これらはすべて山下恒夫再編『石井研堂コレクション江戸漂流記総集』第一巻(日本評論社・一九九二)に依存している。
 その(1)によると、将軍上覧が、将軍吉宗自身の希望(「達て(たって)御召し候につき」)によって実現した。平三郎への質問も吉宗が直接行なったもので、声が小さいから「近く寄れ」とまで言っている。まさに前代未聞のことだった。
 
 三人の者共、食事の様子、稲作事、一々御尋ね遊ばされ候、三人の者共恐れ入り、声静かに侯て聞き難く候間、近く寄り候様にとての義、恐れながら御前間近く罷り出で、段々様子具さ(つぶさ)に御物語り仕り候。
 一介の船乗りが、将軍に目見える(まみえる)ということは、驚天動地の出来事であった。三人の新居漂民は、眼(まなこ)がくらみ、面を伏せてはいつくばり、全身が震えおののいてやまない。吉宗はその様子をみて、深くいたわりつつ、面を上げ、近くに寄るよううながしたのだ。無人島での苦難の日々、とりわけ、仲間の船人が次々と斃れて(たおれて)ゆくさまが、涙ながらに語られると、吉宗の眼も、曇っていったに相違ない。稗史(はいし)が伝える吉宗の行状より推せば、英雄に涙ありの光景こそ、将軍上覧の実相を告げているようである。
(山下恒夫氏編著よりの引用)
 
 (2)は、その後、故郷、南部領花巻(岩手県)へ帰った宮古出身の船頭脇(せんどうわき)(楫取り)庄兵衛(鳥島での最初の三人の発見者)が故郷で話したことを書き留めたもので、それには大坂仲間廻船総勢十七人の名前や生国も記されている。それにより当時の廻船乗組員が全国各地出身であることも分かり、その中で故郷で喋ったことにかなり真実味がある。
 
 在島中の事柄に話が移ると、庄兵衛はたまらずもらい泣きした。新居の人達は、船頭左太夫が存命中は、「心強く御座候処に、相果て候後は猶(なお)かなしさまさり」、病死する者、あるいは、故郷を恋い慕うあまり、「水ぇ入り相果て候もあり、又頭を岩ぇ打付け果しもあり」にて、とうとう三人のみが生き残った。中でも無惨をきわめたのは、増水主(ましかこ)の伊豆国者の話であった。その増水主は、生き仏となって果てたのである。
(中略)
 分けてかなしき事は、伊豆の人、宮古より便船にて此の島に来り、明暮れ古郷の事を恋しく、磯辺ぇ出でなげき居り、或る時、岩穴を掘り、我々に申す様、我等も此の年迄露の命を繋ぎ、若し(もし)も故郷ぇ戻り候かと、仏神祈り候へども、其のかひもなし、最早(もはや)古郷ぇ帰る事叶ひがたなく思ひ定め候間、岩穴ぇ入り申す也、穴の口を石にてふさぎ給ふべしとて、穴ぇ入り申す也、命さへあらば古郷帰る事あるべし、平(ひら)にとどまり給へと、色々いさめ候へども、思い定めし事なればとて、岩穴ぇ喰事を立〔断〕ち、終(つい)にむなしくなり候事ゆへ、せんかたなく、穴の口を石にて組ふさぎ申し候。
 
 それから庄兵衛は、新居漂民の中で一番年若だった平三郎が、非常に器用な男で、流人生活を支えたことを明かしている。
 
 遠州三人の内、平三郎細工人にて、島に居り候内、穴の口ぇ障子冑(ママ)を折紙はこれ無く、彼の鳥皮を能く(よく)さらし、薄拵へ(こしらへ)張付け申し候、島にて水を溜め申すべきために、桶屋道具の様なるもの迄拵へ、すへの木の皮を取り、夏帷子(なつかたびら)に織り、三人着し申し候。
 
 また漂民の上着となったアホウドリの羽毛付きの衣も、平三郎の考案によるものだった。平三郎は助けてくれた宮古の庄兵衛達と江戸で別れる時、御礼に新居の船頭左太夫の遺品であった「祐天和尚の六字の御名号、果碩和尚御作長二寸弥陀の立像」を譲り渡したという。さらに庄兵衛は、将軍吉宗上覧の報が、たちまちにして、江戸中の大評判となって、「江戸堺町芝居にいたし、大当りに御座候由」ことも記している。
 
(四)新居町方記録抜粋(『新居町史』第五巻 元文四年五月十六日から寛延三年十二月まで)
 「新居町方記録」は公式名称でなく、新居奉行所(正しくは新居関所奉行)に残されていた、新居宿の人の出入りに関する届け書で、新居町では昔から「御用留」と言っていた。それが元文三年から明治四年まであって、関所に保管されたのは、幕末新居宿の戸長で国学者でもあった、泉町の本陣当主飯田武兵衛(温徳)の功績である。その内容は、町民の日常の様子が事細かに記された、全国的にも貴重な資料である。『新居町史』五〜八巻に収められているなか、ここに第五巻から「漂流者」に関する部分を抜き出して再録する。五月二十五日新居帰着からその後の三人の様子が詳細であることに驚く。最後に参考として、元文五年「吉宗」死去に当たり服喪の公儀触書までを抜粋して示す。
 
(1)泉町五兵衛の廻船水主三名帰還につき風聞の覚書
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