第3章 海上交流と坊津一乗院
坊津の文化的シンボル「一乗院」は、国内各地を結ぶ寺院ネットワークの中で、港湾「坊津」とともに繁栄しました。
一乗院仁王像(坊泊小学校正門横)
一乗院上人墓地(坊泊小学校裏)
坊津一乗院は、坊浦を望む傾斜地の中腹に所在していた、日羅創建の伝説を持つ真言宗寺院です。中世以降とみられている実際の創建年代の詳細は不明ですが、南北朝時代以降の諸史料によって、その具体的な姿が明らかになってきます。
16世紀に入り、戦国大名島津氏の祖となる相州島津家の島津忠良(日新斎)らが、南薩摩を拠点に勢力を拡大していく中、対外要港「坊津」に所在した一乗院と相州島津家との緊密な関係が、様々な史料からうかがわれます。このような情勢下、一乗院は天文15年(1546)に、後奈良天皇により勅願寺とされています。『上井覺兼日記』には、一乗院十世典瑜による祈祷の記事が見え、様々な祈願を行う密教寺院として、島津氏の崇敬も篤かったようです。
江戸時代後期頃の坊津一乗院(『三國名勝圖會』より)
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『三國名勝圖曾』の挿絵に描かれた、江戸時代後期頃の一乗院の姿。本堂・客殿・護摩堂・方丈・五仏堂・鐘楼・宝庫・閼伽井などの記載が見える。本堂は板葺きで、宝庫は火事よけのため瓦葺とみられる。現在、坊泊小学校の校門横に雨さらしで立つ、一対の仁王像は、もともと上図のように、仁王門(山門)の中に安置されていたことなどがわかる。
また一乗院は、薩摩藩屈指の有力寺院として、藩内各地に多くの末寺を抱えていました。一乗院の末寺としては、開聞山普門寺瑞應院、金峯山観音寺金蔵院、水晶山花蔵院上宮寺、明星山淨蓮院杉本寺などが挙げられます。
明治2年(1869)、廃仏毀釈により一乗院は廃寺となり、取り壊されました。現在、寺跡(坊泊小学校)には、歴代上人の墓や、石造りの仁王像などが残り、当時の面影を今に伝えています。昭和56年の発掘調査では、中国明時代の陶磁器等が多数出土しており、海上交流の全盛期における一乗院の繁栄がうかがわれます。
寺の諸物の多くは散逸し、「絹本著色八相涅槃図」(国指定重要文化財)や、古文書「坊津一乗院聖教類等」、山号を記した「扁額」(鹿児島県指定文化財)などが、わずかに残るのみです。
一乗院跡出土中国産(明代)陶磁器
扁額「如意珠山」
坊津一乗院の仁王門に掲げられていたもので、山号「如意珠山」の文字が記される。 |
絹本著色八相涅槃図
坊津一乗院に伝世していたもので、鎌倉時代末期頃の作品と考えられている。 |
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