H17.5.22(日) 祠の修復
阿部貞任の祠の修復
日本財団の助成を受け、下宇津区長庄野勇夫氏はじめ、地元の有志が集まり祠の奉納を行った。平安時代の勇者が下宇津地区を見守ってきた「貞任峠の祠」。うっかりしていると通り過ぎてしまいそうな程小さな祠は、長い歳月の間に何度も風雨に晒されたせいか酷く傷んでいた。頭痛に効くと、線香が絶えなかったとの言伝えがあり、ご先祖の方々が、いろいろな想いや願いの中で大事に護ってこられたのではないだろうか。野道を踏みしめながら、地域の方たちと草木を取り除き祠を新調した。
祭典は御霊移式を行い、下宇津八幡神社の宮司さんの祓が行われ、次に地域代表者による玉串奉納が行われた。
また同年5月29日には風雪に耐えるようにと、小屋を新調。NPO法人フロンティア協会のメンバーが参加協力した。
前九年の役(平安時代・1051〜62)で、源義家によって討たれた安倍貞任の亡骸を都の陰陽師が、東西南北に川のある土地に埋めるように占った。そこで、体を七分して七ヶ所に埋めた。亡骸を切った所を「切畑」(京北弓槻)と云い、頭を葬ったのは、貞任峠。肩を埋めた高谷。足手山。人尾峠など、貞任にまつわる体の部分の名が付いた。
ところが貞任の怨霊が村人や往来の人に災いをなしたため、源義家が九州の宇佐八幡より勧請して貞任の霊を祠るのが、宇津の八幡さんであるという。
衣川の戦いで源義家が対戦している貞任に
「衣のたては ほころびにけり」
と歌を詠むと、貞任が
「年を経し 糸の乱れの 苦しさに」
と歌を返した伝承(『古今著聞集』)がある。安倍貞任は文武両道をわきまえた東北豪族の武将であった。
古道の修復作業
午前9時、下宇津地区「下浮井(しもうけ)」に集合。地元の方5名、NPO関係11名が参加。古道登り口に移動し、徳丸氏と庄野氏の挨拶と各自紹介の後、頂上・中間・登り口の3班に分け、地元の方指導のもと作業にかかった。
草刈、ガラ場の修復・道標杭打ち・歩道の階段を修復作業した。今年は空梅雨のため、気温は30度(市街地では34度)を越えている中での作業となった。日頃使わない「ツルハシ・スコップ・かけや」を使い・・・。地元と「ソト者」が汗を光らせながらの作業を行い、約1kmの古道の修復を完了した。
作業を進めながら地元の方々のお話を伺う事ができた。
・昔は(昭和初期)世木の集落から下宇津の集落へはこの道しかなかった。学校へ行くにも、買物へいくにもこの道やった。
・わしなんか、殿田(日吉町)へ自転車買いに行った。うれして、二人乗りでこの坂下りた。
・生活用品も、嫁もらうのもこの道を歩いて来たんや。今は便利になって、こんな道通る人おらんわ。山も仙(そま・山師)も育たんわな。しんどい思いして、売れへんのやから(材木が)。倒れても、折れてもほったらかしや。もったいないけど、しょうがないわ。やろ思ても年寄りばっかりでできひん。
歩くのが精一杯の所を自転車や荷物を担いで行き来していたなんて・・・。50〜100年かけて育てた「木」が林業不振で二束三文とは・・・。
頂上付近からの眺望はすばらしく、下宇津全体が見渡せる。眼下には桂川が東から西へ蛇行しながら、ゆったりと流れ、山間の杉木立に消えて行く。川と山に囲まれた集落は真中に道路が走り、その間に集落が点在している。峠の祠付近は、下宇津から貞任峠へ吹き上げる風が爽やかだった。日吉ダムのお陰(?)で橋や車道が整備され、往来は楽になったが、失ったものも大きい。下宇津峡と言われ、急峻だった渓谷は、今、穏やかな川になってしまった。
「昔は、辺ヅリの道やった。そんで、この峠を越えてたんや。その時分は、雨が降ると家が浸水してた。水害には泣かされたんや。」
地元の方は言葉少ない。年輪を刻み日焼けした顔から「にっこり」と微笑む顔が印象的だった。
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