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三、天台山瞥見
 翌二五日は、朝から雨。陶君の父君の運転で、天台山に向かう。寧波の南西、高速道路を約二時間の旅である。
 天台山は、数百から千メートルくらいの峰々が連なる天台山脈の主峰、最高峰は華頂山ともいい、標高一一三八メートル。古くから道士・隠士が多数住し、仏寺も多く建てられたが、陳の太建七年(五七五)智(ちぎ)が、ここに入山して以来、中国天台宗の根本道場になっている。天台宗という名も、山名に由来した。
 天台山の南麓にあるのが国清寺である。智に帰依した階の晋王広(のちの煬帝)により、開皇一八年(五九八)に創建・命名された。智没後、弟子らの努力や煬帝の国家的保護で、天台宗の根本道場となる。九世紀の初めに、伝教大師最澄が入唐し、智から数えて七代目の道邃と行満に教えをうけ、帰国後比叡山に延潜寺を建て、日本天台宗を開く。その後、日本からは、平安前〜中期の円珍・円載・成尋ら天台の僧だけでなく、平安後期〜鎌倉期の栄西・道元らの入宋僧も詣でている。
 
写真5 天台山の霧とマメザクラ?
 
写真6 雨中に灯明を点す参詣の善男善女
 
写真7 国清寺大雄殿
 
 我々は、まず佳景幽寂の地として名高い、天台山の山容を感得しようと、国清寺四周に連なる五座の山峰のうち、寺背後の八桂嶺、海抜三四四メートルに上がることにした。寺の門前から山頂を目指し、車でどんどん登っていった。折からの雨で谷水は黄濁していたが、山霧が山腹をつつみ、あたかも山水画を見るごとき勝景で、そこここに梅がほころんでいる。と思いきや、日本でいうマメザクラに似た桜種の低木であった(写真5)。道が狭い上、霧がだんだん濃くなる。運転者のご負担を考え、途中で中断、下山することにした。
 再び下界に降り立ち、いよいよ国清寺を参拝する。寺域は天下四絶の一つに数えられている。その日もバスに分乗した、参拝客の群れが押し寄せていた。寺前の豊干(ぶかん)橋を渡ると、寺の外壁は皇帝の色である黄櫨色で塗りこめられている。
 当寺は、会昌の廃仏(八四五年の仏教弾圧)で焼失したが、大中五年(八五一)に再建され、宋代景徳二年(一〇〇五)に景徳国清寺と改称された。現在の伽藍建築群は、清代の雍正一二年(一七三四)に再建されたものが、主になっているらしい。
 伽藍の配置は、中軸線に沿って、山下から弥勒殿・雨花殿・大雄宝殿・観音殿の順でならび、雨花殿の左右に鐘楼・鼓楼が建つ。さらに東に一軸、西に二軸、それぞれ上下に多数の堂塔楼がならんで建っている。
 弥勒殿を通りぬけると、雨花殿との間の狭い空間に出るが、ここでも、参詣した善男善女が、降りこめる雨中で、赤いロウソクまたは巨大な線香に火を点じ、次々と、懸命に祈っている(写真6)。五体投地する人も珍しくない。その熱烈敬虔さには、思わず感銘を覚えた。
 大雄宝殿は、国清寺の最主要の堂舎である(写真7)。その本尊は、明代鋳造の釈迦牟尼、連弁座を含め高さ六・八メートルという。背面の壁には、ここにも海島観音像が、殿の両側には元代の十八羅漢像がならぶ。
 大雄宝殿と東の梅亭の間の小路を抜け、裏の一段高いテラスに上がると観音殿があり、振り向けば、かなたに高さ約六〇メートルの六角九層磚(せん)塔が見える(写真8)。創建時のものと伝えるが、会昌の法難で損傷したのを、南宋の建炎二年(一一二八)修理したものらしい。
 観音殿中央には、千手千眼の、日本では見たことのない奇妙な姿をした観音菩薩像が、大慈大悲を表している。同じテラスの東には、中日宗祖師碑亭があり、なかに一九八二年日本の天台宗が、智や最澄など天台宗の諸祖顕彰のため建立した三つの碑(裏表六面)がならび、日中両仏教界の友好交流の精神を表していた。
 
写真8 六角九層磚塔遠景
 
写真9 天一広場風景
 
 限られた時間であったが、ともかくも国清寺に参拝し、今回の調査旅行のいま一つの目的を達した。帰路は同じ高速道路を、寧波に向けてひた走る。山地にかかる斜面では、茶樹が印象に残った。とくに当地の茶は中国随一の質量を誇る。
 栄西は仁安三年のほか、文治三年(一一八七)にも中国に渡り、臨済禅とともに、宋代の新しい飲茶の文化をもたらした。それは唐代の団茶(茶を固形状にしたもの)と異なって、今日飲まれている抹茶とほぼ同じ茶を用いたものだった。栄西はとくに養生の効果を強調し、『喫茶養生記』を著した。
 寧波に帰還した後、城市展覧館に行き、二階の歴史展示などを見学し、建物の前をゆうぜんと流れる甬江と、両岸にねっとりとたまった河泥の様子を、観察する。
 夕闇迫るころ、旧明州城内の東側市街を少し歩いた。ここは商税務や市舶司の庁舎が特設されていたほか、薬屋、木凡家具屋、金属・皮革の加工業、絹織物の町、波斯(ペルシャ)団もあったところである。ここも近年再開発され、天一広場と名づけられ、広大なショッピングモールになっていた(写真9)。
 来るたびに見違えるほどの変貌を遂げる中国、カラフルで、屈託のなさそうに見える大都会の若者の群れと、国清寺境内で雨中一心不乱に祈念していた、あまり裕福には見えない田舎の老若男女たちの姿との間の落差、このコントラストが今後招来する事態を、どう予想すればよいのか。海事についてのたくさんの知見と印象をえるとともに、現代を考える視点を新たにした、刺激に富んだ慌ただしい旅行であった。
 今回の調査にあたっては、神戸商船大学後援会より多大の援助をえた。記して深謝したい。
 
主たる参考文献
斯波義信『宋代江南経済史の研究』東京大学東洋文化研究所、一九八八年
斯波義信「港市論」『アジアのなかの日本史』東京大学出版会、一九九二年
丁天魁主編『国清寺誌』華東師範大学出版社、一九九五年


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