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附録
(一)他前松島与肥後川尻迄海上 卅ハヲ
(二)椛嶋与京泊迄薩摩路并日向路海上 卅六ウ
(三)茂木与肥後川尻迄之海上 四十四ヲ
(四)豊前小倉与薩州鹿児嶋行程 四十ウ
(五)同小倉与筑前福岡迄金井手越道 四十五ヲ
(六)筑前与赤間越小倉迄行程 四十七ヲ
(七)同福岡与肥前長崎迄行程 四十八ヲ
(八)肥後熊本与八代迄行程 四十九ヲ
(九)豊後道中府内与熊本迄行程 五十ニヲ
(十)肥前轟木与長崎迄行程 五十三ヲ
(十一)長崎へ肥前通り行程
(十二)肥後熊本与肥前佐賀迄行程 五十四ヲ
(十三)佐賀与唐津迄之行程 同丁ヲ
(十四)唐津与福岡迄行程 同丁ウ
(十五)肥後熊本与長崎迄行程 五十五ヲ
(十六)小濱与長崎迄之行程 五十六ヲ
(十七)唐津与長崎迄之行程 同丁ウ
(十八)大坂与長州下之関迄行程 五十七ウ
(十九)長州下之関与奥州迄北海舟路 五十八ウ
(二十)大坂与江戸品川迄東海大廻舟路 六十一ヲ
(廿一)昼夜長短并月之出入付汐差引知死期 大尾
 海路は大阪から九州までの本文と附録の(一)(二)(三)(十九)(二十)である。
 目次の次に海上分見と題し主要港入津路を掲げる。「播州姫路高砂の川与入る 備前岡山牛窓を過て右の方川により入る」の如くである。第7丁から「汐路之記」の標題があって本文になる。傍頭部分は次のとおり。
 大阪与尼崎へ三里 摂津 川口の左右を安治川富嶋と云南浦に瑞見山有 御番所享保六年の冬御免今ハなし大坂与―里下北へよりて家村有伝法と云(増補版は以上の部分を別文と差し変える)
 尼が崎与西宮へ二里 松平遠江守殿御城下知行四万石大物の浦とも云大坂与西北にあたる 西の宮与兵庫へ五里 蛭子の宮有此間右の方松山の内摩耶山観音有あふぎへ一里打出あしや見かけ〜又一里生田の森是与おくに布引瀧有脇濱へ又一里(増補版は生田森と脇濱との順序を正しく入れ変える)神戸へ又一里舟持多し
 「国書総目録」には、増補を角書とし、別名に東海北海西海南海増補日本汐路之記があるという。高田政度編、版本に明和7年版、寛政8年版、寛政12年版、刊年不明版があるとする。元文3年版が抜けている。増補版については明和7年版は未見である。寛政8年(1796)版によって代表させる事とする。
 (6)「増補日本汐路之記」は外題を「改正新板増補日本汐路之記」(改と新板は角書)とする。見返しに寛政改補新板とあって「東海北海西海南海(角書)増補日本汐路之記」とある。叙は明和7年、高田政度編述のもので「汐路記たゞ西海を挙て東海に及さず、閲者遺憾なくんバあらず、予故あって余多の船翁と親しく交る事都て四十年、習熟するにハあらされども、朝に馴夕に問ふて略見聞するに任せ 普く船翁に課りて海路行程磯嶋瀬戸灘等の難所 湊の善悪より津々浦々の汐かゝりに至り遺たるを拾ひ図を補ふて 増補日本汐路記と題し小冊として捜覧の便とす、所謂霧海の南鍼なるものなり」と云う。図を神ふてとあるが図は無い。
 叙に言う如く増補版は元文版の前に次の三船路を追加したものである。
 大坂与江戸着東廻り之記
 江戸与奥州南部迄北国廻り之記
 下之関与津軽青森迄北国廻り之記
 増補版全129丁の内85丁が実に増補分であり、殆んど別の書と言うべきものになっている。但し元文版の本文及び附録の(十八)までは冒頭の1丁分を除けば全て元文版と同板木を用いたものである。増補版では元文版の(十九)以下が削除され、新たに風雨を知る事、潮の満干、諸願成就日(以下3丁分)が添えられる。
 (7)「大日本海路図」は上下2帖の折帖で、外題に各々「大日本海路図東南上」「大日本海路図西北下」とある。上巻43丁、下巻80丁、天保9年(1838)求板、同13年(1842)改補とある。上巻は浦辺順覧東海路之図、南洋涯方角之図の二部から成る。東海路之図は松前から品川までで、上段に港名所潮等の説明があり、下段に海岸沿線が描かれている。南洋涯方角之図は江戸から大阪までの海路で「海路の目当を要とし、とりわけみなとの方角出崎の針筋を明確にした」ものである。いづれも合紋で上り湊下り湊小湊嶋瀬磯を表わす。船路は記入されておらず、上段の説明文は天地が逆になっているものが交互に配されている。南洋涯方角の図については安全丸才吉撰とし、宝暦2年(1752)9月紀州目方浦の才吉述ともある。
 下巻は西海地方出崎入海見当方角と北海湊方角之図との二部から成る。前者は大阪から長崎までの西海路、後者は下関から松前までの北海湊方角図である。上巻とは紙面の構成が異なり、全面が絵図になっており余白に簡単な説明が書き込まれる。船路は点線で示されている。北海湊方角之図については日野屋船愛染丸撰、明和4年(1769)長莎館沢田呂少誌とある。
 本館蔵のものは天保5年求板、同13年改補とある須原屋茂兵衛、秋田屋大右衛門他の板のものである。初版ではないのだろう。上巻と下巻とでは絵図の扱い方、記述方法の相違、記述内容の多寡等が異なる点は妙である。但し板下は上下巻共に同一人の手になるものと思われる。上下巻合わせて4部から成り、その2部についてのみ撰述者が記されている点も成立事情の複雑な事を思わせる。南海と北海とは夫々安全丸、愛染丸の船頭らしい人物が記される。上巻末に「日本船路細見記」といふ小本有、引合せ見給ふべし」ともある。「日本船路細見記」は「日本船路細見記」の事だろうか。否、天保5年の時点では未だこれは刊行されていない事になっている。埋木で後に補ったとも見えない。一般的にはこうした書には何か先行書があるものである。本書の場合も一挙に解決とはいかないものの都合良く先行書がみつかる。元禄15年(1703)に「大日本船路細見記」が出版されている。「南洋湊方角之図」が宝暦2年(1753)に刊行、「北海湊方角之図」が明和4年(1767)に刊行されている。「大日本海路図」上下2帖はこの2書に他の資料を継ぎ足して出来たものと思われる。
 近世に刊行された船路書では「日本汐炉之記」と共に「日本船路細見記」が著名である。売れ行きもよく何度も再版され改正版も出ている。明治になってからも改正増補版が作られた。本書の成立事情も上記「大日本海路図」と同じような経緯がある。「東西船路名所記」がその元本である。
(8)「東西船路名所記」は天保8年(1837)序、天保9年改刷とある小本1冊である。内容は「日本船路細見記」の後半部に相当する所と全く同じであるが、こちらが先になる。雅文調の序があり、天保8年濳龍書屋美啓誌とある。
 序に次いで西海路方角全図が見開きで描かれ、2丁ウから船路名所記の本文がある。8丁目までは青と黄で彩色された美麗なものである。本文は「京与ふしみまで三里たかせふね有 伏見京橋与大坂京橋へ船路十里」から始まって薩州の「あくね与京どまりへ五里」までが34ヲまであり、瀬戸路の事、長州下の関与北国船路(港津里程のみ)が1丁半付される。丁付は35ウまでで、これ以下には柱に丁付がない。記事は「日本船路細見記」にも見える。船玉御神像、難波津内海之図、諸国之船大坂着場所、泰平諸侯御船鑒、船中の心得并を妙術妙法数ヶ条、船玉大明神御神験、広告、口演がある。泰平諸侯御船鑒の部分に「天保9年成八朔改」の記事が見える。
 奥付は関西船着発行書林として摂津から薩摩までが列挙され、天保9年8月新刊とあって、江戸、京、堺、若山、大坂の版元書林が列挙さている。詳細はいづれも次の「日本船路細見記」の所で触れる事にする。
 (9)「日本船路細見記」小本1冊は、「国書総目録」には角書を改正、別名を東海船路道中記、美啓編とあり、版本に天保12年版、天保13年版、刊年不明版があると記載される。本館には嘉永4年版があるので他にも別版のある可能性がある。天保12年版は未見。天保11年(1840)刊の「改正東海舟程全図」には「汐路之記」と共に「船路細見記」が引用されている。これが本書を指すものとすれば天保11年あるいはそれ以前に刊行されている事になる。刊年不明版が初版であろうか。
 天保13年版では題僉外題を「改正船路細見記」とする。但し見返しには「改正日本船路細見記」とある。脇題僉が付され本書の構成内容が一目できる。江戸時代の代表的船路書として需要も多く船路書の集大成的な書である。船路誌がどのようなものであったかが分かるので脇題僉の目次を上げておく。なお見返しには天保13年美啓誌とあり、「船時計、夜時計、日時計、潮時計。出鼻浦々之針筋及針盤用法。嶋々船着都之地名、日和之見様、汐掛浦辺之善悪、満干之遅速、其外船中之重法不残記焉」とある。目次を上げる。
船玉の御神像(神像図及び船玉祓祝詞)
難波津内海の図(大阪湾船路図、松川半山画)
諸国の船大坂着場所(北前船、塩船、魚船、江戸廻船、菱垣船、樽船、金比羅参詣船、上荷船、茶船、新三十石船、貸御座船の名が諸国船と共に上がる。安治川口図)
諸大名御船印(泰平諸侯御船鑒とて川口の御座船図があり、天保古之春御邦改正と傍書する。中国、四国、九州大名の船印、帆幕絵図)
風雨の見やう(風雨日和予知、風名図)
磁石船時計の図(南鍼之円法、二十四位方針之図)
浦々御高札の写(異国船に眤むを禁ずる高札)
大阪与江戸迄南海乗筋 十一丁目
江戸与青森迄東廻り乗筋 廿三丁目
下の関与松前迄北海乗筋 卅三丁目
京与大坂迄川筋陸路 四十五丁目
(序)
(西海路方角全図)
大坂与長崎迄西洋乗筋 四十七丁目
長崎与肥後さつまへ乗筋 七十四丁目
長崎与大坂へ道中名所付 七十八丁目
取梶おもかぢの訳(船の詞説明)
汐にて食たく法
大日本船路一覧(松前から釜山までの船路表、里程を記す)
夜中に星時計(磁石と破●星によって時刻を知る法)
船中の15得并ニ妙術妙法数が条(漂流人の15得、風難風に逢人の15得、船に酔ざる妙法、苦舟を救ふ法、酔轎をさます法、山路に泥て恍惚を治す法、落馬及墜落を済ふ法、洋中の心得)
(瀬戸の覚、明石岩屋瀬戸、阿波の鳴門化)
諸国の汐さかも(潮流変化のこと)
浦々にて汐時計(諸国浦々潮時計、月の出入、潮の指引)
測景日時計(重法日時計)
■標流を遁るゝ法(磁石によって方位を知る法逆磁石の法)
■方針ニ間三角并方向分量之図(船用逆針ニ問三角を諭す)
■東廻り針筋図(処江戸青森迄東廻り)
■南廻り針筋図(大坂与江戸迄南海廻り、大坂から浦賀まで)
■西海日向廻りの図(佐賀関より下の関迄、九州大廻り)
■(海上乗分ケ、いよぢ嶋間西海下り、岩屋より下の関迄、九州大廻り)
■北廻り針筋図(従下関松前迄北国廻り)
年中日和考(年中日和の梗概)
船玉の御神験(猿田彦大神、敏馬神社、石見国神 山の大神 隠岐国焼火権現、奥州塩竈大明神の事跡)
 以上が104丁の本文である。印は「東西船路名所記」と同文のもの、■印は増補分である。記事があるものの目次にない項は括弧を付して上げた。
 本文の次は後書と奥付とである。先ず、大坂九之助橋壱丁目、秋田屋良助本店の書粥緒言(ほんうるこうじゃう)一啓、二啓がある。二啓に「諸国うらうら廻船筋瀬戸嶋々沖合より地方目あての山々をしるし、或はその湊のよしあし水底あさ瀬洲のあるなし、あるひは汐行風うけの心得、方角針筋じしゃくの居方、洋には漂流のなんをさけ、磯にははやしの患をのぞくの要をつくせり云々」という。
 次に「口演」と題する文章がある。時の経過で地形の変わることもあるゆえ、記事と相違があれば書面を以て知らせて欲しいと云うのである。天保13年7月補正、仕入元秋田屋良介の名である。口演の次に「浦辺巡覧大日本海路之図改刻出来」の広告があって、やっと奥付に達する。
 この奥付が凄まじい。見開き1丁分の上段には東西船着発行書林として、摂津尼崎兵庫、播州姫路赤穂、備前岡山、備中玉嶋倉敷、備後尾道福山、芸州広島、防州徳山、長州萩、筑前小倉博多、肥前長崎、肥後熊本、薩州鹿児島、日向延岡、土州高知、予州松山今治、讃州丸亀高松、阿州徳島、淡州須本、紀州若山、泉州左海、勢州津、尾州名古屋、常州水戸、越後水原の書肆が上がっており、下段には江戸大坂書林版元に江戸は須原屋他4店、大坂は敦賀屋他21店が列挙されている(「東西船路名所記」では上段の泉州以下はない。下段では江戸2店、大坂21店、京1店、堺1店、若山2店が上がる)。
 「日本船路細見記」は「東西船路名所記」の増補版である。両者の本文が重なる部分は同一板木を用いているのである。「日本船路細見記」は既刊の「東西船路名所記」の前に東海船路道中記として、大阪より江戸まで、江戸より青森まで、北海船路の下関より松前までを追加し、その他針筋等を増補したものである。西国船路の記事も実は「西国船路道中記」の本文の冒頭部分を少々修正しただけでそっくり受け継いだ体のものである。口演の所で読者に対し書面による修正情報を求めているが、よう云うわという感じである。
 「日本船路細見記」の増補された東海船路等はどこから来たものか。新たに執筆編集されたものなのだろうか。これも「日本汐路之記」の本文を拝借したものである。両本文を対照して掲げればよく分かるが、ここでは遠慮すべきであろう。これが当時の本の造り方である。杜撰とは言えない。「和漢三才図会」の如き書でさえ既刊の、時には最近刊行されたばかりの書をそっくり引用しつつ編集しているのである。
 (10)「海陸道中画譜」小本1冊、橋本玉蘭齋画、東都金辛堂板は不思議な書である。序に「永福閣東講の群に入り伊勢両宮を拝せしより久しく浪草に遊びつゝ、夫より中国九州を経て肥の長崎まで巡歴しつ、帰さは水路を大坂迄来し、其海陸の名所々々を細かに写しものせしを、常は座右に閣きてつれづれの折ハ出し見るに、居ながらにして其所に再び至て見る心地せり、(中略)大坂より下の関までを一縮とし、次編は両海道を経て長崎までをあらハさんとす 橋本玉蘭齋」とある通りで観光案内図である。大阪より防長に至るまでの瀬戸内を船路経歴する構図で、全丁絵図のみ、説明文は無い。陸地には城名所等が描かれ、瀬戸内海上には何処にも船が浮かぶ。青で彩色された絵は悪くはないものの延々と特色のない土地々々が連なっていて、そこがどこであってもよい様に印象が薄い。巻末に地図が折り込まれている。本館蔵本は端切。この書は「国書総目録」にも未登録でちょっと珍しいものである。次編から刊行されたか否かも不明である。「金比羅詣海陸記」(安永7年刊)などがこれに類似したものである。版元は京都書林菊屋七郎兵衛、勝村治右衛門、大坂書林河内屋喜兵衛、敦賀屋九兵衛、河内屋茂兵衛、江戸書林須原屋茂兵衛、山城屋佐兵衛他8店。刊年は不明である。
 (11)「新増大日本船路細見記」は「日本船路細見記」を基本にして明治時代向けに添削編集し直した書である。横小本1冊。銅版刷。明治6年刊、同9年再版。加藤祐一補訂、正樹斉美傭吉、松川半山画。版元は斎橋書肆積玉圃柳原喜兵衛である。御命令を転載し、横浜貿易場繁栄之図等を加え新味を出そうとしているものの、船路記そのものは旧文に明治後の記事を付加するばかりで、全国的には旧作を踏襲したものである。巻末の大日本蒸気船諸国通船并船宿名前附に、大日本蒸気船三菱会社、日本国郵船汽船会社等の名が登場し、明治初期の状況が窺う事ができる。
 
 冊子本及び小型の折本については以上のようである。以下は落ち穂拾いである。
 船路図と絵図・北図・案内図等との差は曖味である。瀬戸内海船路図と外題があっても中味は沿岸図のみのものもある。沿岸図に針筋を記入しただけのものもある。
 「象頭山詣紀州加田ヨリ讃岐廻并播磨名勝附」「象頭山詣道の記」など1枚刷の観光参詣案内図がある。特定の絵図ではあるが内海の船路が記されている。これらは強いて船路図として扱う必要はなかろう。「金比羅詣海陸記」(安永7年刊、大坂吉文字屋市兵衛、同柏原屋与左衛門板、は折本1帖、表紙共全35丁の書である。「陸地ハ摂津より播磨備前備中路を歴て児島の下津井へ出る迄路程五拾壱里半の間、駅々立場駄賃附道筋の名所旧跡、又船路は大坂川口より讃岐丸亀迄の海上路程五拾三里の間、乗がゝり湊々沖間の嶋々名所、猶讃州地にいたりてハ金毘羅山諸堂由来并順路の参詣名所旧跡等迄委敷書記云々」とある凡例が内容をよく伝えている。安治川口から下津井まで、下津井から丸亀までの沿岸船路、沿岸地域と島嶼が細かく描かれて、上欄に簡略な説明がある。
 「自赤間関至萩海辺図説」(弘化3年写、1冊)は巻子本或は折本にしても似合う冊子である。方眼を描き、それに従って極めて詳細に海浜島嶼が描かれている。但し船路は記入していない。地図には国境、群境、浦(番処・烽場・家・汐時)、嶋(烽場・汐時)、洋(汐時)、港(汐時)、海門(汐時)、礁(托)、淺沙(托)、洲、取、落匐、里程を合印で記入する。小船中船大船の通路を極部分的に描く。小船は7、8石から14,150石まで、中船は2,300石まで、大船は7,800石以上とある。
 絵図の次に港、船路、浦、洋、海門。島嶼、岬、硯洲、見積表、見積度、里程を一覧表にして解説する。
港 伊碕 何風ニモ繋クヘシ
竹子 匐泊リト云、何風ニモ繋クヘシ、北風ニハ入江フカクツナクヘシ
船路 小瀬門 舟ヲ出シテ観音崎ヲ立行ク事一里計 舟竹ノ子六連二并フ 又行ク事三里計ク舟眼サキニ并フトモ水嶋ゼ沖ニアリ 黒嶋井硯北ニアリ 又行リ事二里計観音崎二并フトキ蓋井沖ニアリ 南風ニテ行
のようである。船路の説明はあるが、表題通り海辺を図示する事に主旨があって船路はその一要素に過ぎぬものである。軍事的目的のために作られた冊子であろうか。
前編終


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