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おわりに
 昭和二十四年十一月二十三日、日詰の白梅館において、日詰町町制施行六十周年の記念して岩手大学教授森嘉兵衛先生の講演が行われた。演題は「日詰の発達史を中心に」である。先生は日詰の町の明治以降の衰退現象について「近代日詰の不振の原因は、交通の不便、主要産物、特に産金の激減、豪商の相次ぐ倒産その他の悪条件の累積で人口の移動があった」と述べている。そして日詰の町の活性化には第一に交通速度の高さ、第二に産業経済の組織、第三に文化の独自性の追求をあげている。(村谷喜一郎氏の記録)
 今、百年の願いがかなって新駅もでき、陸上交通は高度化し、運送の便は飛躍的によくなっている。一方、すべてにおいて国際競争の波にさらされ、少子高齢化も進んで日詰の商店街はかつてないほどの危機に直面している。
 しかし、人間は危機に直面したとき、新たな智恵と勇気と連帯感を高める。ここに町の再生運動が起こり、町づくり会社TMOよんりん舎が創設され、くらしの道の整備が行われようとしている。小繰舟の復元がそうした機運をさらに盛り上げ、町民の創意と連帯によって紫波の歴史に目を向けた「独自の文化」が興ってくれることを強く願っている。
 舟運に関してはまだまだわからないことが多いが、ここに至るまでご指導をいただいた平井冽氏、高橋久氏、村谷喜一郎氏、川村迪雄氏に感謝申し上げ、今後とも読者諸氏からご批正とご指導をいただきたいと思っている。
 
小繰舟が出来るまで
川を知る会幹事長 古舘 雅晴
 平成13年の設立総会後の懇親会の時、私は、水辺プラザが出来るのは何時になるのやら、先ずは、会が出来た事を喜ぶ事にしようと思っておりました。賛同していただいた会員の方々が思いのほか多く、これで会はひとまず安心と安堵しました、しかしシンポジウムの成果品作りや次年度の総会資料作成と経験の無い仕事が次々と舞い込み、大変な事を初めてしまったと後悔がありました。
 14年度になり北上川流域連携交流会から、こども流域連携交流会の開催を委託され、会員一同の力が集結し、これも無事に出来た時は、何かしら自信の様なものが芽生えました。又、小学校の総合学習支援の川下りも定着し始め、会としては一応軌道に乗り始めたかなと感じ、このまま川下りを中心とした会でも良いのではと自分では思うようになりました。
 でも、会員の方々からマイボートが有った方が良いのではとの話が有り、こども交流会で得た委託料で15年度にはボートの購入をしました。マイボートが出来たら川下りの回数も増え、夏は忙しく過ぎていきました。
 ある宴会で、その昔、志和から郡山まで酒を馬で運び河岸から舟で江戸まで運んだ古文書があり、二百石をも送ったと記録されていると先輩が話されましたら、誰とはなく、それじゃ運んだ舟ば作るべ、となり、私個人的にはこれ以上仕事量が増えるのは勘弁して下さいと、心の中でつぶやきました。そうしましたら会長が、盛岡の会の方で小繰舟を作るようだと何かの会合で聞いて参り、二番手ではダメだ、一番になろうとの鶴の一声で始めることになりました。
 私は、なかなか腰を上げずその内にと思っておりましたら、ある日、新聞に紫波地区水辺プラザ構想が発表となり、工事も始まりました。水辺プラザ懇話会などもでき、ユニバーサルデザインの遊歩道、舟が継留できる桟橋も作るとの事、回りからは、舟はどうなった、何時出来る、早くしないと他に作られるぞと声が日増しに高く聞こえてきました。やはりやらなければならないのか、分かったやりましょう、やるからには何処に出しても恥ずかしくない物をと考え、日々検討をし県内を駆けずり回り始めました。
 16年夏には、水辺プラザも完成しあとは、ここに舟を繋ぐだけですなぁなどとの声が出始めて来た時は、一人で焦りました。北上のヒラタ舟より小さいのだから大丈夫だなどと自分で決めつけ、どうにかなるだろうと取りかかりましたが、思いのほかに進まず不安になりました。石巻の辺見さんのお力添えをしていただき、16年の春には実行委員会を立ち上げ、助成金等も申請した先からは全部認定してもらい、資金も思いのほか集まり、17年の6月末には造船所に払込みが出来ました。
 舟も思っていた以上のすばらしいもので、これなら沢山の人々にお見せしても大丈夫とやっと安心をしました。今度は舟の活用方法で一苦労が始まりました。しかし、今日このような状況になりましたのも多くの人々の力が集結して出来たものと感謝の気持ちで一杯です。これからも未熟な会ではありますが、宜しくご指導をお願い申し上げます。


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