日本財団 図書館


五、八戸藩領志和御蔵の廻米と舟運
 八戸藩は、創立の時、幕府の裁定により二万石とされたが、八戸周辺の石高が不足のため、紫波の米所、上平沢、稲藤、土舘、片寄の四ヶ村を飛び地として与えられ、五千石が追加された。そこで八戸藩は、志和に代官所や御蔵を置いてこの地方を支配することになった。この八戸領志和からも、志和御蔵を通じて江戸への廻米が行われるようになった。
 八戸藩の江戸屋敷は、上屋敷が麻布市兵衛町(現六本木一町目)、中屋敷がその向い、下屋敷が麻布新町(現南麻布五丁目、盛岡藩下屋敷の向かい)にあった。送られた米などの物資は、いったん深川富岡町の八戸藩蔵屋敷(現江東区二丁目、富岡八幡宮の隣の永代寺の真後ろにあり、永代橋付近の掘り割りから入る)に荷揚げされ、そこから各屋敷に送られた。(江戸古地図参照
 志和の御蔵から北上川を通じて荷物を江戸や八戸に送るためには、盛岡藩領を通過するために、郡山代官所との輸送手続きが必要になる。また川の近くに中継基地が必要になる。そこで藩は日詰の平井六右衛門、黒沢尻の阿部嘉兵衛、石巻の田倉儀兵衛に御蔵宿(おくらやど)を指定し、米などの保管業務と俵司奉行と積立奉行の補佐役を命じ、併せて(あわせて)藩役人の宿泊所を兼務させた。藩はそれに対して一定の扶持(ふち)米と倉敷(くらしき)料を与えている。
 日詰の蔵宿に指定された平井家は、元和(げんな)二年(一六一六)ごろ伊勢松坂から日詰に来住し、二代目の時に八戸藩が創立されて蔵宿に指定された。平井家はその出身地から伊勢屋と呼ばれ、代々八戸藩蔵宿を勤めたが、十代六右衛門介福の時に明治を迎えた。現在盛岡で酒造業を営む冽(きよし)氏は十四代目であり、明治三十六年に北上川に平井橋をかけ、後に衆議院議員、貴族院議員に当選した方が十二代目八十八(やそはち)氏である。
 
蔵宿の「御用留」表紙(写)
 
平井家
 
 第十代平井六右衛門が書き残した「御用留(ごようどめ)」は、幕末文久(ぶんきゅう)四年・元治(がんじ)元年の御蔵米の移送に関する記録簿であり、郡山代官所や志和代官所の出先である黒沢尻御蔵、石巻御蔵などへの手続き文書、小繰舟の運行状況などを日記風に書き留たものであり、舟運の様子が具体的にわかる貴重な記録である。その中からいくつか紹介したい。
ア、志和代官所の組織
 平井家御用留、文久四年改元元治元年三月十四日付け「御触御沙汰(おふれごさた)」には当時の郡山代官所と志和代官所の役人の名前が記されている。それによれば志和代官所には代官二名、その御下代(おんげだい)兼積立奉行二名(当時西村作内、鬼柳小平太)、石巻御詰合(おんつめあい)(中村定蔵)、黒沢尻御詰合(幸崎穣三)の各役職があった。
イ、米の輸送手続き
 「御用留」文久四年二月の項では「御米送り状之(の)事」として「一、御米千八百俵、小繰船九艘(そう)但し壱艘弐百俵積 但し壱俵三斗七升入 一、縄菰(なわこも)百俵分、右黒沢尻、石巻 御入用 一、酒入手樽(てたる)六臺(たい) 但し 三升入り廿九 二升入り一つ、右黒沢尻御入用 右の通り 八戸御台所米 併せて黒沢尻、石巻 御入用品 この度郡山より石巻まで積み下し申候。御改めお通し下さるように。以上」とあり、日付は文久四年二月二十一日、差出人は志和代官所積立奉行鬼柳小平太、西村作内、宛先は郡山代官石亀和左右衛門、田鎖祐三殿並びに郡山代官所配下の黒沢尻平田()奉行野沢源五郎、大沼半蔵、久保田順助とある。
 この文書は、志和代官所から郡山代官所に荷物の通行許可を求めたものである。これを受けて、同じ内容の文書を郡山代官から黒沢尻の船奉行へ知らせている。
 また、その内容は、蔵宿である平井家や船頭にも伝えられ、それを受けて、荷物が送られることを黒沢尻の蔵宿へ内々連絡している。
 「内送り状 志和御本穀(ごほんごく)送り状之事 黒●印 一、御米 千八百俵 御小繰船 九艘 但し一艘二百俵入り 但し 三斗七升入り 船頭九人 右の通り、御改め 御請け取り下さい。以上」として差出人 郡山蔵宿平井六右衛門 郡山積み立て奉行鬼柳小平太、西村作内から黒沢尻蔵宿幸崎穣三宛に知らせている。一艘に二百俵という数字は多いように思われるが、一俵を四斗五升入りにして計算すると百六十四俵になる。この書面は、志和御蔵から黒沢尻まで米等を送る過程で、蔵宿が荷物の収納、保管、移送の業務と事務を行っていることを示しているといえる。
 
九曜星御旗印(67.0×46.0cm)
 
御蔵積出し荷じるし
 
南部藩(『石巻御定目』所収)
(御蔵本蔵組俵印)(俵端穀物印)
 
仙台藩(『宮城県史』所収)
 
ウ、蔵宿の業務
 志和御蔵の米は荷駄(にだ)により蔵宿へ送られた。先の例で、米千八百俵といえば、馬に二俵付け(一駄)で延べ九百頭の馬が必要になる。これは仮に馬が百頭の場合は志和と日詰の間を九回往復することになる。大変大がかりな仕事である。その馬子を束ね、荷駄の監督をするのが宰領(さいりょう)、または宰領名主(さいりょうめいしゅ)といい、荷駄が蔵宿に到着したことを示す記事には必ずその名前に殿の尊称(そんしょう)を付けて記されている。宰領としては勘右衛門(現在の堀の井酒造のご先祖)、七右衛門など何人かの名前が見えている。
 蔵宿に到着した俵は、一般的には俵司奉行立ち会いのもとに俵の詰め替え作業が行われる。その俵や縄も農民の負担であった。荷造りが終われば、河岸に運んで船に積み込む。今度は積立奉行の出番である。しかし、出航が順調にいくとは限らない。天候の具合と水量の状態で船は止まる。「御用留」には雨のため「出航致さず」とか、晴れの日でも水不足で出航が不能という記事が見られる。その際、蔵宿の蔵に入れて天候や水量の回復を待つことになる。このように小繰舟出航や到着のころは人や物の出入りが忙しく、蔵宿はその応対に神経と労力を使ったことが察せられる。
 蔵宿の仕事は外にもあり、江戸や石巻、黒沢尻の役人詰め所から必要な縄や菰、あるいは酒などの要請があればそれらの物資を調達し、米と共に送っている。また、船を用意するための御蔵出しの要請により必要な船の手配を船頭へ連絡し、船頭を通じて水主を確保し、船出しの準備をさせる。御用留の記事の中には、船頭たち九人の名前で、水主に支払う雇い銭が、物価の高騰で高くなり、水主を雇うことが難しくなった、ついては雇い銭を増して欲しいと蔵宿に訴える記事もあり、船頭と志和代官所との間に立って雇用の面での調整役もしなければならなかったようである。
エ、八戸藩の船着場
 八戸藩志和御蔵が廻米のために利用した船着き場については、紫波町史にもあるように志賀理和気(しかりわけ)神社境内の北側を洗う大坪川を少し入ったところ、現在の運動公園の辺りといわれている。この辺は、河口の奥が入り江となって、船の繋留(けいりゅう)には都合(つごう)がよかったらしい。昔の人はここを小舟渡(こふなと)と呼んでいたという。
 
日詰大坪川河口の小舟渡舟着場(想像図)
 
 この場所はここは舟が安全なばかりでなく、何よりも蔵宿から近く、大坪川を小舟で繋げば楽に荷物が船積み出来たであろう。当時の平井家の屋敷は、現在の川井線の道路を南に越えて、「ケンド」(旧奥州街道)の裏手まで広がっていた。大坪川はすぐ脇を流れる。これは想像であるが、この小川に荷物用の小舟を浮かべ、十俵ほどの米を積んで、水主が岸を綱で曳いて小舟渡の河岸まで輸送したのではないかと考えている。
 なお、その際の河岸の呼び方であるが、ものの本や史料には「郡山河岸」と「日詰河岸」の二通りの呼び方が見られるが、これが城山下の河岸と大坪川小舟渡の河岸を区別して使ったのか、あるいは両方をひっくるめて人によって両様に呼んだのかはわからない。どちらの可能性もあるように思える。
 
六、商人船
 日詰の町を開いたのは商人桜屋善四郎であるといわれる。その後、江戸時代の初期に伊勢屋六右衛門が日詰に来住し、町の姿が整ってきたころ、寛文年間以後、近江商人はじめ外来の商人が続々店を構えるようになった。
 日詰は奥州街道と北上川の二大動脈に沿って盛岡と花巻のちょうど中間にあり、しかも豊かな農村に囲まれていて商業活動には好条件がそろっていた。寛文年間の八戸藩創立以後、周囲の農村で新田開発が進み、陸送、水運共に輸送量が増え、経済が活発になってきた。外来商人たちは日詰の発展の可能性に注目したのである。そのころには郡山の酒造屋が十軒もあったといわれ、町はにぎわいを増していったようである。舟運の需用も増えたであろう。
 郡山美濃屋(みのや)(後幾久屋(きくや))初代金子七郎兵衛は、寛文十二年(一六七二)に日詰へ移り、衣料品や雑貨類を扱った。四代目の時藩主利済(としただ)公に取り立てられ、藩の御用達(ごようたし)となった。天保十五年(一八四四)に藩の御勘定奉行元締役に抜擢(ばってき)され、そのころ一万両を献じて城山の東に承慶橋(しょうけいばし)を建造している。橋は洪水に流されて六年間と短命であったが、果たした役割は少なくなく、川面に顔を見せる橋脚の岩は紫波の商人の心意気を今に伝えている。
 美濃屋の仕入れ経路は、上方(かみがた)から海船で宮古や八戸に運び、支店を通じて陸送したといわれる。しかし、醤油醸造も行っており、その販路に渡し船はもちろん上下の船を使った可能性はあると考えられる。
 豪商の旗頭井筒屋は、領内の支店や別家(べっけ)と連携し、京都の本店から古手(ふるて)(中古品、主に古着)や小間物(こまもの)を仕入れ、領内に売りさばいた。下りの舟には領内の産物を積んで江戸や上方で販売して財産を築いた。上方からの仕入れには三っつ経路があったという。その一つは、西回り(日本海)の船を利用し、土崎(秋田)港から陸送する経路。一つは陸路をたどる経路、もう一つは東回り航路により石巻から川船で北上川を上り、日詰に運ぶという方法である。
 このうち川のルートでは、陸送や西回り航路に比べて海上航行の危険度は高いが、輸送経費は最も安かったという。その理由は北上川の輸送に自家所有の小繰舟を使ったことがあげられる。井筒屋はこうした経路を経費と安全性を勘案しながら選んで使ったといわれている。
 井筒屋は船の発着に、志和御蔵の河岸と同じか、または隣接した船着き場に荷揚げしたという。井筒屋は近くに蔵を持っていたといわれる。
 井筒屋の荷揚げ場としてもう一つ考えられる所がある。それは、日詰の町の真裏で上方からの下り荷を小繰舟で郡山河岸に付け、船番所の検査を受けてから小舟に積み替えて自分の店の裏まで運ぶという経路である。これは最も楽に荷物を自分の店に運び入れるルートである。
 桜屋善四郎はじめ他の商人も川船を利用したらしく、また盛岡の商人たちが使う船も上り下りして、その帆の影がしばしば川面に映ったことであろう。川は、領内の経済や文化の発達を陰で支えたのである。
 
操船用具(参考「北上川の水運」)
 
七、船の航行
 積み荷を積んだ船は目的地までどのように航行したのだろうか。
 河岸を離れた船の航行はいっさい船頭の責任となり、船頭は水主(かこ)を使って荷物を届けるまで多くの仕事をしなければならなかった。水主はで船頭一人に四人、小繰舟で三人と決まっており、郡山河岸からは船一艘を船頭と水主四人で運行した。
 船頭の仕事としてまず荷物、特に米俵を雨やしぶき、あるいは泥棒から護るために荷物を苫(とま)で覆い、水が船底にたまった場合は「垢(あか)取り」で掻き出すなど気を使った。転覆や座礁を起こさないように、河床や流れの状態を熟知(じゅくち)し、樟(さお)や櫂(かい)を巧みに操って注意深く航行する。川には浅瀬あり、また岩礁(がんしょう)の突き出た急流もあり、大切な荷物を輸送する船旅は実に難儀(なんぎ)な仕事であっただろうと察せられる。
 
盛岡、石巻間の船便所要日数
 
 が出来る以前は石巻までの航行であったし、が出来てからも、黒沢尻の積み荷が少ない時は、小繰舟がそのまま下った。小繰舟は船の艀舟(はしけ)として使われることもあったという。航行の日数は上の表の通りである。
 荷を揚げると、帰り荷を積み込んで引き返す。川の遡(そ)行は帆を上げ、風を受けて進む。風の強さに応じて帆の調整をする。風が弱い時や逆風の時は、水主が陸に上がって岸辺(きしべ)を綱で曳いて上るのだが、沿岸の状態は常に変化し、船を曳いて歩く道は、土手あり、湿地あり、支流の河口もあり、実に大変な行程だったろうと思われる。従って下りより登りの行程は時間がかかる。船には送り状などを入れるや船文庫(ふなぶんこ)や銭函(ぜにばこ)などもあり、食事道具などが持ち込まれた。大事な荷物を託されて、一瞬の油断もできない仕事をしながら狭い空間で過ごすのも大変なことだったであろう。
 船が船番所を通過するに際しては、船番所に分かりやすいように、船印を付ける。これによりどこの御蔵の船か、荷物の種類はなにか一目でわかるようにする。
 運賃に関しては、郡山から黒沢尻まで、寛保二年で春の運行は二貫九百文、冬の運行は三貫百文、三十年後の寛政十一年春には三貫七百二十文となっている。(「北上川の水運」北上市立博物館)
 このように船頭たちには現金収入があり、農民に比べて生活の程度はよかったという。特に藩船の預主を兼ねている船頭は収入が多く、その生活は裕福だったという。しかし、一方で常に危険と向き合っている船頭たちは、船の神さまである金比羅神や住吉神を深く信仰して安全を祈願した。
 志賀理気神社は、その由緒から南部一宮志賀理気船霊神社ともいい、弘化年代の絵図面には社殿が西向きに建っているものの、それ以前は社殿が川に向って建っていたといわれている。(紫波郡の神社史)船から見て航行の安全を祈願する神社だったのであろう。
 もう一つ城山の東南の麓(現在の第五駐車場の奥)に北上川を見下ろすように住吉神の石碑がある。以前、ここには祠があり、灯籠もあって、舟の航行の灯台のような役目を果たし、船頭や水主の信仰を集めていたらしい。城山は水運の指標となる山であり、安全祈願のご神体であったことの証(あかし)であろう。


前ページ 目次へ 次ページ





日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION