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4)新島の海洋環境貢献活動について
前田宗佑 東京都新島村産業観光課課長
 
 まず、新島と言いますと、最近は新島より隣の隣りの三宅島さんのほうが全国的に有名になっておりまして、おかげさまで2月1日から島の方へ帰れたと。私共の島にも何人かの方が噴火以来避難しておりまして、一生懸命頑張って島の煙、ガスを見ながらこの4年半近く頑張っておりまして、近く、島の方へ帰る予定になっております。また、当方もその頃地震で、全国の皆さんに大変お世話になり、この場を借りて皆さんに御礼申し上げます。
 さて、新島は東京から南に150キロ。その昔は大変、交通の便も悪く、島に生まれた方々は都内で東京を見ることなく亡くなった方がいっぱいおられます。ぜひ、一度は東京に行って見たいと言う方もおります。最近は、逆にお嫁さんが島へ沢山来られて。我々が小さい頃には、子供さんの顔を見ると、「お前、あそこんちの子だろ」と直ぐに分かったもんですが、最近の子供さんは、(地元の方と結婚しますから、我々はハーフと呼んでいるんですけど)半分くらい顔を見ても分からないという方々がおります。そのように変わってきております。
 人口3200人。隣りの式根島を含んだ行政区域になっております。
 新島はその昔、徳川幕府が流人の地と定め、明治の初めまで約1333人の罪人を島に送り込んだわけです。第1号は、山形県羽黒山のテンユウ別当さま。この方は、力があり、現在も山形の羽黒町に行くと神様と崇められている。そして、最後の方には新撰組の最後の隊長、相馬主計という方です。政治犯から、軽犯罪者まで多種多様の罪人が送られてきました。時に、島の中には200数十人の罪人の方が生活しておりました。罪人ですから何をするか分からない方々ですよね。そういう方ばかりではありませんが、島の人はそういった方々と生活していた。時には流人に食べ物を与えたり、・・・というと語弊がありますが、そういう方々に仕事をしていただいたあと、わざと船底に魚を何匹か残して掃除させて、それで、生活の糧にしていただいた、という事も有ります。また、学問のある流人は地元の子弟に読み書きを教えて生活をしていました。お互いに生きる糧を探りながら、流人との共存を図っていたわけです。
 島内では流人が100人もいるわけですから、牢屋に入れるではなく、5人組というグループを作らせて、その中で共同生活をさせていた。島民は、いつ、何をされるか、ということで、精神的に苦しいこともあった。関が原の戦いに敗れ、流罪となった豊臣家の大老浮田秀家、この方は、豊臣秀吉の豪姫をお嫁さんにしている方ですが、その方が八丈島へ流罪となったわけです。江戸から八丈まで1日で行けるわけではないので、風待ちをしながら、新島経由で八丈へ渡った。その方たちは、時の情報を得る、いい情報源でもあったと聞いております。わずか3千何百人の小さな島ですが、各家庭に家紋があります。なぜかといいますと、政治犯や偉い人が流されて来た場合には、島内で世話になった家に家紋や名前を残して亡くなったり、赦免になり島を出ていった。また、そういう中で、新島も中江戸といわれ、大変栄えた時代もあった。
 昭和50年代、高度成長期には若者を中心に多くの人が伊豆七島に来られた。「新島に行くと女の子がすぐ見つかるよ」などといわれ、週刊誌には叩かれ、学校には行くなと言われ、大変苦労した時代があった。新島としては、その頃から観光立島として、名を挙げてきたわけです。青い海、白い海をキャッチフレーズに観光に力を入れてきたので、村内の施設も最高のピーク時に合わせ、施設を作ってきた。1日1万2千人くらいの人が島の中にいた。地元の人は地域によると、2千人ちょっと。そこに夜、食事が終わると1万2千人の人が出てくる。新宿の西口のような感じになる。そういう時代もあったが、若い人達が、観光に向かなくなったとか、行っては行けない、海外旅行に足が向いたなどで、観光客の足が遠のいた。
 当地のように太平洋の真中ですと、海が荒いです。昨年は多くの台風の上陸の影響でお客さんも少なかった。一番問題なのが自然環境、海流によって新島一帯の漁業は不振でした。海でありながら魚が獲れない。黒潮が全体に新島を覆った。黒潮は透明度が高い。東京から来たお客さんは「わー、海って青い。綺麗なんだなあ」と言うんですが、反面そこで生きる生物には隠れる場所がない。海が透明なので全部見える。大きい魚に全部食べられる。小さい魚は深場、深場に潜り、魚が獲れなくなる。栄養のない潮なので、小魚が集まらない。観光客には素晴らしい透明度のいい海なんですが、そこで漁業を営む方にはよくない潮がずっとはりついていた。地球環境の変化によって、いままでにない、黒潮の蛇行線を辿ったということでしょうか。
 空のアクセスですが、小さいのが9人乗りの飛行機、大きいのが19人乗りです。唯一の空の足です。時にはお客さんが一人、二人のときもあります。
 新島はひょうたん状の島で、西側に4キロの砂浜、東側に7キロの白い砂浜の海岸があります。東側の海岸は全国でも有名なサーフィン・スポットになっております。世界のプロのサーフィン大会、全日本のサーフィン大会も行われています。ここでは海水浴は出来ないんです。潮が強過ぎて。
 観光の宣伝のようになって申し訳ないんですが、お話には流れがありますので御勘弁頂きたいと思います。この建物は、新島では世界で2ヵ所(新島とシチリア島)しか取れない坑火石、石英粗面岩という石が取れるんですけど、これは石英、ガラス石が入っています。この坑火石を利用して露天温泉に建物を作っています。設計した方がギリシャ神殿風に作ったんですけど、私達は存分ではない・・・。この下は、蒙古のパオ風の物がある。なんだか、バランスが悪いような・・・。
 東側の海岸です。ここの部分はゴミがない所です。ちょっと丘の方に行くとゴミがいっぱいあります。テレビですが、メードインチャイナと書いてありました。中国か何処かから流れてきたものがあります。こういうものが流れてきております。ドラム缶もあります。こどもの靴が1足。
 西側の前浜海岸。昨年財団の協力を得ながら、海浜の環境清掃をし、子供達の海の工作イベントをやりました。島には、海がきれいということでサーファーが沢山来ております。地元でも若い方々はサーフィンをやる方が多い。地元の方々は、ここはサーファーに有名な場所なので、この財産を十分に活用して欲しいという事で、曜日を決めて自分達で海岸清掃をしている。それから、大会をやる時も始める前にまず、海岸清掃をしている。
 我々がイベントを組んでやるボディボードや、若い女の子のサーフィンスクールをやる時にも、その前にゴミ拾いから始める。広範囲ではないが、自分達が使う場所の清掃を自主的に清掃活動を行っている。
 伊豆箱根富士国立公園に指定しております。観光面で位置的に良い環境に新島はあるわけですけども、近くに本線航路と言いまして、新島と伊豆半島の間とか、新島の後ろの方をタンカーとか大きい船が行ったり来りしています。そういう中で、ゴミも出ますし、油も出ます。
 昨年は珍しいくらい多く台風が上陸し接近しました。その度に、通過後には倒木が流れてきます。根っこがついてるもの、枝だけのもの。良いときには、葉っぱに小魚がついて、その小魚に大きい魚がついて来る、という利点もあるわけです。が、ゴミと一緒にいる魚をどうやって獲るかというと、ゴミも一緒に取らなきゃいけない。トローリングをするにはゴミもひっかけてしまう。うまい具合に魚って獲れないんですね。
 最近、島に来ているジェットホイルという船が走っていますが、台風の後になると必ず、ビニール袋や発泡スチロールを一緒に吸いこんじゃう。80キロで走っている船ですから、ゴミを吸うとダウンしてしまう。ゴミが見えると避けて行く。蛇行運転をするので、時間がかかる。2時間20分で新島に行くと言うことは画期的なことなんですが、そういった欠点もあるわけです。
 昨年は、東京湾の入り口でクジラとぶつかってお客さんが飛ばされ、脊髄を折って重症、植物人間になっている事故も有ります。ゴミだけではなく、クジラも住み良い場所が無くなって来ているんだろうという気もしています。流木の中でも良い悪いということもありまして、昔は台風の後に住人が暗いうちからこぞって浜に行くわけです。そうすると、いろんな材木が流れている。ケヤキの太いのがあったり、杉だとか、ヒノキだとか島に無いような材木が流れてくる。まず、見つけた人が自分の印をつける。それで、時期を見て引き上げて、貯めて、時には家を一軒建てるくらいの材木を集める。そのように良いときもあります。
 島の関係で、ゴミが常に集まってくる。私がこの場をお借りして皆様に訴えたいことは、海洋環境を守ることは、単に漂着物を処理することではなく、根本的に対策から考えなければならない。本土の山は開発により荒れ、動物の被害で樹木は枯れ、それによって海洋資源まで被害を受けている、ということです。一部の地域、一部の行動ではなく、それに関るいろんな方々が海と言うことで、他の方からの団体も関っていかなければならないかと。この度、SOF財団の交流会議で、私達のような小さな村での悩み、活動状況が発表でき、また他地域での取り組みを聞いて、将来を担う子供たちに良い環境で島を引き継いで行きたいかなと思っています。これからもいろんな形で活動して行きたいと思っています。つたない発表になりましたけど、御静聴有難うございます。
 
 
 
 
 
 


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