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2 上手な聞かせ方
井川 健
日々の鍛練
 『基本練習を一日怠たると、先ず自分自身が調子のくずれたことを悟り、二日休むと相手役の人にも感づかれてしまう。更に三日も練習を怠たれば観客にまで見抜かれてしまいます。』世界的なバレリーナ森下洋子が、舞台人として日々の鍛練が如何に大切かを語った言葉です。
 
 
 これは舞台芸術に共通することがらですから、吟詠家が舞台で如何に“上手に聞かせる”かのコツは、第一に発声音感の練習を毎日することです。発声の練習とは『高い声、低い声』『強い声、弱い声』『明瞭な声』を出すためのトレーニングです。音感を養なうには、発声練習時に「コンダクター」や「調子笛」を使うとよいでしょう。また師や先輩の名吟を聞いたり、他の音楽でも良いものを多く聞いて、正しい音感をつかんで置くことが大切です。
 吟詠音楽は、メロディー本位の歌謡曲などと異なり、言葉がはっきり聞きとれた上で、その意味を理解するといった特徴があります。従って日頃から言葉のアクセントにも十分気をつけて下さい。
 また、いう迄もなく、舞台音楽はナマ演奏が原則ですから、これに応えるだけの鍛練が何時でも出来ていなければ、一人前の舞台芸術家とはいえません。
 
詩の心
 吟の、“上手な聞かせ方”で、次に大切なポイントは詩の心を表わすコツをつかむことです。「門前の小僧習わぬ経を読む」の如く、意味も解からずに、ただ詩文の字句を吟じたのでは、聴衆は決して耳をかたむけてはくれません。丁度ダシの利いてないスープを飲まされたようなもので、お客様が求めているのは、“味”即ち詩の心なのです。
 「読書百ぺん意(い)自ず(おのず)から通ず」という言葉がありますが、まず最初は詩の意味がわかる迄幾度もよく読んで、不明な語句や全体を通じての解釈を丹念に調べて置きましょう。次にその作者がいかなる動機でその詩を詠んだのか、また詩が作られた時代、社会背景はどうであったのかを調べて、自分なりに、その作品の詩心の出し方を研究する必要があります。こうしたことを舞台用語で感情表現といいます。
 吟詠の感情の出し方は、強い迫力のある詩でも、淋しい詩でも、また情緒的なものでも、一本調子ではいけません。まずその主要な部分幾つかをマークして、その前後を反対に弱くして、強弱のタッチを付けます。それともう一つのテクニックは“間”の持ち方です。詩文の語句の間を、いつも同じタイミングで吟じては味が均一になってつまりません。主題の前、感情が盛り上った語句の前などは、意識的な間を持たせると、一段と気持のこもった吟詠になります。
 
 
 詩文の語句を感情表現に結びつける、もう一つの方法、イメージ吟法について述べましょう。これは詩舞などの振付と同じ考え方ですが、今迄述べたことを下敷にして、吟じる詩文と並行して、頭の中に描く詩文を簡潔に作って置きます。具体例として「江南の春」で説明しますと、カッコの中がイメージ詩文になります。
 千里(広い広い野原)
 鴬鳴いて(のどかに鴬の声をきく)
 みどり(河の柳の緑がさわやか)
 紅に映ず(目前の花の紅が眩しい)
 人間の感情は、イメージがはっきりした時に、初めて自然な形で、声や目つきなど、顔の表情にその雰囲気が現われてくるものです。従って吟詠は、詩文を吟じるより、詩心を吟じた方が、舞台ではより効果的に観客の心を捕えることが出来るわけです。
 
曲を選ぶ
 「十八番」、おはこと読みますが、得意とする芸事や、もっと具体的な、その作品題名を指していうことばです。
 芸術家にも個人差がありますが、彼等が舞台で芸を披露するときは、その専門分野から、必らず得意なものを選びます。
 “上手な聞かせ方”三番目のコツは、この至極あたり前と思われる自分の得意な曲を選ぶということにスポットを当てました。次にその基準と理由を述べましょう。
(1)作品の雰囲気や、節付け、それにその曲にふさわしい音程が、自分に適しているか。(歌舞伎などでは強い役〈立役〉、やさしい女の役〈女形〉などと、演技者が専門化されています。オペラも声域別です。ところが従来吟詠にはこうした区分はありません。しかし舞台で自分に合わないものを無理に吟じても、一般の観客は喜びません。)
(2)その曲を充分稽古しているか。(余程心臓の強い人は別ですが、稽古不充分で舞台に立つと精神的にも不安感がつのって、よい演奏はできません。また急にたのまれたとしても、そういった事情は観客にはわかってもらえません。)
 以上簡単なようですが、実行するには、強い意志と勇気が必要です。なお誤解を招くといけないのでお断わりして置きますが、ここで申し上げるのは舞台でのことで、通常の稽古の事ではありません。稽古によって得意なものが増え、レパートリーが広がるのは当然のことです。
 
大切な伴奏
 「千両の役者に千両の囃子」、千両役者といわれる名優でも、立派な伴奏をつとめてくれるお囃子さんがあってこそ名舞台が完成するという、古典芸能の教訓です。
 吟詠の音楽性が向上したことによって、この吟者伴奏の関係が一層大切になって来ました。いう迄もなく吟詠の内容表現を、より豊かなものにするためには、この伴奏の作曲楽器編成演奏家に負うところが多いのです。“上手な聞せ方”としては一番経費のかかる部分かもしれませんが、この両者の協力こそが充実した舞台効果を発揮します。なお経費のことを申しましたが、現在レコード会社などから、吟詠の伴奏テープが発売されていますので、条件が合えば手軽に利用できます。
 
マイクに強くなろう
 吟詠家に舞台で是非注意して欲しいのが、マイクの使い方です。最近の劇場などの舞台は大変に広く、客席の隅々まで声をとどかせるためには、どうしてもマイクのおせわにならなければなりません。ところがマイクは上手に使わないと。例えば或る吟詠家が、自分の声が普通以上に大きいのに、マイクに近寄りすぎたため声がワレてしまったというケースがあります。吟詠の場合、普通で30センチ以上、大きい声の人なら50センチは離れて下さい。また連吟の場合、例えば二人が並んでマイクの前に立っても、マイクには指向性といって声をとらえる角度があります。その範囲内なら問題はないのですが、指向性の狭いマイクの場合だと、入れ替ってマイクの前に立つか、または自分達が斜めになってマイクの方角に向くしか方法はありません。いずれにしてもわからないことは必らず音響技術者の指示を受けて、マイクを上手に使って下さい。
 


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