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3.3 ハンセン病関係研究
 化学療法に次いで石館理事長の個人的ご関心は、先生が長年関わってこられた研究という分野でした。財団の初期には、毎年予算の1割近くがそのために支出されていました。予算配分は1年ごとに行われるので、一応、年度末に提出される報告書によって審査した上で翌年の予算配分を行うという建前にはなっているものの、実際そういった形での評価は難しく、鶴崎さんや私などが、成果が上がっていないのではないかと心配しても、石館先生は、研究助成は将来の発展のための投資と考えておられ、毎年どれほどの成果が上がったかについてはそれほど気にする必要はないし、しかもネガティブな結果も場合によっては、ポジティブな結果より貴重なこともありうるのだからと、きわめて鷹揚な対応でした。
 
 1970年代は、アルマジロと免疫力を抑えたネズミによるらい菌の大量の生産が可能になり、ハンセン病関係の諸研究が大いに拡大した時代でしたので、当財団でもコンビット、カーチハイマー、印南成司先生等のアルマジロ関係への資金協力、また大阪大学微生物病研究所の伊藤利根太郎教授の下でのヌードマウスによるらい菌増殖にも協力しました。
 
 また、大量のらい菌の存在は、らい予防ワクチン開発への関心と意欲を刺激し、日本国内・国外でのその方面への資金協力も行われました。さらに、従来からの一部の研究者によるらい菌の人工培養に関する努力は日本でも依然強く、財団設立当時からの協力者の中にも久留米大学医学部の中村昌弘教授を含む数人の専門家がおられたことから、この方面への研究助成も石館先生の関心の一つでした。
 
 動物内でのらい菌増殖以外のそれらの研究は、これという成果には直接つながりませんでしたが、この時期に、今までハンセン病には関心のなかった多くの基礎研究者がこの方面の研究に加わったことから、やがてらい菌のゲノム解明やらい菌の構造の理解、ハンセン病の世界規模での疫学の解明等につながり、それを契機に再びらい予防ワクチン、新しい診断法、治療効果の判定、再発の予知、新しい治らい薬等、多くの分野での研究が盛んになりましたから、財団の今までの研究助成も、現在のハンセン病関係研究の基礎作りにある程度貢献できたことは確かなことであります。
 
 当財団のこの方面への目に見える形での貢献は、バンコク郊外のタイ保健省構内に、タイ国立保健センターに隣接して建てられた笹川研究施設(SRB)です。笹川良一会長から米寿のお祝いとして集まった6億300万円あまりをそのままそっくり当財団に頂いたので、タイ国王の60歳の誕生記念のために何か目に見えるものがほしいというタイ保健省の要請に応じるためにも、石館先生は、建物の寄贈はしないというそれまでの原則の数少ない例外として、当時での最新の動物舎設備を持った研究施設を3億円かけて作ることをお決めになりました。それには当時日本でのヌードマウスを使ったハンセン病研究の第一人者である伊藤利根太郎教授から、大阪大学退官後ご自身がその研究所の直接の責任者として運営の責任を負うというお申し出があったからです。
 
 事実、タイの皇太子をお迎えして開所されたSRBは、伊藤先生の下、当財団の全面的財政支援によって仕事が始められましたが、自国であるタイの研究者が育たなかったために残念ながら十分には活用されませんでした。しかし、一時期にはタイと日本とのエイズワクチン共同開発のためにその動物舎が活用され、この数年では、現在のらい菌に関する微生物学研究の第一人者であるコロラド州立大学のブレナン教授(Prof. Patrick J. Brennan)と、マウスを用いた研究の世界的権威であるイスラエルのレビー教授(Prof. Louis Levy)による直接指導のもとで、有望な若いタイの研究者が仕事を始めることになり、SRBの将来にも明るい希望が持てるようになりました。
 
 このほかにも財団の研究費は、京都大学の西占貢先生他による電子顕微鏡によるらい菌構造の解明、国立多摩研究所の阿部正英先生他によるハンセン病診断テストの作成等にも使われましたから、かなりの紆余曲折はあったものの、研究助成の面でも当財団はそれなりの貢献はできたものと考えます。
 
3.4 ハンセン病対策要員の研修・育成
 バンコクでの「ハンセン病対策要員育成」に関する3回のワークショップの結果、財団の予算内でこの方面に関する支出がかなり重要な地位を占めることになりました。各国国内での自国語によって行われるハンセン病に関する研修の助成はもとより、英語による国際研修も数多く行われました。
 財団設立直後は、各国からの要望もあり毎年何組かのハンセン病担当医師たちが来日しましたが、より実質的、より現実的な研修はむしろハンセン病蔓延国内のほうがよいとの判断から、インドのカリギリやエチオピアのアジスアベバにある国際ハンセン病研修センターにおける医師、検査技師等の研修、バンコクにある皮膚病センターや他の大学のマスターコースでの医師の研修の助成を行いました。さらに財団の最もポピュラーなプログラムの一つは、普通海外出張の機会のない各国のシニア・コメディカルを対象とした交換研修プログラムで、ミャンマーからインドネシアへ、インドネシアからフィリピンに、ネパールからベトナムにといった10日間位の現地訪問研修も実施しました。これはフィールドで実際にMDTを行っている人同士が、相互に学ぶ機会を得ただけでなく、ほとんどの参加者にとっては一生に一度の海外旅行ということで、帰国後の自分の仕事に対する大きな励みにもなったようです。その中でも私たちを喜ばせたのは、ミャンマーからインドネシアに行った数名が財団から支給された旅行費用を極度に節約し、帰路シンガポールで中古のオートバイを買い、それを帰国後自分の仕事にも使ってその能率を高めていたことです。
 
 もう一つ財団としての重要な研修事業は、1980年以降毎年フィリピンのセブにあるレオナルドウッド研究所を中心に行った多剤併用療法実施に関する標準化のためのワークショップです。これはその初期には、財団主導で始めた韓国、フィリピン、タイでの3カ国共同実験実施のためでしたが、1982年4月にWHOがMDTを発表してからは、各国でそれが正しく実施されるためのものに切り替わりました。講師はレオナルドウッドのギント博士(Dr. Ricardo Guinto)を中心に、パファルド(Dr. T. Fajardo)、セリオナ(Dr. R. Cellona)、アバロス(Dr. R. M. Abalos)、デラクルーズ(Dr. E. C. Dela Cruz)等のでしたが、財団のマニラでの「化学療法に関するワークショップ」にも出席し、WHO/TDRのTHELEP(ハンセン病化学療法部会)の主要メンバーのマイケル・ウォータース博士も毎年欠かさず出席して研修を指導してくれました。参加者も最初の3カ国から財団が直接薬品援助を行っていたネパール、ベトナム等を含む10カ国あまりに増えたので、これによって財団がアジアでのMDT実施に大きく貢献できたことは確かだと思います。
 
 また、ハンセン病対策の研修に関連して、当財団が1981年以来随時発行してきた『ハンセン病図鑑』があります。最初のものはレオナルドウッドにある莫大な数のハンセン病患者の写真の中から選んだ臨床皮膚所見40、顕微鏡写真36、臨床識別写真18を含んだもので、最初は英文の説明のものだけでしたが、次第に各国からの要求に応じて中国語、スペイン語、フランス語、アラビア語、ポルトガル語、それにインドネシア語、計7カ国のものが全部で約6万部作られ、各国に配布されました。
 その後もこういった図鑑への要望が続いたことから、財団は世界のより広い地域で使えるように皮膚の色の異なる各地から集めた40枚ほどの臨床所見を中心に、簡便な診断法、現行のMDTの説明等も含んだ『新ハンセン病図鑑』を、財団の昔からのサポーターの1人であるオックスフォード在住のコリン・マクドゥーガル博士の協力を得て4年前に作りました。前回同様まず英語版から始めましたが、既にフランス語、ポルトガル語、ヒンズー語版ができ、現在スペイン語、インドネシア語を作成中、さらにネパール語、ミャンマー語版もできる予定で、10万部をすでに超えています。これは一般保健要員によるハンセン病早期発見の手立てとして作られたもので、将来も世界のどこかにハンセン病が残っている限りこの図鑑の必要性はあるわけですから、今後どれほど発行部数が増えるのかわかりませんが、20万部は超えるでしょうし、財団の世界のハンセン病対策への貢献の一つとして長く残ることは間違いないと思われます。


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