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 ところが、筈緒の張り方は後に変わる。括玉子を廃して、代わりに筈緒の下端に南蛮を取りつけるのがそれである(図131)。では、筈緒と括玉子を一体化した新式の筈緒はいつごろ出現したのだろうか。もちろん、筈緒が図面に描かれることはなく、また幕末以降の雛形しか帆をあげていないので、船絵馬を手掛かりとするほかはない。
 笄を描かない絵馬を論外とすれば、早くも天明三年(一七八三)の愛宕神社の絵馬(図16)に新式の筈緒が登場する。もっとも、新式の筈緒はすぐには普及しなかったらしく、文化一〇年(一八一三)に今西幸蔵が著した『今西氏家舶縄墨私記』の挿図では筈緒の下端に笄で括玉子が取りつけられている。
 
図128 風上に目一杯きり上がる弁才船 
剣地の八幡神社蔵
 
図129 天保7年(1836)の吉本善興景映筆の絵馬 
深浦町の円覚寺蔵
 
図130 括玉子と筈緒
 
図131 括玉子を廃した筈緒
 
 新式の筈緒の普及の時期は確定しがたいが、遅くも天保前期(一八三〇年代前半)とみていいだろう。天保八年(一八三七)から明治一一年(一八七八)までに中条町(新潟県北蒲原郡)の荒川神社に奉納された年紀のある船絵馬六九面のうち旧式の筈緒が認められるのは、天保一〇年と同一一年の各一面、同一二年の三面の都合五面にすぎないからである。旧式の筈緒は、安政四年(一八五七)の永徳丸の絵馬(図27)にも姿を見せているが、当時としては珍しかったに違いない。
 荒川神社といえば、三浦関右衛門はこの神社に明治三年(一八七〇)五月に三面の船絵馬を奉納している。吉本善興景映筆の二面(図132)と吉本善景筆の一面(図133)がそれである。善景筆の絵馬はこれ以外にはなく、善景は吉本派の新顔の船絵師かとも思われようが、花押を比べてみると、三面とも二代善興、つまり三代善京と同じなので、善景は善京の書誤りにすぎず、三面とも三代善京の作であることに疑問の余地はない。ところが、奇妙なことに、どうみても善興筆の二面は善景筆の一面と画風が異なるばかりでなく、善景の一面は前年奉納の善京筆の一面(図134)とも画風を異にする。では、この三面はいつ制作されたのだろうか。
 荒川神社には八五面の絵馬が奉納されているが、六割に当たる五三面が吉本派の絵馬で、初代善興二面、二代善興三〇面、無落款物二一面を数える。そこでこの三面を二代善興の残る二六面と対照すると、明らかに、明治三年五月の善興景映筆の二面の画風は天保一二年(一八四一)九月と同一三年九月の各一面(図135)と一致し、また明治三年五月の善景筆の一面は弘化四年(一八四七)八月と九月の各一面(図136)と画風が合致する。とすれば、この三面の絵馬のうち、二面は天保一二年か翌年に、残る一面は弘化四年に購入されたものの、何らかの事情ですぐには奉納されず、どういうわけか明治三年五月になってまとめて奉納されたと考えるほかあるまい。
 概して船絵馬の制作年代と奉納年代はほぼ一致する。けれども、三浦関之丞の絵馬のように時にはずれる場合があるし、また年紀を入れずに奉納された絵馬に後代に年紀が書き加えられる場合もある。このような奉納年代と制作年代の不一致は、頻繁にあるわけではないが、まれではない。船絵馬の流派の様式やその変遷あるいは時代による表現様式の相違を頭に入れておかなければならない理由の一つはここにある。







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