遅くも明治二〇年代には常苫を常設する船が現れる。瀬越(加賀市大聖寺瀬越町)の北前船主大家家の持船両徳丸もそうした一艘であった。常苫を常設するなら、当然、帆柱の後ろに大渡、横道の後ろに脇廻を張ったことは容易に想像がつこう。そこで、現在、船の科学館に展示されている両徳丸の見事な雛形で大渡と背廻の位置を確認すると、確かに帆柱の後ろには大渡が張られているのに、意外にも横道の後ろに背廻はなく、鐶が打たれているにすぎない。
では、鐶の用途は何か。幸いなことに、雛形の原状の分る写真が残されている。明治四三年(一九一〇)に逓信省管船局の刊行した『日本海運図史』に載る「第五十 新式日本形船」(図120)がそれで、帆足を数本まとめて鐶に結わえているから、鐶は背廻の代用と知れよう。脇廻の代用の鐶がどの程度普及したかはわからないが、いずれにせよ、常苫を常設する船では積荷の有無にかかわらず帆柱の後ろが大渡の定位置となったわけである。
従来、脇廻の存在に気づかず、帆柱の後ろの綱をもって大渡としてきたのは、帆をあげて、帆柱の後ろに張った一房の綱に帆足を取る雛形を眼にする機会に事欠かなかったからである。しかし、こうした雛形のほとんどは常苫を葺く文化・文政期(一八〇四〜一八二九)以降の製作であり、しかも常苫を葺いて追風で走る姿を想定して作られていることを想えば、一房の綱しか張っていなくとも何ら異とするには及ぶまい。もとより、帆柱の後ろの綱が大渡であるのは常苫を常設する船に限られる。
図116 明治21年(1888)の1500石積弁才船の図
F.E.Paris, Souvenirs de Marine, vol.6より
図117 常苫と蛇腹垣
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