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四 蛇腹垣
 船絵馬を見ると、舷側に大きな垣根みたいなものがある。これは船絵馬ばかりでなく、広重の風景版画のなかの廻船にも描いてあるし、菱垣廻船や九店差配廻船の絵にもあるから、お気付きの方も多いと思う。
 蛇腹とか蛇腹垣と呼ばれるこの垣根状のものは、いわゆる胴の間に山積みした荷物を保護するため、荷物を積み終ってから乗組が木・竹・苫などを使って舷側の垣立の外側に組んだ波除けである。おそらく、蛇腹に類したものは外国船にはないと思われる。
 蛇腹垣という呼称の由来は明確でない。というのも、蛇腹垣は垣立のような船本来の構造物ではなく、臨時の波除けにすぎないので、造船関係の史料に顔を出さず、ためにかつて船乗りだった古老などから聞書をとるといった民俗学的方法で調べざるをえないからである。今日われわれが蛇腹垣と呼んでいるのも、そうした調査の結果に基づいている。
 しかし、古老の話には地域的な違いがあって、必ずしも全国的に同じ話が採集できるわけではない。蛇腹あるいは蛇腹垣という呼称は広く採集できても、なかにはこれを装備したのは北前船に限るという話もある。たとえば、堀内雅文氏の『大和型船〈航海技術編〉』(成山堂書店、一九八二年)によれば、広島県の老船長は「北前船はジャワカコイといって女竹で組んだ枕の太さのものを取付け」る、と語っている。ジャワカコイは蛇腹囲いの訛であろう。
 筆者も萩の元船大工から「北前船の特徴は蛇腹垣がつくこと」という話を聞いたことがある。けれども、蛇腹垣が北前船特有のものでないことは、現存する多数の船絵馬から明白である。そこで古老の話の信憑性が問題になるわけだが、古老が嘘を言っているわけではなく、後述するように、彼らが知っている明治時代末期から大正時代にはそれに近い状態が現実であった。ここに技術史に関する民俗学的方法の限界と問題がある。
 ところで、蛇腹といえば、筆者が四〇年ほど前に三国町(福井県坂井郡)の老船大工(当時八三歳)から聞いた話では「蛇腹は波除けの囲い全体のことではなく、そのへりにつける竹で編んだ縁材の名称」ということだった。これは、さきの広島県の老船長がいう「女竹で編んだ枕の太さのもの」に相当するが、明治時代に造られた雛形(模型)の蛇腹垣には竹で編んだ断面が円形状の縁材があって、この形なら蛇腹と呼ばれても不思議はないほど、感覚的にもふさわしいものを持っている(図94)。また船絵馬の蛇腹垣に描かれた縁材も、青竹を束ねたり編んだりした表現をしていて確かに蛇腹を思わせる。となると、蛇腹を縁につけた波除けの垣だから蛇腹垣と呼んだのが、いつしか略されて蛇腹と呼ぶ地方もでてきたのかもしれない。
 では、蛇腹垣はいつごろから使われだしたのだろうか。もちろん、臨時の波除けである蛇腹垣が図面に描かれるはずはないし、また明治時代の雛形でないと蛇腹垣を装着していない。したがって、手掛りとしては船絵馬しかないことになる。
 そこで、弁才船の船絵馬を見てゆくと、今のところ明和元年(一七六四)の川内村(福島県双葉郡)の諏訪神社に奉納された絵馬が初見で、次が剥落のために年紀は確認できないが、明和年間に豊川市(愛知県)の西島神社に奉納された絵馬である(図95)。後者は尾張の栄昌丸の船主が奉納しているから、蛇腹垣装着の初めは太平洋側の可能性が高い。しかし、これ以外には明和・安永期(一七六四〜八〇)の蛇腹垣の例は皆無であって、やはり普及はいまだしの感が深い。
 三番手は瀬戸内海に面した尻海の若宮八幡宮に奉納された天明五年(一七八五)の絵馬(図96)である。もっとも、廻船は大坂と江戸の間に就航した菱垣廻船なので、東海地区とは無縁でない。
 そして四番手がわずか二年後の天明七年に碧南市(愛知県)の白山神社に奉納された絵馬(図97)で、蛇腹垣と東海地区との関係はさらに緊密さを増してくる。
 五番手が、ちょっと間があいて寛政一二年(一八〇〇)に象潟町(秋田県由利郡)の戸隠神社に奉納された絵馬で、日本海側での蛇腹垣装着の初見であるが、奉納者は江戸の廻船の船頭なので、船は関東筋の廻船らしく、北前船の初見の確証にはならない。となると、北前船の初出は享和二年(一八〇二)に美浜町(福井県三方郡)の金毘羅宮に奉納された享和丸の絵馬(図98)で、太平洋側より四〇年近くも遅れることになる。たとえ、寺泊町(新潟県三島郡)の白山媛神社に奉納された幸全丸の絵馬(図99)の「寅九月」を寛政六年(一七九四)と見なせたとしても、八年ばかりさかのぼるにすぎず、蛇腹垣が北前船に特有のものではありえないことは明らかである。
 
図95 明和期の栄昌丸の絵馬
豊川市の西島神社蔵
 
図96 蛇腹垣を装着した菱垣廻船
尻海の若宮八幡宮蔵
 
図97 天明7年(1787)の船絵馬
碧南市の白山神社蔵







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