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三 上廻り
 船絵馬を見ると、欄干(らんかん)状の構造物が舷側についている。これが上廻りの舷側を構成する垣立である。
 垣立の立と立の間に入れた差板が波でしばしば打ち放たれるため、一八世紀中期までに上棚の上縁に矧付を垣立の高さまで矧ぎ合わせるようになったことはすでに述べた通りである。この矧付の登場により、垣立は波除けとしての実用上の機能を失う。明治三四年(一九〇一)に桃木武平は、菱垣廻船歓晃丸の解説のなかで上廻りについて「だいヨリ以上ノ造作物ヲ、総テうはまわりト云ヒ、船体ノ装飾トス」と記している。
 今日なら装飾としての機能だけで、造作に費用も手間もかかる垣立をやめて、上廻りをもっと簡素に造るところだろう。そうすれば、建造費は軽減され、建造期間も短縮できたはずである。けれども、そうはならず、垣立は様式を変えながら弁才船が姿を消す日まで受け継がれてゆく。外観を構成する重要な要素だけに、垣立は弁才船に不可欠な形式となり、ために垣立のない弁才船など誰にも想像できなかったに違いない。
 しかも、弁才船が全国に普及したことによって垣立は弁才船に限らず日本船に固有な形式と見なされるに至る。天明六年(一七八六)建造の和洋中折衷の三国丸が垣立を備えたのはその好例であるし、嘉永六年(一八五三)一二月に幕府に提出した洋式軍艦の建造案のなかで薩摩藩主島津斉彬が、白木の垣立を両舷に取りつけて日本船の標識としたいと上申したのもそうである。幕府が日本国惣船印を制定したため、斉彬の案は陽の目を見なかったが、妙なところで実現する。明治一六年(一八八三)に高給ゆえに有資格の船長を乗り組ませなかった廉で水上警察署に捕まり、改造を命じられた西洋形帆船の事件は、嘆願の結果、舷側に垣立を取り付け、外観を日本形船に装うことで落着し、他の船もこの便法にならったという。
 台の上に立てた立の上部を雨押で固め、立に縦通材である筋を取りつけるという垣立の基本構造に変わりはないが、垣立の組み方などは変化するので、垣立を舳と艫にわけて、船絵馬・雛形・図面を手掛かりにして変化を追ってみよう。
 舳の垣立とは二番船梁上のカラカイ立から伝馬込舳一番立(てんまこみおもてのいちばんたつ)までの垣立をいい、両舷のカラカイ立の頂部を横山と称する横梁で連結し、台の上に立てた立の上部を雨押で固め、立には筋を取りつける(図85)。筋には立を貫通する貫筋(ぬきすじ)と立の外面につける上筋(うわすじ)の二つがあって、舳の垣立の下通りの幅の広い上筋を特に大筋(おおすじ)と呼ぶ。
 
図85 舳の垣立
 
 舳の垣立の主要な変化は次の二つである。
 第一は横山の下降である。横山の端部は銅の頭巾金物で覆われており、絵馬では黒色もしくは緑色、図面では黒色で表現されているので、すぐに見分けがつく。本来、垣立の雨押より高かった横山は、やがて雨押と面一(つらいち)になり、ついには雨押よりも低くなる(図86)。変化の時期については、雨押より高い横山は寛政五年(一七九三)に廃れ、雨押と面一の横山は延享三年(一七四六)に登場して、文化三年(一八〇六)に姿を消し、雨押より低い横山は寛政元年に現れる。ちなみに、万治四年の金峯山寺の大絵馬の弁才船に横山がないのは絵師が書き落としたからだろう。
 第二は大筋を除く筋の種類の変化である。古くは貫筋二枚を標準としたが、貫筋・上筋各一枚に変わり、最後には上筋二枚になるとともに、木・竹・苫などで組んだ蛇腹垣(じゃばらかき)と称する波除けを立てるために足洗という上筋が大筋の上に追加される(図87)。上筋から立に打つ釘の頭には地紙形、四目(よつめ)、算木、菱繋(ひしつなぎ)などの文様を象った銅の入頭(いれがしら)を入れて飾ったから、上筋が増えてゆくにつれ、舳の垣立が華やかさを増していったことはいうまでもない。変化の時期を押さえておくと、貫筋二枚は享和元年(一八〇一)を最後に廃れ、上筋・貫筋各一枚は明和元年(一七六四)に姿を現して、慶應元年(一八六五)に姿を消し、上筋二枚は天保二年(一八三一)に現れる。一方、足洗は天保八年に登場する。
 では、艫の垣立はどうか。艫の垣立とは伝馬込艫一番立(てんまこみとものいちばんたつ)から角立(すみのたつ)までの垣立のことで、台の上に立てた立の上部を雨押で固め、立には五枚筋と称する五枚の上筋と番筋と呼ぶ上筋を取りつけるとともに貫筋を貫通させ、中央に開口(かいのくち)を設ける(図88)。
 艫の垣立の主要な変化は次の二つである。
 第一は掛筋(かけすじ)の追加である。掛筋とは五枚筋と番筋の間の上筋をいう(図89)。文化元年(一八〇四)に現れた時には掛筋は開口の舳の立に届かなかったが、天保三年(一八三二)には開口の舳の立に達し、さらに安政六年(一八五九)には開口の艫の立を越えて手縄取りの南蛮(滑軍)を仕掛けた立に達する。けれども、天保八年に足洗が出現すると、荷物を積んだ時には開口の舳の立あるいは手縄取りの立まで蛇腹垣を装着するため、掛筋の存在は確かめようがない。
 第二は五枚筋の変化である。下の二枚を一枚に置き換えたことがそれで、明治七年(一八七四)に登場する(図90)。五枚筋の筋の幅を広くして筋の数をさらに減らしても何ら不都合はなかったと思われるが、なかなかそうはいかなかったらしく、これが限度であった。
 以上が垣立の変化であるが、このほかにも外から見てわかる変化が二つあるので、紹介しておこう。
 第一は陰板(かげいた)の出現である。陰板は艫の仕出矢倉(しだしやぐら)の横台と寄掛(よりかかり)の間をふさぐ板で、彫刻などの装飾に意を用いる。陰板のない船は寛政元年を最後に姿を消し、陰板のある船は享保九年(一七二四)に登場する(図91)。仕出矢倉の下の区画には水を貯える水樽(はづ)あるいは水箱(はづ)が置かれており、陰板がなければ見えたはずであるが、水樽を描く標準形式の絵馬はいたって少なく、天明五年(一七八五)に尻海(岡山県邑久郡邑久町)の若宮八幡宮に奉納された絵馬(図15)くらいである。もっとも、陰板があっても船尾からなら水樽は見え、明治一六年(一八八三)に瀬越町(加賀市)の白山神社に奉納された絵馬籐筆の絵馬(図92)のような船尾から見た絵馬には描かれている。
 第二は、二番船梁の水切の形状の変化である。船足を深く入れない関船と違って、普通、弁才船は二番船梁から切船梁(時には雇船梁、轆轤船梁)まで船梁の前面に断面が直角三角形の水切をつけている。もっとも、当初、二番船梁の水切は四角錐状であった。これは、他の船梁同様の水切をつけるには、台が二番船梁より先に十分突き出ていなかったからである。二番船梁の水切が他の船梁とほぼ同じ形状になるのは寛延元年(一七四八)以降のことで、四角錐状の水切は明和六年(一七六九)年に姿を消す(図93)。
 船絵馬の弁才船の上廻りはどれもこれも同じに見えるかもしれないが、案に相違してさまざまなところで変化しており、年紀のない船絵馬の年代推定の手掛かりをあたえてくれるのである。
 
図86 横山の位置の変化
雨押より高い横山
 
雨押と面一の横山
 
雨押より低い横山







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