就航直後の“新田丸”を上空から捉えた(とらえた)写真、一部修正が加えられているが貴重なショット 野間恒 |
1. 誕生の経緯(けいい)
日清戦争(1894〜95)で大型船舶の不足を痛感した日本政府は、明治29年(1896)に「航海奨励(しょうれい)法」と「造船奨励法」を公布して、外国航路の開設を促し(うながし)ました。同年3月15日、横浜を出帆してロンドン、アントワープへ向かった日本郵船の“土佐(とさ)丸”(5,402総トン、イギリス製)は、その第1船でした。
以来、欧州(おうしゅう)航路には数多くの船が就航し、2週1回の定期運航を行うために、ほぼ10隻の船隊を組んでいました。船型も当初の6,000総トン級から次第(しだい)に大型化し、昭和5年(1930)に就航した“照国(てるくに)丸”と“靖国(やすくに)丸”は12,000総トンで最新のディーゼル機関を搭載(とうさい)しました。しかし、欧州を起点とする英仏などの客船とは差があり、特に昭和10年(1935)に出現したドイツの“シャルンホルスト”級3隻は新鋭の高速客船でした。
日本郵船はその対応策を迫られていましたが、昭和12年(1937)に公布された「優秀船舶建造助成施設」は絶好のチャンスでした。
この助成施設は、当時の緊迫しつつあった国際情勢に対応するため国防上の目的から施行されたもので、6,000総トン、19ノット以上の客船などの優秀船に対して建造助成金を交付しようというものでした。
これにより、建造費のほぼ1/3の補助金がもらえることになり、昭和15〜16年(1940〜41)に三菱重工業 長崎造船所で、“新田(にった)丸”“八幡(やわた)丸”“春日(かすが)丸”(客船としては未完成)の3姉妹船が誕生することになります。これら3隻の頭(かしら)文字をとると「NYK」となるのは、同社のホープであったことを示します。
補助金のため、“新田丸”は“照国丸”よりも43パーセントも大きく約3ノット速く、“シャルンホルスト”級や当時の日本の代表的客船であった“浅間(あさま)丸”級と、ほぼ同じ大きさになりました。また旅客設備も“照国丸”より著しく(いちじるしく)改善され、“浅間丸”級と同程度になりました。
航走中の全景写真を見るとスマートで清楚(せいそ)な感じに溢れ(あふれ)ています。大型の二連角窓が特徴的で、高級感を出しています。
2. 概要(がいよう)
折込(巻末)の「一般配置図」に見られるように、“新田丸”には航海船橋甲板(こうかいせんきょうこうはん)(Nav. Bridge Deck)から第3甲板(Third Deck)まで8つの甲板(デッキ)があり、船底は二重底が全通していて、座礁(ざしょう)などによる沈没を防いでいます。
また上甲板(Upper Deck)までは水密隔壁(すいみつかくへき)が達していて、9つの隔壁により10区画に分けられています。これによって衝突などによる損傷時の安全が保たれます。
中央の2区画が機関部で、ボイラ室と機関室より成り、前の3区画が貨物倉、後ろは糧食庫と2つの貨物倉です。
“新田丸”は貨客船で、貨物用スペースを多くとるために上甲板以下が充て(あて)られており、旅客設備はすべて上甲板以上の居住性の良い場所に置かれています。
以下、折込の「客室配置図」にしたがって説明します。
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