ちょうどそのころ帆船時代から機械に変えていました。英国の海軍の場合、オフィサーはだいたい少し余裕のある人たちのクラスから来るんです。いい学校に行っているとか、いいクラスから来ているから、子供のときから、いいものを食べて、スポーツをやって、体がいい人がオフィサーになるんです。しかしイギリスの場合、水兵は本当に普通の町の人が多いです。田舎の人もいたけれど、町の人が多い。
特に港町、これは産業革命の時代です。産業革命の時代のイギリスの労働階級はだいたい背があまり高くないし、いい食べ物を食べていない。それからスポーツはあまりやっていない。そういう若者を船に乗せる。帆船時代だったら、ロープを引っ張ったり、轆轤を回したり、マストに上がったり、そして休みの時期に踊ったりして、海軍の踊りがあった。これは足元がしっかりするように、海軍の踊りがあるんです。親父が酔っ払ってやるんですが、本当におかしかった。
しかし機械の時代になると、このロープ、帆がないので運動がないんです。ストーカの下はこういう力があるけれど、体にはあまりよくない。腰が痛くなったり、船が動いているときにすべって転んだりする怪我が多い。最後に船ができたときに日本海軍の水兵たちが来るんですが、日本の水兵たちはとても足腰が強くて体がいいんです。イギリス海軍はなぜこの違いがあるのかと勝手に決めた。日本の軍艦ができあがるときに、イギリスから日本に渡す儀式があるんです。そのときは水兵たちが折り紙で無数の花とかを船中に飾るんです。想像できますか。船中が折り紙の花です。甲板に畳を敷いて、柔道、剣道、相撲を皆に見せたのです。それでイギリス海軍は柔術を見て、この運動がとてもいいからと海軍が入れてしまったのです。
ちょっと話が長くなるけれど、皆さんにあの時代を想像してほしい。これは英国にとってはとてもプラスであったし、だいたい喧嘩では大きな男が勝つことは決まっていたんです。小柄な人が大きな人を投げるということは想像していなかったのです。私が12歳で海軍cadetに入ったら、柔術を教えてくれるんです。僕の学校は740人の男の子がいて、ウェールズ生まれの子が3人だけですごいいじめにあったんです。それで習った柔術をちょっとやると、喧嘩に勝って、ざまあみろです。(笑)
向こうは全部これです。こっちはキンタマを蹴ったり、いろいろやったりする。それで学校で評判が悪くなった。喧嘩というものは女性は理解できないと思うけれど、いじめられた奴が急に喧嘩が勝つようになると、喧嘩が楽しみになるんです。cadet(士官候補生)のインストラクターが僕の親父に「あんたの息子はこのままいくと刑務所に行きますよ。ちゃんとした柔道を習わせたほうがいい」と忠告してくれた。だから14歳から柔道部に入れられました。
そこで初めて日本人に会いました。コイズミグンジという大正時代に講道館から送られて柔道を英国で教えていた人で、ものすごい紳士でした。だから僕がどうして日本にいるかというと、親父ができてcadetに入って柔術から柔道を習って、今度は日本に憧れてしまったからなんです。そういう人間のつき合いがものすごく大事です。本当はオフィサー・トレーニングに行けたんですが、私が海軍に入りたいと16歳のときに親父に言ったら、親父がだめだと言った。「どうして」と聞くと、「だめだ。おまえは人の言うことを聞かない」。「聞くじゃないですか」と言ったら「あなたは納得すると聞くでしょう。でも納得していないと絶対に聞かない。これでは海軍はだめだよ。納得するか、しないかは関係なく、言うとおりにできるか」と言うので、僕は「さあ」と答えたんです。それで僕は17歳のときに家出して北極探検に行きました。
僕の人生は大自然の中の調査と日本と武道への憧れでバランスがずっととれています。北極に3回目の探検をしたとき、カヤック、ボートなどいろいろなものを使って海軍cadetで学んだことが本当に役に立ちました。学校で習ったことは何も役に立たない。上手に嘘を言えるということは小説家に道に行くかもしれないけれど・・・。ごめんなさい。これは悪い冗談です。日本に柔道、空手に憧れて来たんです。日本が大好きで、2年半でやっと空手の黒帯になって、私が本来の仕事に戻らなければならないと思ったのです。
そして北極水産研究所の技官として呼ばれ、アザラシ、セイウチなどの調査に入りました。われわれカナダの北極水産研究所の管轄で北極地方と東海岸にもありました。東のほうはタテゴトアザラシがたくさんグリーンランドとバフィン島から秋に南に来て、ニューファンドランドとノバスコシアのあたりで氷の上で何百万匹の子を産みます。その当時は特別な船が氷を割って、子供のアザラシにコツンとして毛皮と脂肪をとっていました。われわれ技官の仕事はそのサンプリングをしなければならない。そういう船に乗ったり、いろいろとやりました。
ちょうどそのころにカナダの大西洋の海岸にクジラが増えていました。特にナガスクジラです。いちばん大きいクジラは何クジラでしょう。いまは若い人がわからないですね。2番に大きいのがナガスクジラでたくさんいました。ノルウェーの会社がそれを見て、沿岸捕鯨をやることになりました。ノルウェーの捕鯨船とカナダの沿岸の基地が、海の哺乳動物だからわれわれの管轄になったのです。しかしわれわれのところでアザラシやセイウチの解剖ができても、でかいクジラの解剖はわかりません。
しかし前から太平洋のほう、BC州でマルハ、大洋漁業がイワシクジラとマッコウクジラの漁を沿岸でやっていました。西カナダでしたから、これは違うところの管轄でした。僕がそっちに送られたんです。沿岸であがったマッコウクジラやイワシクジラの解剖を見て、サンプリングをとって、データをとるんですが、カナダ人にものすごく意地悪をされました。これはカナダ人の特徴ですね。アメリカもそうですが、政府の人が嫌い。
大きなクジラの血だらけで何が何だかわからないところから「卵巣をとりなさい」と言われても、どうやって捜すのかわからない。クジラの解剖が続いているし、ワイヤーが引っ張られている。怒鳴られたりして、もう大変でした。しかしそこで解剖の肉の分は日本人がやっていて、骨と内臓と外の脂肪をノルウェー人とカナダ人がやっていました。日本人の5人はものすごく親切で、特に僕が少し日本語ができるとわかったら「ニコル君、こっち」に来なさい、「はい」とすごく親切でした。そこで初めて、オノミを食べたんですが、うまかった。それから毎晩で、とてもうまかったんです。(笑)
僕はちょっと経験があって、それから今度は大西洋のほうへ行きます。大西洋は素晴らしいナガラスクジラを揚げているでしょう。20メートルで素晴らしいのですが、解剖は揚げてやっているのではないのです。港の中で岸壁と船の間で帆船時代の方法で解剖しています。だから当然骨の裏の肉、背骨の裏の肉、頭の肉、肋骨の間の肉はとらない。これはものすごく無駄です。港は汚いから、人間の食べ物にはならない。ミンクの餌、キツネの餌にしていたのです。あとは骨と内臓を港の外へ引っ張って捨てていたんです。これは法律違反です。
そして母乳を持っている母クジラもしょっちゅう獲っていました。これも法律違反です。シロナガスも獲った。これも法律違反です。だから私は意地悪されながら猛反対をしていました。最後に僕が圧力をかけて、クジラを水の中で解剖するともったいないから揚げろ。ウィンチを入れて、長く、何回もやった。この小さなウィンチでクジラを揚げようとしたら、ウィンチが抜けてしまったとか、今度は阿呆どもが同じウィンチを入れ直して、事務所がコンクリートの上に建っていた。その事務所のコンクリートにワイヤーを二つ張って、クジラが揚がったら、だんだんと水から出るでしょう。重くなるでしょう。今度は逆ずりしてウィンチから煙が出て、ウィンチからポコッと抜けて事務所も一緒にズルズルです。(笑)
そういうところで写真を撮ったり、笑ったりではいけませんでした。笑い話はいっぱいありますけれど、実際にあの捕鯨はだめでした。最後のほうに、大きいウィンチを入れてクジラを揚げた。ある日母クジラが揚がって、母乳が噴水のように出ました。私は写真を撮りました。すると、そこのノルウェー人のでかい奴が僕の首をつかまえて「この野郎」と言ったんです。
私は柔道も空手もやっています。いまはちょっと抜けたけれど、当時は2回目の北極探険、日本に来る前にイギリスで一番若いプロレスラーだったんです。だからその男を港に放り投げたんですが、彼は重いブーツを履いていたので泳げない。それで溺れそうになった。私はボートもないし、飛んで入ったら彼がすごく暴れたから、ノルウェーの捕鯨船の連中に「おーい助けて」と叫んだんです。そうしたら「まだ死んでないから」と皆が出て写真を撮っていました。残酷なものです。とにかくボートを出して助けた。それで僕はクビです。
それから北極に行きました。そして僕はレポートを書いたのです。これだけ無駄があって、クジラを動物の餌にするのに獲るなんて僕は許せない。これだけ違反があるのはとんでもない。発表するぞ。だから僕を北極に行かせたのです。しかし今度極洋捕鯨が入ってくる。極洋が“十七京丸”という船を送ったのです。
僕はちょっと日本語ができるし、北極からまた呼ばれたのです。「今度は暴力は絶対だめよ。日本の船に乗りますか。喧嘩もだめよ」と聞かれましたが、僕は日本人とは喧嘩をしない。それほどの馬鹿じゃない。「乗りますか」と言われ、「乗ります」ということになった。本当にあの船“十七京丸”は誠実で違反を全然しようとしないし、ニューファンドランドにクジラを揚げていましたが、肉も何一つ無駄にしない。またオノミは毎日で、のどちんことか、歯茎、ウネスとかはよかったですね。それまでは日本との付き合いは確かに柔道、柔術、空手、日本の小さな島、式根島や日本の山とかはあったけれど、日本の海の男に、あのころから僕は惚れてしまったのです。
人生においてはいろいろな仕事がありました。エチオピアの国立公園の公園長になったし、日本で水産を勉強したし、北極の調査船に乗ったり、いろいろやったけれど、僕は34歳からカナダの西海岸の環境庁の緊急係になった。大型タンカーなどの事故があったときに、海や川に大きな影響がある事故で僕は行かなくてはいけないのです。オイル・フェンスを使ったり、いろいろなオイルを処分するところなど、いろいろなことをやっていました。
ちょうどそのころに日本の捕鯨へのバッシングが始まりました。新聞やテレビの中で、日本人が最後のシロナガスクジラを動物の餌のために獲っているということを言っていました。それで僕は弁護しました。これはどうしても嘘です。シロナガスはずっと保護されているし、日本人が動物の餌のためにクジラを獲るわけがない。そういうことを発表したら、政府から「おまえの管轄ではないから黙れ」と言われました。それからいろいろな保護団体からものすごく嫌な手紙や電話が来る。
最後には私は思ったのですが、クジラを獲るのをやめようという考えはわかります。でも正しい議論をしようと思ったのです。日本人がもうクジラは必要ないとなったら、日本人で決めてほしい。でも場所によっては大地や鮎川といったところでクジラは文化の一部だから、私個人が守るべきだと思っていました。しかしあれだけカナダで意地悪される。僕を殺してやるとかいろいろあったから、私は38で政府をやめて、カナダをやめて、大地に来たのです。大地で1年、日本の捕鯨の歴史を学びました。
素晴らしい歴史があったけれど、がっかりしたことが何度もありました。一つはあの時代、江戸時代の勢子船という船がありました。大地の勢子船は15人乗りで、大きなうねりにも出ていけます。高知の室戸のほうは9人乗りです。でも大地は15人乗りです。漆を塗ってあったでしょう。あの勢子船は人力で動く、海に出る船で飛び出て速かったです。飛び出て本当に荒海で大きなクジラと戦っていた船があったのです。その船を動かすやり方とモリを投げるやり方、歌、それらを全部書いてあったけれど、実際には残っていないのです。
英国に行くと、カッターとかホエールボートなど伝統的なボートは全部残っています。皆、完全に残っています。私があのときからいろいろな日本人に勢子船を復活してよと言いました。なぜか。簡単に、俺が見たい。漕いでみたい。もし勢子船があったら、たとえば9人乗りと室戸タイプ、15人乗りのタイプで、海の競争をやったらすごいものになる。でもみんなはのほほんーとして「そう?」という感じです。
カヤックは北極の船です。カヤックはイヌイットの言葉で男船という意味です。カヤックはその当時、20何年前に100万人の日本人が漕いでいますし、オリンピックには出ているし、いまはもっと多いです。あんなにカヤックが大好きで、僕も好きだけど特にシーカヤックがいいと言って、勢子船に興味がない。僕は腹が立つんです。でもいくら言っても、なぜ、日本人よ、自分の海の文化を大事にしないのか。かっこいい。勢子船はいま漆でなくても、ヨットに使っているようなものでもいいではないか。僕もカッターやホエラーも好きだけれど、漕いでいる人たちが船先を背中にしているでしょう。どこへ行くか見ていないのです。後ろのほうの人が指示をする。でも勢子船は立って、みんなで合わせて船先を見て、波を見て行っているではないか。これはいい。
確かにカッターはいいけれど、お尻が痛くなって、こっちの肩の筋肉ができます。でも日本の漕ぎ方だったら、お腹の脂肪がなくなり、足腰が丈夫になる。こっちもこっちも全部体を動かすでしょう。やりたかったんです。いま勢子船はちょっと造っているけれど本物ではない。そういうことがあるんです。
そのあとは船のことをずっと考えました。捕鯨がだめになったのです。なぜだめになったか。一つは牛肉です。今日は私は自分に約束したのです。ブッシュ大統領の悪口は我慢して言いません。(笑) 堪えて言わない。「ブー、ッシュ」と言うだけです。レーガン大統領はランチャーだったのです。牛肉の力で政治家になった。奥さんがグリーンピースでした。レーガン大統領のころに、アメリカ人がハンバーガーは大好きだけれど、放牧した、そんなに油のない肉のほうを好むようになったのです。その肉はどこから来るか。それは南米、アマゾンをどんどん切り拓いて焼いて牛を入れていたのです。そしてその安い牛をアメリカに売って、それがハンバーガーのもとになる。ハンバーガーは安い。
でもアメリカのランチャーが牛を売るときに、最後に重くなるように穀物を食べさせるのです。その油がたっぷり乗っている肉は、皆は欲しくないけれど、それを好む国があります。そこで日本に売りましょうということになって、20何年前に、牛肉業界はものすごい圧力がありました。その圧力とともに捕鯨のことを同時に強く言いました。僕から見ると、昔ほど日本人が給食でクジラの肉を食べなくてもいいけれど、文化を残してほしかったのです。特に増えているクジラ、ミンククジラなどを枠を決めて獲って、日本人の食卓に載ったら、ほかの生き物の負担にとって、やさしくなる。
アマゾンであれだけ森を破壊して牛を入れたことで、もう一つ大きな影響があったのです。あの南から鳥たちが移動するんですが、その鳥がアメリカの草原に来て、昆虫を大量に食べるのです。しかしアマゾンが牛のために破壊されたら、虫が圧倒的に減りました。そしてどうなるかというと、昆虫が増える。それで何をするか。薬を撒く。そしてその薬は牛の体の中に入る。それでいいから日本に売れという感じです。われわれの食卓、われわれの文化は・・・。われわれというのは僕は9年前から日本人になりましたからね。(笑)それは世の中の動きと全部つながっています。つながっていないものはない。
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