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2005年6月号 中央公論
幻想を吹きとばす反日地政学
渡辺利夫/拓殖大学学長
 
 ソウルを経て北京、上海、香港を駆け足で回るというのが私の春休みの「年中行事」なのだが、学内の仕事に忙殺されて今年はこれがかなわなかった。韓国と中国で吹き荒れた「反日」ナショナリズムの凄絶を自分の目で確かめる機会を逸して無念である。
 島根県議会による「竹島の日」条例制定を機に盧武鉉(ノムヒヨン)政権の反日姿勢は一段とヴォルテージを高め、ソウルの日本大使館は連日激しい抗議デモに取り巻かれた。中学校歴史教科書検定に際しては、日本は「侵略と支配」の歴史を正当化しようとしているとさえ大統領が公言した。韓国政府は、今後「過去の問題」をもち出さないとした七年前の金大中(キムデジユン)の公約も、盧武鉉自身が昨夏、日韓首脳会談で表明した、自分の任期中は「過去」を問題にしないとした公約のいずれもが反古となってしまった。盧武鉉はこの対日強硬姿勢によって自らの支持率を一挙に引き上げることに成功したのである。
 四月に入って、北京の日本大使館、つづいて上海の日本総領事館が群衆に包囲され、罵声と投石によって痛めつけられた。当然ながら日本政府はこれに厳重抗議し謝罪と賠償を求めたものの、中国人民の感情を逆なでする重大な原則問題に真剣に対応しない日本側に問題あり、というのが中国政府の反応であった。
 第二次世界大戦が終わって六〇年が経つ。六〇年といえば二世代である。韓国と中国のいずれにおいても、日中戦争や「日帝」時代を体験した人々はすでにマイノリティである。軍国主義や植民地支配の社会的記憶も次第に薄れ、日韓にせよ日中にせよ「普通の国」同士の関係になってよさそうなものだが、事実はまったく逆の方向に動いている。
 日本の旧悪に対する怨嗟の声は両国でいよいよ高い。旧日本の罪業を抉り出してこれを糾弾しようという、現在の日本人にとってみれば「一体どうして」と思わされるような事件が相次いでいる。時間の経過とともに戦前期日本の負のイメージが再生産され累増して、反日のマグニチュードが大規模化している。日中韓相互の貿易・投資関係が緊密化し、「東アジア共同体」論がマスコミや学界を賑わす一方で、東アジアで最大の経済規模を擁するこの三国の政治関係が冷え込み、嫌悪の情を露にするという状況は異様である。「隣国はとかく仲の悪いものだ」といった訳知りのレベルの話ではない。FTA(自由貿易協定)やEPA(経済連携協定)を取り結ぶことにより相互の共通利益の幅を広げていけば、対立はおのずと解消されるかのように説く論者は私の周辺にも少なくないが、希望的観測であろう。反日を構造化せねば生き延びていけない根源的な何かが中国や韓国の社会の深層部にもし存在しているのであれば、「東アジア共同体」どころではない。
 東アジアはそれぞれが固有の中華思想をもち、周辺諸国を未開野蛮な地域として下方にみる「中華思想共有圏」だと古田博司氏は主張する。中華思想という「古層」をナショナリズムという「新層」が覆い、これが反日となって時に噴出するメカニズムを氏は能弁に語っている(『東アジア・イデオロギーを超えて』新書館、二〇〇三年)。この説の真偽を判断する素養は私にはないが、現在の東アジアの政治状況を古代中国の儒礼なちびに周辺によるその共有にまで遡って解釈しなければならないのであれば、われわれは日中韓の確執を宿命として忍ぶよりほかない。
 中華思想という用語法にこだわらずに、もう少し直近の政治的事実を眺めながら東アジア確執のありようを説くことはできないか。歴史学者でも政治学者でもない私が、中国と朝鮮半島という長大な歴史伝統をもつ国の反日のメカニズムを語るのは不向きだが、アジア共同体の成否を占う最大の論点がここにある以上、一言なかるべからずである。
半島の地政学と「反外勢」ナショナリズム
 今年二〇〇五年は、日韓基本条約が成って四〇年、「日韓友情年2005」と命名されている。「韓流」が社会現象となって日本人の対韓感情にはどこか温かいものが流れているが、他方、韓国人の対日感情が軟化したという兆しはない。実際、昨年の三月には「反民族行為真相糾明特別法」が超党派議員の共同提案によって成立した。日本統治時代の「対日協力者」を探り出し真相を明るみに出してこれを糾弾するための法律である。
 事後法によって六〇年以上も前の「罪科」を裁こうという韓国政治家の法感覚は一驚に値する。日本人であれば「一体、いま、なぜ」と問わざるをえないが、韓国の反日はもう「骨がらみ」であって、これが和らぐことは過去と同様将来も期待しないほうがいい。韓国は反日ナショナリズムという背骨がなければまっすぐには立っていられない国なのではないかとさえ思う。
 もっとも、ここでいいたいのは韓国の反日それ自体ではない。このことはもういい尽くされている。主張さるべきは、信じ難いほどの速度で目下進んでいる韓国の「北朝鮮化」についてである。韓国の北朝鮮化を推進しているものが、金正日政権の「南朝鮮革命」に対する飽くなき強い執念であり、その執念を「体化」したあらゆる手段を弄しての恒常的な対南工作である。しかし、これもすでに多く語られているので言及はやめておこう。
 ここで説きたいのは、韓国の北朝鮮化を促しているものが、冷戦崩壊にともなって生じた南北「代理対立」の消滅、ならびに盧泰愚政権誕生以来の激しい政治的民主化の二つであり、そうであれば韓国の北朝鮮化を避けることは容易ではないという事実についてである。
 朝鮮半島においては、父子関係を軸に血縁を縦に継承していく父系的血縁社会の伝統が根強い。この家系的構図が国家にまで外延的に拡大され、すなわち国家とは家族を擬したもの、文字通り「国の家」として認識される。それゆえ「外勢」に脅かされれば、強い血縁的なナショナリズムが「反外勢」ナショナリズムの形をとって発揚されるというのが朝鮮半島のつねである。冷戦下、南北代理対立の最前線に位置する朝鮮半島において完全に封じ込められていたこの反外勢ナショナリズムが、次第に大きな力として半島力学を変化させ始めたというのが私の見立てである。
 反外勢ナショナリズムの内実は、「血こそがすべて」だと考える韓国民にとっては「親北」であり、翻って反米であり反日である。半島の分断を固定化してきた外勢は直接的には米軍である。したがって反外勢はまずは反米運動という形をとる。恐れていた事態がついにやってきたかの感が深い。二〇〇五年末までに、現在、三万七〇〇〇人の規模で駐留する在韓米軍のうち一万二五〇〇人の削減が米政府によって決定され、この決定が韓国政府に伝えられた。軍事境界線の最前線で防衛の任にあたる約四〇〇〇人の米兵がイラクに投入されたものの、投入兵力が任務終了後、韓国に戻ってくるか否かは未確定である。
 ソウルを流れる大河が漢江(ハンガン)である。漢江以北、軍事境界線までが広い意味での韓国の前線である。ここに米第二師団が駐留することは米韓双方にとって重要な意味をもつ。北朝鮮が南侵してきた場合に最初に応戦するのが前線の米軍であるがゆえに南侵を制止し、また南侵が米軍を危機に晒すがゆえに米国による北朝鮮先制攻撃を抑止できるという想定である。
 軽口をたたけば、在韓米軍は韓国の「人質」のごとき存在である。米第二師団が、米韓連合司令部とともに漢江以南に移転する計画が両国によって合意されている。米政府は新武器システムの導入により朝鮮半島に軍事的空白が生じることはない旨を付言したものの、真意とは思えない。反米的な姿勢を強める盧武鉉政権に対する強い嫌悪感が米国にはある。イラクで疲弊しつつある米国が歓迎されざる韓国での駐留に嫌気がしたことが、在韓米軍削減を急がせた理由にちがいない。米軍兵力の削減が北朝鮮に誤ったシグナルを与えるという「北朝鮮リスク」を抱えながらも、駐留継続により反米気運を高める「韓国リスク」の方を重視し、あえて削減を決定したと考えるのが合理的であろう。
 米軍兵力削減は何よりも盧武鉉政権の意思である。盧武鉉政権のスローガンが「自主国防」である。二〇〇三年五月に盧武鉉は今後一〇年間で自主国防の基盤を作り、米国への軍事依存をつづける意思はない旨を語った。核兵器保有への疑惑が濃厚となり、軍事境界線の北方に無数の砲門をソウルに向けて配備する北朝鮮を眼前に控え、盧武鉉政権はなお反米的である。盧武鉉政権の指導部はかつて野に在って学生運動、労働運動、市民運動など左派的で反体制的な政治運動に従事してきた組織のリーダーたちである。盧武鉉自身が在野勢力の指導者であった。
 韓国民主化運動の帳が開かれたのは、一九八七年、当時の民正党総裁の盧泰愚(ノテウ)によって宣言された、大統領直選制を憲法にうたう「六・二九民主化宣言」によってであった。この宣言にいたる一〇年余、韓国の反体制運動は朝野にこだまし、有力な左派指導者を輩出した。彼らは「容共的」な金大中政権下で強固な政治勢力となり、盧武鉉政権下でエスタブリッシュメントとなった。盧武鉉政権の親北姿勢を物語る材料には事欠かないが、二つの事例をあげておこう。
 一つは、北朝鮮の対南工作阻止のための法的根拠が、朝鮮戦争休戦後ほどなく制定された国家保安法である。北朝鮮は韓国最大の「反国家団体」であり、親北的な思想と行動には死刑を含む重刑が科せられた。この国家保安法が盧武鉉政権下で廃棄、少なくとも北朝鮮に有利な形で改定されようとしている。
 『韓国論壇』発行人の李度(イドヒヨン)氏によれば、金大中政権下の一九九九年三月、当時の法務部長官朴相千(パクサンチヨン)が「現行の国家保安法には人権侵害の素地がある」と発言して以来、保安法は骨抜き状態となり、この法を根拠にした疑惑者の拘禁・逮捕は不可能だという(『北朝鮮化する韓国』草思社、二〇〇四年)。
 もう一つは、金大中政権によって始められた「太陽政策」が具体的な実施段階に入ったことである。二〇〇〇年の平壌での南北首脳会談で合意された開城工業団地の造成が現実化しつつある。二〇〇〇万坪の敷地に一二〇〇社の韓国企業が入住、年間売上高二〇〇億ドル、韓国技術者が京義線でソウル・開城間を往復。造成工事に加え鉄道、道路、電気、通信などのインフラに莫大な対北資金が流出する(『産経新聞』二〇〇四年四月十八日、朝刊)。
 民主主義国の韓国において左派がエスタブリッシュメントとなったのは、彼らに対する国民の強い支持があってのことである。要するに韓国の国民意識が親北・反米の方向に大きく傾いているのであり、「血こそがすべて」だと考える韓国民の情念のナショナリズムを変えることなどできない。韓国の北朝鮮化はすなわち日本の危機である。振り返れば、近代日本を悩ませつづけたものが朝鮮半島であった。明治維新後の幼弱な日本にとっての最大の課題は、列強の「西力東漸」から身を守ることにあり、焦点は朝鮮半島にあった。大陸勢力と海洋勢力がせめぎ合う朝鮮半島の地政学は日本にとって宿命的であった。
 清国の属領李氏朝鮮において農民暴動「東学党の乱」が起こるや、李朝は直ちに清国に援軍を要請し、これを機に日本も出兵した。日本が提出した日清共同の李朝内政改革草案を清国が拒否して日清戦争が勃発した。日本がこの戦争に勝利して手にしたのが遼東半島、台湾、澎湖諸島であった。清国の敗北は列強による中国大陸の「蚕食」を誘った。南下政策の手を緩めないロシアにとって極東アジアの戦略的要衝遼東半島の確保は至上の命題であり、独仏を加えた強圧的な三国干渉によって日本は遼東半島の返還を余儀なくされた。
 山東省で蜂起した漢人の排外主義武力集団が北京に迫り、列強八ヵ国の連合軍がこれに対抗するという事件(義和団事件)を好機として、ロシアは満州に大兵力を投入、ここに居座ってしまった。満州がロシアの手に落ちたという事実は、朝鮮半島において日露が直接対峙することと同義であった。日清、日露の両戦没は、朝鮮半島が日本にとって宿命的存在であることを心底知らしめた。
 さて、現在である。有数の経済力を擁した韓国が核保有の可能性の高い北朝鮮に統合され、血族的ナショナリズムの強い半島国家として成立する危険性が排除できない。日露戦役から一〇〇年を経て、極東アジアは「先祖返り」を始めたのかもしれない。
 冷戦崩壊は、冷戦下で抑え込まれていた民族的、宗教的、言語的な人間集団の「再統合」をもたらす動因となった。世界各地で闘われている地域紛争の真因は、人間の原初的集団への再統合の衝動なのであろう。一触即発の南北朝鮮で再統合への衝動が露になるとは想像できなかったが、盧武鉉政権下の韓国政治はその可能性を現実のものにしかねない。冷戦崩壊後の国際政治力学と民族心理は、実は深層部において強い関係で結ばれている。この深層部をみつめて、怜悧な戦略を打ち立てねば、日本は極東アジアでまっとうに生きていくことはできない。
反日愛国主義路線の呪縛
 私が中国との往来を始めたのは一九八五年のことであったから、もう二〇年の付き合いになる。その前半の一〇年間、私が中国人の中に反日的なセンチメントを感じ取ることはなかった。何か変だぞと感じ始めたのは一九九〇年代の中頃からである。一九九五年の夏、私は一ヵ月ほど北京に滞在していた。新聞やテレビはもとより、自分を取り巻く中国人の醸し出す空気が次第に冷え冷えと変化していくのに気づかされた。後になってみれば、この変化は江沢民政権が始めた反日愛国主義運動のまぎれもない「成果」だったのだが、不覚にもそのときには思いが及ばなかった。
 首相の靖国神社参拝、中学校歴史教科書に対する反発などからして、中国の対日政策が相当厳しいものとは知りつつも、所詮は政権中枢部の対日「政策」であって、一般大衆はもう少し友好的なはずだと多くの日本人は想像していたにちがいない。試合開始前の君が代演奏が聞き取れないほどのブーイングを会場に轟かせるというのはいかにも異常である。北京での最終試合では、日本人サポーターたちに危害が及ばぬよう、北京市公安局の治安部隊が十重二十重に彼らを守らざるをえなかった。試合終了後、会場周辺で数千人が反日を叫び、日の丸を焼き、日本公使の公用車を襲うという事態となった。昨年末、中国を訪れた私は事件に遭遇したある日系企業駐在員から、剥き出しの日本憎悪の大衆感情に慄然とさせられたという体験談を聞かされた。
 一九九四年の「愛国主義教育実施綱要」がことの始まりであった。愛国主義の社会的雰囲気を醸成し、そのために幼稚園から大学にいたるまで愛国主義教育を徹底し、南京虐殺館や抗日戦争記念館のような「愛国主義教育基地」を全土に建設しようというのである。盧溝橋の「中国人民抗日戦争記念館」には、建設後、間もない頃に訪れたことがある。日本軍が中国人に対して暴虐の限りを尽くすさまを蝋人形で再現した、正視に堪えない露悪的な「基地」であった。日本憎悪をこうまで駆り立てねばならない理由はどこにあるのか。
 抗日戦争勝利は共産党支配の正統性を世に訴える格好の材料である。共産軍による抗日戦争勝利なくして中華人民共和国は存在しないのだというロジックである。日本人による侵略が残虐なものであればあるほど、共産党支配の正統性が高まるという構図なのであろう。しかし、日中友好がこれによって空文化するというリスクがある。
 江沢民政権がそのリスクを冒して反日運動を展開したのにはもちろん理由がある。天安門事件が起こったのは一九八九年六月である。ほどなくして東西冷戦が終焉し、ソ連邦が解体のやむなきにいたった。音を立てて崩れる共産党の権威と統治力を復元するすべをもつことなく江沢民は中南海に登場した。みずからの正統性を新たに訴えるには「富裕」と「愛国」しかなかったのであろう。前者が市場経済の加速であり、後者が反日運動の展開であった。権力基盤や党人脈の強力な小平の時代には反日カードが切られることはなかった。実際、一九九二年には天皇・皇后両陛下のご訪中さえ可能だったのである。
 否、それより前に、一九七二年の日中共同声明や一九七八年の日中平和友好条約の調印時において、後の反日運動のキーワードとなる「歴史認識問題」などは交渉の議題にすらならなかった。日中関係修復を対ソ「反覇権」カードとしたい中国の思惑もあってのことであろうが、当時の中国指導部の胸中に歴史認識問題が存在していたかどうかさえ疑わしい。
 中学校歴史教科書問題にしても首相の靖国参拝問題にしても、冷戦崩壊後に行き場を失った日本国内の左派勢力が、その遺恨を日本の負の歴史の中に求めて騒ぎ立て、これを奇貨として新たな対日外交カードに仕立てたのが江沢民であった。
 自らはまったくコストを支払うことなく外交的優位性、否、道義的優位性をさえ手にして日本を「倫理的」に追いつめるカードを獲得したのである。
 しかし、問題は江沢民政権の反日政策それ自体というより、この政策に国民が共鳴し、日本への怨恨が草の根にまで及んだという事実であろう。どうしてそうなったのか。江沢民が政権に就いた頃には中国の市場経済化の速度は一段と速まり、国民階層は多元化し、錯雑化し、流動化する社会になっていた。中国は共産党一党独裁で統治できるほど単純な社会ではなくなっていたのである。この社会に求心力を作り出すには、反日カードしかなかったのであろう。
 これに関連してもう一つの要因がある。市場経済化はその受益者を輩出する一方、敗者をも膨大に生み出す。私の推計によれば、都市就業者の失業率はすでに一二%を上回り、 WTO加盟にともなう自由化・規制緩和により、これはさらに高まることが予想される。農村就業者五億人のうち一億六〇〇〇万人以上が潜在失業化しているというのが中国社会科学院の推計である。そのうちの相当部分が沿海部都市に向けて流動をつづけている。流動人口の規模は少なく見積もっても一億人を超えるもようである。
 改革・開放の敗者、市場経済化により「割を食った」人々が、反日であれ反米であれ、他の何であれ、社会を不穏化させる動きには自らの不満の吐け口を求めてこれに積極的に関わっていくことは容易に想像できる。サッカーアジアカップのブーイング事件、北京の日本大使館、上海の日本総領事館への投石の主役は彼らだったのかもしれない。
 二〇〇二年秋の第十六回共産党大会において江沢民は党総書記を退き、胡錦濤がこれを継承した。翌年の全人代では朱鎔基に代わって温家宝が新たに国務院総理となり、胡・温体制が成立した。新体制下で反日愛国主義路線に代わる「対日新思考」路線が模索され始めたかにみえる。実際、そうでなければ外交的地平を開くことが難しいという事情が現在の中国にはある。
 中国は沿海部を米第七艦隊にブロックされ、自由な立ち居振る舞いが許されない。このことは、一九九六年三月の台湾総統選に際して李登輝の当選を阻止すべく、中国が台湾海域で大規模軍事演習をした際、米海軍の二隻の航空母艦が出動して直ちに演習中止を余儀なくされたという「屈辱」によって証明されてしまった。台湾を制圧し南シナ海、東シナ海の制海権を掌握して海軍の外洋進出を果たすことは中国積年の夢であるが、いまなおはるかなる夢である。
 加えて、米国での同時多発テロ事件以降米空軍の中央アジア進出は、ソ連邦の崩壊によって消滅したと思われていた「北の脅威」を新たな形で中国に突きつけた。キルギス共和国大統領顧問を務める田中哲二氏は、同時多発テロ事件以来、米軍はアフガニスタン侵攻のために中央アジア・コーカサス諸国の領空通過、軍事基地化を図り、イラク攻撃以降は半恒久的駐留にいたった経過を述べ、「旧ソ連邦の盟主ロシアは、旧ソ連邦のフロントライン(中国、アフガニスタン、イランとの国境線)から、北に上がったロシアの新フロントライン(カザフスタンとの国境、大コーカサス山脈の線)の間を米軍に明け渡した」と記す(『世界週報』二〇〇四年十一月十六日号)。
 中国の受けた衝撃はいかばかり大きいものであったか。中国、ロシア、中央アジア四国によって構成され、米国の覇権に抗する「上海協力機構」も空洞化されつつあると田中氏はいう。自国の北方と太平洋を米軍によって固められた中国はひどい鬱屈(うっくつ)に悩まされているのにちがいない。この鬱屈(うっくつ)を解くための政治的ベクトルがASEAN諸国と日本への融和的対応であろう。中国がASEANとの間でFTA構想を高唱し、二〇一〇年までにこれを完成させるという合意を取り付けたことが前者を象徴する。
 しかし、胡・温体制は発足して二年余になるが、対日政策には変化の兆しがみえない。その間に日中国交回復三〇周年を挟んでなお両国首脳の相互訪問さえなされていない。国家副主席で中央書記処第一書記が曾慶紅であり、同氏の支持により公刊されたのが、人民日報評論員・馬立誠の『〈反日〉からの脱却』(中央公論新社、二〇〇三年)である。が、いかにも穏当で常識的とみえる政権中枢公認のこの著作さえ、国内の激しいインターネット攻撃によって発行停止となり、馬立誠は香港に「飛ばされて」しまった。日中友好のためのカードを容易に切れないのが胡・温体制である。日本憎悪を掻き立てた前政権の罪過はいかにも重い。
台湾「本土」化を止めることはできない
 中国を悩ませる目下最大のテーマが中台統一問題である。李登輝時代に開始され、陳水扁によって加速された政治的民主化は、国民党支配時代に封印されてきた台湾人の「本土意識」(台湾意識)を発揚させてしまった。台湾の対中政策が、本土意識を強める台湾人の民意によって決定されるというこの政治状況は、中国にとっていかにも不気味なものであろう。
 二〇〇四年三月の総統選では、「一辺一国(中台はそれぞれ別の国だという意)のスローガンで選挙戦を闘った民進党の陳水扁が再選を果たした。「台湾の子」陳水扁は台湾本土化の象徴的存在である。本土化路線を決定的なものとするための民意確認の場が、二〇〇四年十二月の立法委員(国会議員)選挙のはずであった。与党連合が野党連合を上回る議席数を確保し、安定的政治基盤を築いて残りの総統任期の間に台湾独自の新憲法を制定するというのが陳水扁のプログラムであり、ことはその通りに進展するものと思われた。
 実際、一〇年前と昨年を比較した台湾政治大学の住民意識調査によれば、中台関係の現状維持を希望するものがマジョリティであることに変わりはないものの、中国との統一期待派が二〇%から一二%へと下がる一方、台湾独立期待派が一一%から一九%へと上昇した。事実上の独立国である台湾の現状を肯定的に受け止め、さらに政治的独立へ向かいたいという意識ベクトルが台湾住民の中で強まったことはまぎれもない。しかし、昨年十二月の立法委員選挙においては国民党が議席数を増やし、野党連合が過半数を制する事態となった。とはいえ、これによって本土化路線が変化したとみるのは浅慮であろう。
 時々刻々と変わる中台のパワーバランス、その陰に潜む米国の中台への対応などが、投票所に向かう台湾人の心にデリケートな影響を与えたのであろう。米同時多発テロ事件以降の対テロ戦略ならびに北朝鮮の核とミサイルの暴走抑止には中国の協力が欠かせないとみる米国は、中台関係の現状維持、すなわち与野党均衡が望ましいと考えて陳水扁政権に圧力をかけたのである。
 台湾の本土化を求めながらも、今がそれを決する時機なのか、ひょっとして中国の台湾侵攻の危険性も排除できない、思い千々に乱れて「陳水扁は少々事を性急に運び過ぎてはいまいか」との思いに駆られ、国民党に一票を投じた住民が多かったのであろう。漸進的な一辺一国を求める台湾人の絶妙な平衡感覚が今回の選択であったとみるべきであろう。
 中国は立法委員選挙の結果に安堵の胸をなで下ろしたにちがいない。この選挙結果に対する中国政府の対応は淡々たるものであり、このことが中国の安堵感を隠然と物語っているように感じられた。
 と思いきや、昨年十二月二十九日、全国人民代表大会(全人代)常務委員会は台湾独立の阻止を求めて「反国家分裂法」なる国内法を可決し、この三月の第十期全人代第三回会議でこれが正式に採択されてしまった。
 台湾問題は完全な中国の国内問題であり、次の三つの場合には非平和的方式を含むあらゆる方式で独立を阻止するというのである。(一)台湾独立勢力が分裂の事実を作り出した場合、(二)台湾の分裂を招く重大事態が起こった場合、(三)平和統一の可能性が完全に失われた場合、である。いかようにも理屈をつけることのできる台湾問題の「解釈権」を中国側が握り、台湾の政治動向の細部にまで睨みをきかせようという脅迫的な法律である。台湾海峡の現状変更を躊躇すれば、台湾人の民意はますます中国から遠ざかっていくという危機意識の産物であろう。
 焦慮の愚策というよりほかない。台湾の本土化が台湾の政治的民主化にともなう非可逆的なベクトルであることを見据えて然るべく対応するのでなければ、台湾との統合の道は一層の迷路に踏み込んでいかざるをえない。
東アジア「共同体」?
 NIES、ASEAN諸国、中国、これに日本を加えた地域を東アジアと呼ぶならば、この地域の経済統合度はすでにして著しく高い。二〇〇三年の東アジアの域内貿易依存度は五四・五%に達し、NAFTAの四七・二%を超え、EUの五八・一%に迫る。貿易依存度ばかりではない。東アジアヘの投資国もまた域内化している。一九八五年から二〇〇三年までの対ASEAN海外直接投資累計額の四四・八%を域内諸国が占める。中国の同比率は実に六六・四%である。東アジアにおいては貿易財と投資資金とが域内を自己循環しているのであり、その意味で東アジアは「東アジア化」しつつある。重要なことは、東アジアにおいてはASEANという緩やかな地域協力組織以外に統合を促すための制度的枠組みが存在しておらず、それにもかかわらずこの高い統合度が実現したという事実である。デ・ファクト(事実上)の統合である。
 問題は、東アジアがさらに濃度の高い統合を求め、そのための制度的枠組みを創出すべきだという「東アジア共同体」論が登場し、これにコミットする声が日本でも大きくなりつつあることである。東アジアを自由貿易地域とし、地域内の財と資金交流を妨げる関税や非関税障壁を撤廃・自由化しようという構想であれば、相互の高い補完関係からして参加国に生じるであろうメリットは大きい。それゆえFTAの二国間、多国間の合意は今後とも相次ぐであろう。私もこれを支持する。しかし、支持はそこまでであって、それ以上ではない。
 共同体というからには、政治体制ならびに安全保障枠組み、さらにはそれらを支える価値観や社会理念などを「共有化」するためのロードマップが多少なりとも明るい展望をもって描かれねばならないが、日韓、日中、中台がそれらの共有化とはまるで逆の方向に向かっており、この「逆ベクトル」が構造化されているのが現在の東アジアだというのが小論の主張であった。日本が逆ベクトルの中で安全と繁栄を持続しようという限り、怠ってならないのはこの逆ベクトルからの「距離感覚」の練磨である。東アジア共同体は、どう考えてみても日米同盟を「希薄化」させるという効果をもたざるをえない。
 東アジア共同体が仮に創出されるとしても、覇権を握るのはそのための遠大な戦略をもつ中国となろう。東アジア共同体という中国主導の「風圧圏」の中に身をおき、米国からの離脱傾向を強めるこの構想の中に、日本がさしたる戦略もなく入っていくことの危険性は大きい。極東アジアがなお十九世紀的なナショナリズムの渦巻く諸勢力の確執の場であり、確執を御する力が日本にあるかのごとき前提で東アジア共同体を語ってはならない。
渡辺利夫(わたなべ としお)
1939年生まれ。
慶応義塾大学大学院修了。
筑波大学教授、東京工業大学教授を歴任。現在、拓殖大学学長。
 
 
 
 
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