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2005年3月号 中央公論
ODAを取りやめ対中国外交のあり方も見直せ
中嶋嶺雄/国際教養大学学長
 
 世界的に中国の台頭ということが言われている。単に経済発展に関する事柄のみならず、国際的な舞台でも中国の存在が非常に目立つようになった。最近でいえば、スマトラ島沖地震の津波被害に対する救援、援助でも、中国は積極的に自己の存在をプレイアップしている。日本は金額的にはかなりの額を醵出しているにもかかわらず、中国の素早い対応に圧倒されざるをえない状況にある。
 このような例が見られ始めたのは、アフガニスタン復興に際してであった。このときも、日本はかなりの規模の復興支援を行ったが、中国は周辺諸国であるASEAN(東南アジア諸国連合)から中央アジア諸国まで巻き込んで、もっと大規模に動いていた。
 中国は今、外交の強化という目的にとどまらず、中国の存在感を二十一世紀にいかにアピールするかという、国益外交、大国志向外交を遮二無二、展開している。
 中国がこのような存在になってきているなかで、日本の対中国経済関係の主軸をなしてきた政府開発援助(ODA)の位置づけも当然、見直されるべき時期に来ている。この対中ODAを考える上で非常にシンボリックな事業に、北京空港と上海空港の建設がある。
 新北京空港が完成したのは一九九九年。建設資金の四分の一が日本のODA(円借款)だった。にもかかわらず、オープニングのセレモニーでも日本の協力は言及されていない。こんなことは通常の外交関係ではありえない。さすがに、当時の谷野作太郎駐中国大使がクレームをつけたら、国内線のターミナルのあまり目立たないところにプレートを設置したが、しかし間もなくこれも撤去されてしまった。しかもそのプレートにも、「日本の政府開発援助」というODAの正式な名称は使っていない。
 このあと上海空港が完成する。日本の成田や羽田など比べものにならないほど近代的なハブ空港で、ここにも日本はODAを供与している。にもかかわらず中国はそれをまったく顕彰していない。
 さらに、直近の報道によると、今年度の中国の貿易総額は日本を凌駕するという。たいへんな黒字国で外貨準備も急激に増えている。その中国に日本がODAを供与するということの意味を早急に見直さないといけない。
 私は従来から、二〇〇一年末にWTO(世界貿易機関)に中国が加盟した時点で、日本の対中国ODAを見直すべきだと主張してきた。当然、現時点では、もう即刻中止すべきだ。
日中関係に互恵はあったか
 中国は、日本の一部にODAを打ち切ろうとする姿勢があることに対して、ODAは互恵的、相互的なものであると主張している。ここで中国の言う「互恵」という言葉は、一九五四年に周恩来首相とネルー・インド首相との間で交わされた平和五原則のなかに、「平等互恵」として取り上げられているものだ。これは五五年のバンドン会議の精神にもなり、外交原則として謳われてきた。
 しかし、はたして中国との国際関係で、平等互恵ということがありうるのだろうか。ありうるとすれば、どういう姿勢をお互いに保持しなければいけないか、という根本問題があるはずだが、このことは、これまで、ほとんど語られないままでいる。このような関係では、いくら中国に援助を行っても、それは平等互恵だから当然だという中国流の考えから抜けられない。
 中国とはなぜ、互恵の関係にならないかについては、歴史を遡って見る必要があると思う。
 まず第一に、中国の世界認識の根本は、中華世界秩序(チャイニーズ・ワールド・オーダー)と言うべき自己中心的な意識、考え方であり、周辺国は、中国に貢ぎ物をする存在だという観念が根強く存在してきた。その延長線上で日本が中国に対してODAを供与するのは、当然だという意識がある。
 日中関係の歴史の一番古いところは、『魏志倭人伝』に出ている卑弥呼のあたりになる。織物など持って朝貢しており、それが五世紀、倭の五王の時代まで続く。しかし、それ以降特に聖徳太子の時代になると、中国から仏教などを取り入れてはいるものの、日本には対等な関係をつくろうという自立意識が強くあって、朝貢国ではなくなる。
 これは非常に重要なところで、聖徳太子に遣隋使として派遣されたという小野妹子が伝えたメッセージは、有名な『隋書倭国伝』にも書かれているとおり、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」となっている。これは朝貢関係ではなくて、主体的に、「そちらは、どうですか、お元気ですか」と言っている。日本から見れば、爾来、こうした国家関係をつくってきていたのである。
 一方、中国から見ると、世界にはその中心にまず中華世界(中国)の天子がいて、その周辺に内臣の諸国、その外に外臣の諸国、その外側に近隣の諸国、そして遠くには絶域の国という、同心円的な秩序観が、秦の始皇帝の時代、漢の武帝の時代から綿々と築かれている。この秩序化の延長線上で、日本は朝貢国でないにもかかわらず、中国としては、朝貢国として位置づけようとする衝動が伝統的にあるのだといえよう。
 日本にとって事情を複雑にしている要素として琉球の存在がある。琉球は明らかに中国の朝貢国だった。琉球王国時代の有名な建築物に首里城の守礼門がある。この「守礼」という言葉がまさに中華秩序を表しているものなのである。中華秩序では内臣の国は法と礼と徳によって感化された国、外臣の国は礼と徳によって感化された国、それから朝貢国は徳によって感化されるとされてきた。私は琉球は、もう一つ上のランクに行きたいという意思表示で守礼門を命名したのではないかという仮説を考えている。
 そんなことから、中国からすると日本はやはり朝貢国だという意識がいつの間にか植えつけられてしまったのだろう。尖閣諸島の問題も、沖縄県が明治初期以降管轄し、日本への帰属が国際法的に明確になっていても、沖縄そのものが中国に朝貢してきたという意識がなかなか拭われないから、中国の領土だとされてしまう。
 こういう歴史認識に対しては、日本は朝貢国ではなかった、なにも中国に貢ぎ物をいつも持って行く必要はないのだという事実を、日本人自身がきちんと自覚し、主張することがまず必要になる。
中国の歴史認職カード
 このような具体的な事柄を、今の中国指導者、たとえば胡錦濤氏なり、江沢民氏がつぶさに知っているわけではないかもしれない。だが培われてきた体質的な中国人の歴史意識のなかには深くしみこんでいる。だから常に日本に対して要求をする。もっと持ってきて当然という意識についなるのだ。
 そのときに請求する材料として中国が使っているのが「侵略国としての戦争責任」である。戦争責任があるから戦後賠償を支払うべきだという考え方である。
 ここには賠償問題は日中国交樹立の際に外交的には片づいているということ以外にも、いくつかの問題点がある。
 基本的には戦争責任というものは、どの時代を取るかによっていろいろの尺度がありうる。日中関係を見ると、日中戦争の一五年では、日本にはたしかに軍の横暴があった。けれども、一〇〇年の単位で見ると、日本は侵略だけしていたわけでは決してない。たとえば日露戦争は、まさに日本の専守防衛の戦争だった。それに奇跡的に勝つことによってアジアは目覚めた。トルコに対しても、インドに対しても、あるいはビルマやインドネシアに対してさえその近代化や独立運動に大きなインパクトを与えた。中国も孫文自身が有名な「大アジア主義」の講演の中でそのように発言している。
 けれども、現在の中国は日露戦争について世界史の教科書にも載せていない。私はたまたま最近、中国の近代史、世界史の教科書をつぶさに見る機会があった。中国からの留学生と一緒に探したのだが、彼女は「日露戦争は先生出てないですね」と言う。中国では、日清・日露から、日中・太平洋戦争まで、日本はずっと侵略者だったと主張している。もちろん盧溝橋事件も日本がやったし、「南京大虐殺」も、現在の研究では、いろいろな数字がありうるけれども、「日本軍が殺害した中国人民は三〇万人以上に達する」といった過大な数字を教科書(初等中学課本『中国歴史』)に書いている。そのような文脈で日露戦争の正当な評価を行うと、日本の一貫した侵略性というロジックが消えてしまうからだろう。
 中国が「歴史」にナーバスになっている例は他にも見られる。台湾問題にあれほど中国が苛立っているのは、もちろん台湾独立問題もあるけれども、今の台湾の人たちが歴史教科書を書き直して、台湾自身の歴史をつくり始めたことにある。
 台湾は中華秩序からすると、対隣にも絶域にも入ってない、いちばん外側の「化外」、感化される必要さえないところにある存在だった。現に、台湾は一度も今日の中華人民共和国によって領有されたことも、統治されたこともない。その台湾は日本の領有によって初めて文明化し始めたと、台湾の大部分の人たちは考え、日本に非常に感謝している。このような事実は日清戦争以来すべて侵略だという歴史を綿々と綴ってきている中国にとっては、非常に苛立たしいことなのだ。だから逆にいうと、日本にとって台湾の存在は、非常に重要なのだといえよう。
 日清戦争ののち、李鴻章と伊藤博文が下関で講和条約を締結したとき、李鴻章というのはさすがに大人だった。お互いに一〇年前に行き会っていて「西欧列強に対して立ち向かおうじゃないかと誓ったのに、わが国は中華思想のために近代化できなかった。貴国は一生懸命近代化をやったからわれわれは負けたのだ」ということを言っている。そう考えると、歴史の結果に対しては中国自身の自己責任という問題もあるのだ。日本は明治以降、死に物狂いでヨーロッパに対応した。科学技術を導入しただけではなくて、まさにヨーロッパの精神そのものを学んだ。そういう苦闘を中国は回避して中華思想に安住していた。
 第二次大戦後、日本はとにかく焼け野原になった、原爆も落とされた。しかし、日本はその恨みを反米ナショナリズムに結びつけなかった。平和国家に徹することによって、ある意味では見事に戦争責任を取っている。中国はまったく違う。侵略されたことで被害を受けたというのは確かにそうだが、それでも、終戦時、旧満州における日本の遺産や上海を中心に浙江財閥があったことから、日本よりも当時の中華民国のほうが、経済的にもかなり上だった。ところが戦後、こんなに差ができてしまった。今、中国は経済発展しているといっても、一人当たりGDPでは日本の三〇分の一にも満たない。GDP全体でも、日本が世界シェアの約一五パーセント近く、中国は四パーセント強にすぎない。言ってみればその格差から来る劣等認識が反日感情につながっている。
 さらに日本は戦後、国家の力によって一人も殺していない。こんな国は数少ない。中国は国家の政策によってどれだけの犠牲者を出していることか。大躍進政策、文化大革命、チベットなど少数民族に対する弾圧、それに加えて天安門事件という流血の大惨劇。さらに戦争も、あちこちでやっている。そういうことを考えると、中国の言う歴史認識や戦争責任論など、とやかく言われる必要はないのである。
 こういう点を考えていくと、戦争責任があるから賠償の代わりにODAを供与せよという中国の論理自体、日本に対するある種のコンプレックスを請求権意識に変えたものであって、平等互恵の対等の関係ではまったくない関係を日本に強いていることになる。
ODAの対象としてふさわしいか
 中国は国内開発をどんどん進めているが、私から見ると全くの乱開発で、すさまじい環境破壊ばかりか所得の不平等、社会的な不平等などの歪みが非常に目立ってきている。
 ODAの目的は、対象国の経済開発をサポートすることにある。ただこれは順当な経済発展でなければいけない。今のような貧富の格差を増大し、少数民族地域や農村・山村地帯を置き去りにして、都市だけにぴかぴかしたビルが林立するような経済開発は、本来、ODAの対象ではないはずだ。ましてや今の中国は軍事力まで増強している。そういう状況をもう少し日本はきちんと審査し、監査しなければならない。
 二〇〇一年に中国はWTOに加盟した。このことは中国が一人前の世界の経済パートナーになったことを示している。この時点で対中国ODAの取りやめを考えるべきだった。それをここまで引きずってしまっていることに、大きな問題がある。
 一九七〇年代に始まった対中国ODAの大半は利子付きの円借款だといっても、しかも二・五%前後という低利で一〇年据え置きの上、平均三〇年という長期間を供与するケースが主だから、実際には贈与(無償援助)に近い好条件であった。のちに円高となり、円借款に対する中国側の不満が募ったが、しかし長期的にみれば総計七兆円を超える日本国民の血税を供与してきたのである。
 そこで対中国ODAの内容をもう少し具体的に検討してみよう。
 日本はODAの運用に次の四原則を立てている。(1)環境と開発の両立、(2)軍事用途と国際紛争助長への使用回避、(3)大量破壊兵器の開発製造・武器輸出入等への注意、(4)民主化と市場経済導入の促進、基本的人権や自由の保障。この原則に反する国にODAを供与してはいけないことになっている。では、この四原則に照して中国はどうなのだろうか。今、中国の最大の問題は環境破壊。乱開発と拝金主義のおかげで、大変な国土の荒廃が進んでいる。中国国内ではおさまらない影響が近隣諸国、むろん、日本にまで出てきており、地球温暖化の最大の温床にもなりつつある。こういう乱開発をしておきながら、経済開発のサポートだというのは通らないだろう。
 二番目の「軍事的な用途及び国際紛争助長への使用回避」についても、毎年のように対前年比二桁増の軍事力増強を行っている。最近の原子力潜水艦問題を見ても中国の軍事的な脅威は明らかであって、それだけでももう供与の対象ではありえない。さらにハンティントンの『文明の衝突』(『フォーリン・アフェアーズ』一九九三年夏号)でも指摘されていたが、中国は、パキスタン、北朝鮮、イラク、リビアなどに、核ミサイル開発の支援を行ってきた。こういう、いわば、国際紛争の種になるようなことを行ってきた国に、ODAを供与してきたことは、原則の有無にかかわらず国際的にも問題があると思う。
 三番目については、先に指摘したことのほかに、中国が台湾海峡に五〇〇基以上のミサイルを配備しているのは厳然たる事実。いうまでもなく中国は核大量破壊兵器保有国だ。これを見てもODA原則に外れる。
 それから四番目が一番大事な原則で、日本は西側の一員というポリシーに立っている。中国はようやく市場原理を導入し、促進するというところにきた。しかし、基本的人権はどうか。天安門事件で犠牲になった偉大な政治家、趙紫陽氏の死を巡っても人権や民主の抑圧がさらに明らかになったばかりか、少数民族の抑圧は続いているし、言論の自由はますます厳しくなっている。
 すべての点において日本政府・外務省は日本国民に向けても責任を取らなければならない。自ら決めたODA原則を踏みにじっているのだから。
日本外交の欠陥
 日本政府・外務省は、ODAを継続する理由を、日中友好のためといい続けてきた。けれども、この日中友好の代価ははたして実っているだろうか。一連の反日ブームのみならず、最近の領海侵犯問題、李登輝来日に対する内政干渉、そこへもってきて靖国問題を何回も繰り返して言う。こうした全く倒錯した状況を許容してきた日本の対中国外交を根本から考え直さなければならない。
 私は、そもそもODAを外務省にすべて委ねているというところに問題があると思っている。外務省はもはや惰性でやっている。明らかに利権化、既得権化している。そういう状況を改めていく必要がある。
 今後、条件を厳しく見直した後、なおかつ、中国へのODAを行うとしたら、これは環境対策分野しかないであろう。この環境問題を外務省がはたしてできるのか。環境省もあるし、文部科学省もある。関係各省を集めて、国際関係庁のような機関をつくらないと機能しないだろう。
 私は大学の行政に携わり、アジア太平洋大学交流機構(UMAP)の国際事務総長も兼務しているので比較的詳しいのだが、留学生に対する奨学金は、実はODA資金でまかなわれている。そのため、いろいろの制約がある。ODAだから主にアジアの途上国向けにしか使えないという仕組みにもなっている。そうすると日本から優秀な学生をアメリカに送るとか、ヨーロッパから留学生を受け入れるというときは、ある種の「見なし」でやらざるをえない。何度も改めるように言っているがなかなか変わらない。ODAは外務省主導では良い結果にはならない。
 そもそも日本の外務省は、日中外交を正しくやってきたのだろうか。歴史認識をきちんと踏まえてきたのか。まったくそうではなかった。
 たとえば、尖閣諸島の問題が典型的だ。ECAFE(アジア極東経済委員会)がこの海域の海洋調査をやったのは一九六八年。豊かな海洋資源の存在を知って翌六九年から中国は領有権を主張し始めた。このとき、最初にきちんと問題を処理しておくべきだった。ところが最初からそれを行わなかった。その後、七八年に、小平が来日し、解決は「次の世代、次の次の世代に任せる」という彼の発言に惑わされ、そこでまた曖昧にしてしまった。すると中国は九二年に、一方的に領海法を制定して領有権正当化を図ろうとしてきた。このときも外務省は何も言わなかった。日中中間線についての地図上の線引きも、中国を刺激するからと行わなかった。節目節目でしっかり「対決」することを怠ってきた。そのツケがここまできたという感じだ。
 日本の外交は常に後手に回ってきた。「対決」することは非常に重要な外交戦略だ。なにも喧嘩をすることではない。お互いに論点を本気に出し合って交渉することなのだ。いつも中国にとって耳ざわりのいいことだけで問題を設定してきた。初めから、「贖罪外交」「位負け外交」の位相になってしまっている。日本は今や聖徳太子の時代に戻って、日中が対等であるためにきちんとした姿勢を保持しなければならない。
 日中国交正常化以来、いわゆる「日本友好」で三〇年以上が過ぎているが、これから二十一世紀には、それを一つ一つ正していく努力が要請されると思う。
中嶋嶺雄(なかじま みねお)
1936年生まれ。
東京大学大学院修了。
東京外国語大学助教授、教授、同大学学長を歴任。現在、国際教養大学学長。
 
 
 
 
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