2005年春号 一橋ビジネスレビュー
台湾系IT企業の果敢な中国大陸進出に日本は何を見るべきか
関満博
(一橋大学大学院商学研究科教授)
2002年の春頃から蘇州の呉江に台湾のIT関連企業が大集積し始めているという情報が流れてきた。蘇州のなかでも昆山には、1990年代前半から台湾企業が集結し始めていることはわかっていた。1)
だが、90年代の中頃に徹底して行った私たちの長江デルタ産業調査2)では、呉江は辺境の地と考え、現地調査の対象から外していた。当時、関係者に呉江の状況を尋ねると、「長江デルタの辺境の地であり、見るべきものは何もない」などという言い方をされたものであった。しかし、辺境だからこそこの時期に訪れて自分の目で確認しておくべきであった。辺境が一転して先端地になることは少なくないのである。
中国では何が起こるかわからない。何が起こっても不思議ではない。21世紀に入って数年のうちに、蘇州の地で刮目すべき事態が生じていた。台湾IT関連産業の大集積が、かつて世界に例のない規模で蘇州の地に繰り広げられていたのである。その意味するものは何か。日本側として、そうした事態をどのように見ていくべきなのか。2002年以降、このことが私の念頭から離れることはなかった。
1 問題の所在と私たちの位置
●2002年9月の呉江経済技術開発区
ようやく私たちが呉江を訪れたのは、2002年9月7日(土)であった。そのときの訪中は、日本企業の現地化をテーマとするものであり、上海、昆山、無錫を中心に回っていた。3)現地調査の間に入る休日を資料収集や次のテーマの偵察などに充てていた私たちは、9月の土曜日、車をチャーターし、1日かけて呉江の様子を見に出かけたのである。
国道を上海から西に約2時間30分。延々と田園風景が続き、呉江の開発区とおぼしき場所の北側から入ると、明らかに台湾企業が集積していた。後に確認すると「台湾電子城」と称される部分であった。かつて1993年、台湾のコンピュータ・メーカーである宏碁電脳(Acer)が蘇州に進出する際、引率してきた協力工場14社が着地した場所であった。台湾企業はすぐに識別できる。大陸では台湾の国旗が掲揚されていない。さらに、その地点から南下すると、今度は建設中の広大な敷地が続いていた。華宇電脳(Arima Computer)、中華映管(Chunghwa Picture Tubes)などの敷地は明らかに100ヘクタールを超えていた。私はかつて、電子組立系企業でこれほどの広大な敷地を擁する工場を見たことがなかった。
呉江経済開発区管理委員会を訪れると、休日にもかかわらず、副主任がすぐに資料を抱えて説明にやってきた。呉江経済開発区は1994年に開発をスタート、当初は日本のマブチモーター、そして、先の宏碁関連14社が着地したが、その後は停滞し、2000年以降再び注目され、台湾企業は約300社ほど立地していた。
●台湾企業が大陸に見ているもの
日本人が外国(中国大陸)で域外(台湾)企業を希望どおり訪問することは容易ではない。2003年11月末、広東省の広州から東莞にかけてのエリアでいくつかの台湾企業を訪問する機会に恵まれた。そのなかでも、広州の台湾系靴メーカーヘの訪問は衝撃的であった。
39歳の台湾人経営者は、「われわれ台湾企業の大陸事業は、もう終わりだ」と語った。「どうしてか」という私の問いに、彼は「ローカル企業に勝てなくなった。ローカル企業の経営者は30歳代中頃。学歴が高く、頭が良く、エネルギーがあり、技術もあり、資金もある」とつぶやくのであった。「珠江デルタはそうだとして、今が盛りの蘇州方面のIT関達産業はどうか」という私の質問に、彼は「蘇州にはまだ若い台湾人がいる。だが、置かれている構図は同じだ」と答えたのであった。
振り返ってみると、中国大陸を舞台に、日本企業と台湾企業が同じ仕事をしていく場合、これまで日本企業が勝てた試しがない。日本企業は台湾企業の「現実認識の深さ」「意思決定の速さ」に驚愕するばかりであろう。台湾企業の大陸展開は実に果敢なものであり(特に中堅・中小企業の場合は、まず確実に経営者自身が現地で陣頭指揮をしている。大陸において、明らかに台湾企業は日本企業の5年から10年先を歩んでいる。
日本の中堅・中小企業で経営者自らが駐在しているケースはまずない。決定権を持たない一般社員が駐在している。それでは、厳しい意思決定を下すことはできない。この点が、中国進出の日本の中堅・中小企業の最大の問題ではないかと思う。中国のように日々刻々と状況が変わる国では意思決定能力のある人が駐在しなくてはならない。この激動の21世紀初頭、「台湾企業が現在の大陸をどのように見ているのか」「彼らはどのように行動しているのか」を探ることは、日本の直面している課題を先取りすることになるであろう。
●蘇州調査から受けた衝撃(発見)
本格調査に踏み込んだ2004年1月以降、蘇州の地は私たちに多くの驚き(発見)を与えてくれることになる。
最大の驚きは、2000年、いやむしろ2002年頃からのほんのわずかな時間で台湾企業が大集積を形成しているという事実であった。私たちが初めて呉江を訪問した2002年9月は、まだ集積が開始されたばかりの段階であったが、その後の2年ほどの間に、ノートパソコンのアセンブラーを頂点に、電源、コネクター、コンデンサー、ケーブル、筐体(ケース)等のサプライヤー、さらに、金型、プレス、プラスチック成型、捲線、ラベル印刷、鋼材関係等の加工業者に至るまでの台湾企業による一大集積、サプライチェーンを形成していた。その数は正確には把握できないが、昆山、呉江などを含む「大蘇州圏」で4000件ほどとされていた。
また、私たちは2000年頃には日系企業を中心としたかなり大規模な南の珠江デルタIT関連企業の調査を進めていた。4) その同じ時期に、蘇州の各開発区、鎮政府は果敢に珠江デルタに向かい、それぞれ半年ほどもホテル住まいを続け、台湾企業の蘇州への誘致にかかっていた。2000年頃、私たちはそうした動きを把握することもできなかった。蘇州の台湾IT関連産業は自然発生的に生じたものではなく、地元の果敢な取組みによるものである。中国における都市間、地域間競争はすさまじい。それらの競争が進出企業への多方面にわたるサービスの向上につながり、進出台湾企業から高い評価を得るものになっている。5)
日本企業の場合、人件費高謄等で苦しいために「平行移動」的に中国に進出しているケースが少なくない。これに対して台湾企業の場合は、明らかに「大陸にビジネス・チャンスがある」から進出している。日本の企業では、進出後数年を経過しても事業規模が数倍になっているケースはほとんどない。他方、台湾企業の場合は、3〜5年で10倍以上の事業規模になっていることも珍しくない。
以上のように、大蘇州圏の台湾IT関連産業の一大集積、地元政府の果敢な取組み、そして、台湾の進出企業の積極的な展開は、私たちを大いに興奮させるものであった。しかも、そのテンポは速く、事態は刻々と進化している。日本から東アジアの各地の地域産業を焦点にしてきた私たちにとっても、特にこの大蘇州圏の台湾IT関連産業の動きは実に興味深く、また取扱いの難しいものでもあった。
2 長江デルタにおける台湾IT産業の重層的展開
現在の長江デルタを彩る台湾IT産業の象徴は、ノートパソコン、携帯電話、そして半導体の3つであろう。それ以外のデスクトップ・パソコンやプリンター、スキャナーといった周辺装置から、マウス、キーボード、ケーブルなどのサプライ品に関しては、現在のところ、その最大の集積は南の珠江デルタにある。台湾IT産業の大陸進出は、1990年前後から始まるが、90年代後半の時期までは、圧倒的に珠江デルタの深 〜東莞〜広州に集中していた。深 の鴻海精密工業(Hon Hai)、環隆電気(USI)、東莞の光寶科技(Lite-On)、台達電子(Delta Electronics)、技嘉科技(Giga Byte)、広州の大衆電脳(First International Computer)、順徳の神達電脳(MiTAC)などの有力企業が知られるであろう。
この点で長江デルタの場合は、ノートパソコン関連が先行し、その後、液晶、半導体関連が続いていく。それは、2001年11月の台湾当局によるノートパソコンと液晶、半導体の大陸進出の一部解禁を契機とする。台湾のノートパソコンや半導体メーカーは2002年頃から一気に長江デルタに進出していった。ただし、半導体に関しては上海浦東から松江のあたりに、そして、ノートパソコン関連は大蘇州圏の昆山、蘇州高新区、蘇州工業園区、呉江を中心としていることも興味深い。
組立産業であるノートパソコンの場合には、アセンブラーを頂点として、電源、スイッチ、ディスプレー、コネクター、筐体、ケーブル、半導体、コンデンサー、抵抗器、プリント基盤などの多様な部品の組合せであり、さらに、金型、プレス、プラスチック成型、ダイキャスト(鋳造)、鈑金、メッキ、塗装等の多様な加工機能が集合されている。これらの多くは中堅・中小企業によって支えられている。現代の産業集積と企業間ネットワークを見ていく場合、ノートパソコンは最も興味深いものの1つであろう。このような加工技術の集積と内面の高度化が、いずれ半導体や液晶用の金型、製造装置等を支えるものにもなっていくことは間違いない。
長江デルタヘの台湾IT産業の進出を議論していく場合、当然、ノートパソコンと半導体の両者を取り上げていくべきであろうが、本稿では大蘇州圏に短期間に大集積を形成した高度組立産業であるノートパソコンに関連する集積にほぼ限定していく。半導体関連については、徹底調査はやや時期尚早と見ており、次の機会に取り扱いたいと考えている。
●台湾のアセンブラーの蘇州への集結
現在、世界のパソコンの流れは、次第にノート型が主流になりつつある。さらに、台湾企業が得意とするOEM(Original Equipment Manufacturing)/ODM(Original Design Manufacturing)、さらに、EMS(Electronics Manufacturing Service)のスタイルが完成度を高めており、世界のノートパソコン、携帯電話生産の大半は大陸に展開する台湾企業が担うものになってきた。
現状、世界のノートパソコンのブランドメーカーのなかで、自社内でアセンブルしている企業は少ない。著名なメーカーで自社生産にこだわっているのは、日本の富士通(島根)、東芝(杭州)、韓国のサムスンなどにすぎない。デル、ヒューレット・パッカード(以下、HP)、IBM、コンパック、アップル、ソニー、NEC、日立製作所などは、生産の大半を台湾企業に依存している。パソコンは厳しい販売価格低下に見舞われており、ついにIBMでさえも、2004年12月にはパソコン部門を中国ローカルの聯想(Lenovo)への売却を表明している。そして、この聯想も現状ではかなりの部分を台湾企業に生産委託しているのである。
そして、この台湾の有力アセンブラーとしては、広達電脳(Quanta Computer)、仁寶電脳(Compal Electronics)、緯創資通(Wistron)、華碩電脳(Asustek Computer)、英業達(Inventec)、華宇電脳、明基電通(BenQ)、光寶科技、大同(Tatung)、大衆電脳、大霸電子(D&B)、神達電脳などが知られる。これらのアセンブラーは、かなりの開発力を備えており、従来のOEMに加え、ODMにも従事している。
なお、大蘇州圏には、ノートパソコンの主要なアセンブラーの大半が立地している。昆山には仁寳、神達、緯創、倫飛電脳(Twinhead International)、鴻海、また、蘇州には明基、華碩、大衆、そして、呉江には華宇、大同が集結している。さらに、近隣の上海には、最大手の広達をはじめ、英業達、大霸が立地している。大手アセンブラーで長江デルタに姿が見えないのは、光寶、環隆ぐらいであろう。そして、これらアセンブラーが頂点に立ち、この2〜3年の間に見事なピラミッド構造を形成してきたのであった。
●ノートパソコン生産の3層構造
蘇州のノートパソコン関連企業集積を追跡していくと、大きく3層の構造が形成されていることを痛感させられる。第1層がノートパソコン、携帯電話等のアセンブラーであり、大蘇州圏から上海といったゾーンにおよそ10社ほどの台湾企業が立地している。これらは、それぞれ従業員が数千人から1万人前後の規模であり、苛烈な競争を演じながらも、いずれも拡大基調にある。
これらのアセンブラーは、ブランドメーカーからのOEM/ODM要求に幅広く応え、長期的に取引している場合もあるが、いずれの企業も特定ブランドメーカーの系列下にあるとは考えていない。どのブランドメーカーとも付き合う構えを見せるというきわめてオープンな取引関係を形成している。リスク分散が強く意識されている。この点は、ブランドメーカー側も同様であり、一方では長期安定的な関係を形成しながらも、必要に応じて、どのアセンブラーとも付き合うことを基本としている。代わりはいくらでもいるということなのであろう。
第2層は、電源、スイッチ、ディスプレー、コネクター、筐体、ケーブル等の機構部品の専門メーカーであり、アセンブラーに対しての第1次サプライヤーというべきであろう。規模的には、従業員数千人から1万人前後である。各部門ともに複数の台湾企業が進出しており、苛烈な競争を演じている。このような第2層を構成する蘇州立地の台湾企業はおよそ100社前後ではないかと思う。電源装置の台達、コネクターの鴻海、コンデンサーの国巨(Yageo)、ディスプレーの中華映管、ケーブルの今皓電子(Ji-Haw Electronics)、筐体の可成科技(Catcher)などが典型的な企業である。
また、これら第2層に位置づけられる専門メーカーは世界的な企業でもあり、やはり特定ユーザーに限定されることなく、蘇州のノートパソコンのアセンブラーたちに幅広く供給するのに加え、輸出の比重もかなり大きい。当面の最大市場を長江デルタと見定め、生産拠点を置いている。また、鴻海や台達の場合は、珠江デルタからの2次展開であり、ほぼ同規模の生産工場を珠江デルタと長江デルタの両方に置き、大陸の二大拠点としている。なお、最大手の鴻海は深 と蘇州(現地法人名は、富士康:Fox Conn)にそれぞれ従業員数6万人規模の工場を展開しているのである。
そして、これらの下に第3層を構成する台湾中堅・中小企業が集結している。金型、プレス、プラスチック成型、製缶、鈑金、ダイキャスト、メッキ、熱処理、塗装、鋼材切断といった機械金属工業の基盤的技術部門に加え、電子部品の組立て、捲線、彫刻、ラベル印刷に至るまでの多様な加工機能が集結している。また、これらの台湾中小企業の多くは、大半が90年代の前半から中盤にかけて珠江デルタに進出しており、2次展開として2002年頃に長江デルタに向かってきた。そして、台湾工場は縮小され、本社、営業部門のみになっている場合も少なくない。
このような経緯から、長江デルタの工場は珠江デルタに比べて5年から7年ほどの遅れがある。そのため、この長江デルタの第3層の企業の多くは規模的には珠江デルタの工場の数分の1といったところだが、いずれも珠江デルタでの経験もあることから習熟は早く、急速な拡大傾向を見せている。数年のうちに珠江デルタの工場を追い越す勢いである。なお、この第3層を構成する中堅・中小企業の場合も、先の第1次サプライヤーと同様に特定ユーザーに固定されることを必ずしも望んでいない。一方では長期安定的な取引関係を求めながらも、他方で幅広いユーザーとの間にオープンな取引関係を形成し、フレキシブルに対応することを目指している点も興味深い。6)
3 アセンブラーと第1次のサプライヤー
このように第1層と第2層、そして第2層と第3層のいずれにおいても、台湾企業同士の競争は熾烈なものであり、やや遅れ気味の日本企業、さらに躍進著しい中国ローカル企業も交えた興味深い競争の構図が形成されつつあるといってよい。
ここではまず、蘇州の台湾IT産業のリーダー的な位置にあるアセンブラーと第1次の部品サプライヤーのケースから見ていく。これらは、いずれも急拡大を示し、蘇州工場は従業員数千人から数万人の規模となっているのである。
(1)巨大な生産力を形成(華宇電脳[Arima Computer])
呉江経済開発区に巨大な敷地面積を抱えて立地する華宇電脳は、もともと大陸進出を禁止されていたノートパソコン専業だったことから、これまで大陸生産の経験がなく、進出解禁前の2000年9月に呉江に初めての現地法人(独資)を設立している。
華宇の創立は1989年。ノートパソコンの組立てから出発、その後、サーバー、IA(Internet Apply)へと進み、現在では光学電子、ワイヤレス通信の領域にまで踏み込んでいる。台湾メーカーとしては、ノートパソコンの生産量が第6位、また、携帯電話は明基に続いて第2位である。現在の資本金は約6億ドル、売上高が約30億ドル、世界の従業員数は約1万2000人。創業以来の約15年で、3000億円企業になった。すでに台湾には量産工場はない。設計センターは、台湾、英国、スイス、ロシア、米国、横浜、南京、呉江に設置されており、日本では横浜のほかに、米沢にNEC対応の修理センターがある。
華宇は自社ブランドを持たず、すべてODMかOEMで対応している。当面の主力ユーザーはソニー、NEC、ノキア、HPである。ライバルとして気になるのは、ノートパソコンの広達、仁寳、英業達、大衆、そして、携帯電話は明基、大霸である。ただし、台湾の大手メーカーはいずれも携帯電話に参入しており、ライバルはさらに増えている。当面のユーザーは固定しているとは考えておらず、取引が多方面にわたる可能性を強く意識していた。
●165ヘクタールの工場敷地
台湾ではごく最近までノートパソコンの大陸進出が制限されていた。だが、世界的な価格競争のなかで台湾メーカーが生き残っていくためには、大陸進出は不可避なものとなっていく。同時に大陸は従来の「生産拠点」としてだけでなく、「巨大な市場」を予感させるものとなり、中国沿海の真ん中に位置する長江デルタが注目されていく。こうした事情から、2001年11月の大陸進出解禁を前にして、水面下でノートパソコン・メーカーによる長江デルタ進出の模索が積み重ねられていた。
上海から蘇州の一帯を調査した華宇は、地価が安く、政府の優遇に優れる呉江を選択し、2001年から本格生産に入っている。2004年1月現在での従業員数は約7000人、生産能力は月産でノートパソコン54万5000万台、携帯電話100万台、サーバー43万5000台、ピックアップヘッド50万個、バッテリーパック55万台という壮大な規模である。なお、華宇の敷地は、実際には165ヘクタールであった。現状、まだ1期工事が終わった段階にすぎず、完成時には鴻海並みの従業員数6万人が計画されていた。
ノートパソコンや携帯電話のアセンブラーである華宇の場合、当然のこととして大量の協力工場が必要となる。この点、長江デルタの場合は、この数年で台湾の部品メーカー、加工業者が大量に進出しており、台湾時代に付き合いのあった企業が数百の単位で周辺に集積している。現状では、主力のノートパソコンに関して見ると、現地調達率はすでに78%に達している。ほとんどは長江デルタの範囲内で調達可能である。
台湾のノートパソコンのアセンブラーに関しては、OEM、ODMと力をつけ、携帯電話等の完成品にも展開し、さらに部品部門にも向かうという、この華宇のような流れと、部品から出発してマザーボード、ベアボーン、さらにパソコンの組立てにまで向かう鴻海のようなケース、あるいは、ノートパソコン専業で行く緯創のような流れなど、いくつかの方向がある。そして、これらが入り交じり、長江デルタの地でIT産業をめぐる巨大な産業集積が形成され、多様なネットワークを編成しながら、また次のステージに向かっているのである。
(2)マグネシウム合金のケースを供給(可成科技[Catcher])
パソコンの主力がデスクトップからノート型に移りつつあり、軽量化と電磁波シールドが大きな課題になってきた。その焦点の1つである筐体に関しては、マグネシウム合金の採用が進められている。軽量化と電磁波シールドに最適との評価である。この事業は、マグネシウム合金の熔解、金型、ダイキャスト、穴あけ、ネジ切り、仕上げなどの加工を基本とする。機械金属工業の基幹的な技術分野が集合されていく。
可成科技の創業は1985年、HDD向けアルミ・ダイキャスト工場として設立された。86年頃からマグネシウム合金が注目され始め、95年からはノートパソコン用筐体への採用を宏碁と共同で研究開始し、96年にはノートパソコン用の工場も立ち上げている。これは世界的に見てもかなり早い。このような取組みから、ノートパソコン用マグネシウム合金の筐体に関しては、この可成は、ライバル企業であり上海に進出している台湾の華孚科技(Waffer)とあわせて世界の80%のシェアを握っている。
この技術をベースに、可成はノートパソコン、携帯電話、PDA、デジタルカメラ、LCDプロジェクターの筐体、シャーシなどの領域に踏み込んでいる。可成の布陣は、台湾の台南工場(従業員数1200人)、フィリピン工場(同2100人)、そして、2001年4月に設立された蘇州工場(同3700人)の3工場体制となる。なお、蘇州工場は2004年中に倍近い7000人規模になることが想定されていた。振り返るまでもなく、小型のノートパソコンとはいえ、筐体は「空気を運ぶ」といわれ、ユーザーに近接して立地することが不可欠である。世界のノートパソコンの生産が蘇州に集結している現在、筐体メーカーとしては、その近くに立地せざるをえない。
●壮大な機枝設備の展開
蘇州工場の登録資本は3334万ドル、総投資額は1億ドルであった。2003年1月から本格稼働している。現在、すでに拡張計画が進んでおり、2004年中にはさらに2工場が増設される予定であった。マグネシウム合金によるノートパソコンの筐体の生産となると、多くの工程が必要になる。金属の熔解から始まり、金型が必要になる。主工程はダイキャストの部分であり、次に、穴あけ、ネジ切り等の切削加工がある。その後は仕上げ工程として、バリ取り、研磨、表面処理、印刷、さらにサブ・アセンブリーを求められることもある。蘇州工場はこのすべての工程に対応している。
2004年1月現在、マグネシウム合金用のダイキャスト・マシンは125トンから200トンまでの31台、そのほかにアルミ・ダイキャスト用、亜鉛ダイキャスト用のマシンが6台用意されていた。これもなかなかの規模であるが、最も興味深かったのは、日本のブラザー製のNCタッピング・マシンが331台も導入されていることであった。
この機械はいわゆるマシニングセンター(MC)を小型化したものであり、小物の切削加工に絶大な威力を発揮するものとして、世界的な人気機種である。2004年秋には450台に増やすとされていた。私自身、日本国内でこの機械を100台ほど導入しているケースを見たことがあるが、それは壮観なものであった。それが300〜450台という姿は想像を絶する。これだけの仕事量が舞い込んでくる、それが現在の蘇州なのである。木蘇州圏には興味深い工場は少なくないが、先に見た呉江の華宇の敷地の壮大さと、この可成の設備展開が最も衝撃的なものと思う。
ユーザーとの関係は、HP、デルなどのブランドメーカーから指名を受け、実際にはアセンブラーの広達、明基などとやり取りしていく。ブランドメーカー側はリスク分散を強く意識しており、複数のアセンブラー、部品サプライヤーを指名してくる。特定のアセンブラー、サプライヤーに依存することはしない。この点は、アセンブラーとサプライヤーの関係でも同様である。このあたりが蘇州における台湾IT関連産業集積の基本的なあり方のようである。なお、現在の可成の主要な最終ユーザーはデルとHPであり、この両者で80〜90%の比重を占めている。
2003年1月に蘇州工場が本格稼働してほぼ1年、すでに台湾工場よりも生産力は大きくなった。2003年3月の段階で累損も解消するという予想外のスタートであった。2004年秋までには当初の規模の倍近くになる。蘇州のノートパソコンをめぐる状況はこれほどのものなのである。
4 大陸進出後に飛躍的な発展を実現した中小企業
台湾のIT関連産業は、このlO年でほぼ完全に大陸依存の形になってきた。大手のアセンブラー、電子部品メーカーの主力工場は、珠江デルタと長江デルタに林立している。そのため、関連の中小部品メーカーも追随していかざるをえない。座して台湾に残ろうとするならば、存立基盤を確保することさえ難しい。9O年代中頃には深 、東莞といった珠江デルタ、2002年頃からは蘇州を中心とする長江デルタに一斉に向かった。
ここでは、台湾企業の1つの特質である「家族経営」のスタイルと、もう1つ「ビジネス・チャンス」を求めて多様な人々が出資して進出したケースを見ていくことにする。
(1)家族あげての大陸進出
(全用電子[Genenic])
全用電子の創業は1962年。1922年生まれの創業者は現在でも現役の社長として君臨している。当初からアルミ電解コンデンサーの足(線)を専業にしてきた。90年に入ってから台湾の人件費が上がり、当時、10分の1の人件費とされた大陸に関心を抱き、ローカル・ユーザーの多い南通に着目、92年には独資で南通工場を立ち上げた。
その後、96年には広東省惠州市の惠東に進出している。主力ユーザーの立隆電子工業(Lelon Electronics)との同伴進出であった。そして、2002年には蘇州市呉中区に進出を決定、2004年2月から量産開始している。蘇州工場は南通工場からの再投資となった。蘇州進出のきっかけは、有力受注先の智宝電子(Teapo)が、2002年に蘇州市南部に進出したことにある。
以上の結果、全用グループは、台湾本社、香港貿易拠点、そして、生産工場は南通、惠東、蘇州の3カ所となった。そして、このlO年を経過して、92年頃には従業員60人、機械設備90台を数えていた台湾本社は現在では、完全に生産を停止し、従業員はわずか5人、財務部門、倉庫部門を残すのみになった。
反面、南通工場は従業員約400人、機械378台、惠東工場は従業員約250人、機械283台、そして、蘇州工場は従業員約110人、機械約120台となり、大陸全体では従業員約750人、機械約800台と、大陸進出以前のほぼ10倍の規模に成長している。
全世界のアルミ電解コンデンサーの生産量は、月産で約70億個。1つのコンデンサーに2本の足が使われることから、足の本数は月約140億本となる。これに対し、現在の全用グループの生産量は約45億本、シェアで約32%となる。最大のライバルは蘇州新区に進出している日本の湖北グループであり、月産60億本である。これに対し、全用グループは80億本を目標にしており、蘇州工場も2004年末には機械台数を倍の240台に増やす計画になっていた。このような大陸3工場展開に対し、台湾人の駐在員は全部で6人にすぎない。惠東には創業者自らと、その長女と長男の計3人が駐在している。南通には創業者の次女が駐在、そして、蘇州には創業者の甥ともう1人(他人)が駐在していた。
●台湾中小企業の競争力
営業活動は、3工場がそれぞれの地域を対象に独自に行っている。全体的にはユーザーは台湾系企業であり、長い付き合いがあることから、特に営業スタッフを置いていない。だが、今後、シェアを拡大していくためには、ライバルの湖北グループと戦いながら、日本企業を攻めていかなくてはならない。アルミ電解コンデンサーの市場では、ニチコン、日本ケミコン、ルビコンの日系3社がシェア世界一を争っている。ここに食い込んでシェアを伸ばさなければ、世界一にはなれない。日本企業は品質の基準がまことに厳しい。
この点では、日本のメーカーにしてもコスト競争は厳しく、台湾企業にも関心を寄せている。2004年5月には、無錫に進出しているニチコンからテスト注文が入り、夏前に正式受注がスタートした。当面、月産12億本の計画である。この受注は全用にとっては画期的なことであった。ここで勢いをつけて、一気に日本企業への参入を強く意識していた。
ライバルの湖北グループとのコスト競争については、日本人の駐在員が多すぎると蘇州工場の責任者が指摘していた。家族経営で少人数の台湾人で経営している全用と、多くの社員が駐在している日本企業とではコスト的な差はいかんともしがたい。人数だけでなく、宿泊施設なども日系と台湾系ではかなり事情が異なる。一般的な傾向だが、日本人はホテルか高級マンションでないと生活したがらない。それに対し、台湾人は工場敷地内に居住したり、農家に下宿することも厭わない。こうしたことも日台の競争力格差の背景になっているのである。
(2)友人から資金を集めて大陸に進出(群達模具科技[GR])
台湾中小企業の大陸進出には、親族や友人たちが出資しあい、ビジネス・チャンスを求めた「投資」という色合いの濃い場合が少なくない。関係者の間では「友人キャピタル」「親戚キャピタル」などといわれている。台湾のなかか、あるいはタックスヘイブンの島などに投資会社を設立し、そこに資金を集め、大陸に投資していく。
ここで検討する群達模具科技(蘇州)(GR)のケースは、その1つの典型であろう。この群達模具の母体は、台湾本社の享達模具である。数十年の歴史はあるが、従業員は約40人にすぎない。家庭用品の金型、プラスチック成型に従事してきた。
90年代に入ってから、台湾では中国進出ブームとなり、特に、華南の深 、東莞、広州あたりが注目された。92年には享達のオーナーが中心になり、モーリシャスに投資会社を設立、友人たちから資金を集め、深 に進出している。当初は部品を台湾から投入し、家庭用扇風機を組み立てて輸出していた。
現在の深 工場は成型機約150台を軸に、扇風機、ヒーター、換気扇などの領域のOEM企業として、主として日本メーカーに納入している。主たる納入先はユアサ、オーム、アサヒなどである。納入台数は年間120万〜150万台にのぼる。この間、深 工場は大きく拡大し、金型関係約220人、成型〜組立関係6000人規模の工場となった。
このような実績を踏まえ、2002年8月には蘇州に新たな現地法人を設立していく。これも友人たちにモーリシャスの投資会社に出資させ、投資したものである。株主は十数人から構成されている。蘇州進出の表向きの理由は、深 の主力ユーザーの1社である台達に追随したというものである。
●台湾企業の強さの実態
蘇州工場の量産の開始は2003年9月。2004年8月の従業員数は、金型部門170人、成型〜加工(印刷、塗装)部門が220人であり、成型機は24台である。金型関係のユーザーの最大手は蘇州新区に立地する中国ローカル企業の金莱克である。この金莱克は掃除機メーカーとしては世界第3位に位置し、世界へのOEM供給に従事している。その他のユーザーはlO社程度。台湾系6〜7社、日系は扇風機部品の三洋電機など2社である。この金型関係のユーザーは蘇州に進出してから獲得した場合が多い。
プラスチック成型品のユーザーは、近くの呉江の台達のシェアが圧倒的であり、アダプター部品を軸に受注の90%以上を占めている。現状、成型機が少ないとの認識であり、早急に隣地に工場棟を2棟増設し、成型機を120台のレベルまで増設する計画である。その頃には従業員数千人の規模に膨れ上がることが予想される。
現状、蘇州の群達には台湾人4人が駐在している。うち2人は深 での経験が長い。12年間、中国にいる営業・技術スタッフ1人と、8年の経験を重ねる生産管理・設計開発スタッフ1人である。長く金型やプラスチック成型部門の生産管理等に就いてきた彼らによると、当面、「経験の深い年配の日本技術者が欲しい」とのことであった。細かい技術的なことではなく、「仕事のやり方」「考え方」を伝授してほしいというのである。私はそうした日本人技術者を、株の譲渡か出資者の形で迎えられないかという相談を受けた。それは、深 、蘇州と経験を重ね、企業規模も飛躍的に大きくなり、次のステージを目指そうとする意欲的な台湾企業の本音というべきかもしれない。
この群達のケースから注目すべきは、台湾人は「投資」という考え方でビジネス・チャンスを捉え、果敢に大陸に乗り込んでいる点であろう。さらに、大陸に駐在している主力メンバーは株主でもあり、事業機会にきわめて敏感であることも注目される。大陸の前線に立ち、自らの事業として取り組んでいるところに、台湾企業の強さを見る思いがした。
5 台湾企業が見ているもの
2003年11月末に訪れた広州の台湾系靴メーカーの若き経営者の「われわれ台湾企業の大陸事業は、もう終わりだ」という言葉に触発されてスタートした大陸における台湾企業調査も、ほぼ最終局面を迎えた。この1年ほどの間、南の珠江デルタに3回、本命の長江デルタに4回の現地調査を重ねた。訪問した企業も50を超えた。台湾企業に対して、「ビジネス以外の接触」は非常に難しいことを痛感させられた。それでも、各地で優れた協力者を得られ、ここまで現場を積み重ねることができた。
長江デルタでも、珠江デルタでも、台湾企業が圧倒的な集積を見せ、しかも、いずれも依然として拡大基調にあることが印象的であった。珠江デルタと長江デルタの台湾IT産業の集積には、ほぼ5年から7年ほどのタイムラグがある。珠江デルタは1993年前後から、そして、長江デルタは2002年頃から本格スタートをしている。いずれにおいても、驚異的なスピードで集積が形成されてきたことに驚愕するばかりであった。
●台湾IT産業の大陸進出の第1期
IT産業に限らず、台湾企業は大陸に「ビジネス・チャンス」を見出し、果敢に「投資」していることを痛感させられた。日本企業の多くは、日本の賃金が上がり、あるいは単純労働力不足といった問題に直面し、国内の大都市圏から地方圏に展開し、そして、国内が難しくなり、アジア、中国に向かっていった。あくまでも国内の地方圏の延長線上にアジア、中国を見ていたにすぎない。7) 日本企業の多くは「投資」というよりも、現状の「平行移動」ということになろう。このことを、まず痛感させられた。
台湾IT産業の第1期というべき珠江デルタヘの進出は、93年前後から本格的にスタートした。2000年頃に世間的には「世界の工場/中国華南」が注目され始めたものの、95〜96年頃には、デスクトップ・パソコンおよび周辺装置、電子部品の領域ですでに大集積を形成していた。これらの多くはあくまでも「輪出拠点形成」であり、広東省に特徴的に発達した広東型委託加工(来料加工)により、巨大な生産力を形成していた。8)
この広東省といえば、中国改革・開放のショーウィンドーといわれる「深珊経済特区」があるが、台湾企業の大半は地価や人件費の高い特区を避け、深 郊外から東莞、広州方面に展開していった。また、台湾の最有力企業である鴻海、光寶、台達などは、それぞれ数十の協力企業を引率し、珠江デルタの各地に企業城下町を形成していった。さらに、有力企業の珠江デルタヘの進出に刺激された台湾の中堅・中小企業の多くも、独自的に大陸進出を模索し、95〜96年頃は、珠江デルタを焦点に「大陸進出ブーム」が巻き起こった。2000年頃には、この焦点とされた東莞では、台湾企業はIT関連を中心に約4000社の集積といわれたものであった。
その後、珠江デルタで経験を重ねた台湾企業は、ノートパソコン、液晶、半導体でも大陸進出の機会をうかがっていた。また、その当時から大陸は「世界の工場」であると同時に「世界の市場」になりつつあることが強く実感されていく。そうした圧力に加え、99年夏には台湾で大地震が発生、リスクヘッジの必要性も生じてくる。2001年11月、台湾当局はノートパソコン、液晶、半導体の領域で部分的な大陸進出の解禁に踏み込んでいく。ここから、台湾IT産業の大陸進出の第2期が始まる。
●珠江デルタと長江デルタの二眼レフ構造の形成
第2期の焦点は明らかに長江デルタであり、そのなかでも蘇州が注目されていく。中国沿海の中心である上海の後背地であり、地価も相対的に安い蘇州には、90年前後から台湾の日用消費財系の企業が米国経由などで進出を開始していた。特に、上海に隣接する昆山には自転車などの部門の企業が集積を始めていた。さらに、台湾の代表的企業である宏碁が協力工場を引率して93年に蘇州に進出していた。蘇州の地の利が台湾でも広く紹介され、輸出に加え中国国内市場を注目するノートパソコン・メーカーが、2002年頃から一気に進出していったのである。
このような台湾側の意向に加え、地元の対応も見事なものであった。2000年頃には、蘇州の各開発区、各鎮の企業誘致担当が、大挙、珠江デルタに長期滞在し、台湾企業の蘇州への2次展開を促していく。私たちが今回訪問した長江デルタの台湾系中堅・中小企業の大半は、明らかに珠江デルタからの2次展開であった。時代の方向は、IT産業の「輸出生産拠点」の珠江デルタに加え、「国内市場」をも視野に入れる長江デルタの集積という二眼レフ構造になってきたことを示すであろう。
世間の一般的議論では「珠江デルタから長江デルタヘの移動」とされるが、この2つの地域にはやはり5年から7年程度の差があり、「輸出拠点」としてさらに拡大する珠江デルタ、そして「輸出+国内市場への期待」で急拡大する長江デルタという流れのなかにある。だが、数年で長江デルタの集積が珠江デルタに追いつくものと考えられる。その先については、お互いの棲み分けが進むものの、やや長江デルタが優位の形になっていくのではないかと思う。この2つが健全な棲み分けと刺激的な競争関係になっていくことを願う。
●「中国企業になる」と語る台湾企業
この1年ほど、私の脳裏を離れなかったのは、先に紹介した広州の台湾系靴メーカーの「われわれ台湾企業の大陸事業は、もう終わりだ」という言葉であった。この点、大集積を重ねている長江デルタの台湾IT産業は、どう見ているのか。このテーマに適切に答えられる人物として、蘇州台商協会幹部の曽寳雄に注目した。広州の靴メーカーの経営者の言葉を伝え、「蘇州ではどうなのか」と尋ねると、曽は「構図は珠江デルタと同じだ。われわれはあと2年だと思っている。ローカル企業の躍進が著しい」と答えてきた。
また、「広州の靴メーカーの経営者は、ベトナムかインドネシアの奥にでも行くしかないと語っていたが、蘇州のIT関係は、これだけの大投資をしていて、どうするつもりなのか」と尋ねると、曽は「われわれ自身が、大陸企業になるしかない」と答えたのであった。
近年、日本の対中進出に関連する議論の1つの焦点は、日本企業の「現地化」とされている。9) 地元の人材にいかに技術移転を行い、さらに経営を任せるか、という議論のようである。だが、台湾企業の対中認識は、はるか彼方にある。外資企業のなかでもとりわけ優遇が大きいとされる台湾企業も、ローカル企業ほどには優遇されない。ローカル企業と基礎的条件を同様にしていかない限り、大陸では競争できそうもないとの認識であろう。
振り返るまでもなく、この十数年の間に、テレビ、冷蔵庫、洗濯機、エアコンなどの家電製品、バイクなどは、いずれもいつの間にかローカル企業が中国の市場を握っていった。最近では、携帯電話、パソコンもそうした流れのなかにある。当面は、家電、バイクの国内市場はローカル企業優位になってはいるが、今後は、輸出市場においてもその可能性がないわけではない。まことに、中国は難しい。10)
「どのようにして、大陸企業になるのか」という私の問いに、曽は「1つだけわかっている。大陸で上場し、大陸の資本を入れることだ」「まだ、ほかにもやり方があると思う。それは、これから2年をかけて研究していく」と答えたのであった。
寡聞にして、進出日本企業でこのような認識を抱いている経営者にお目にかかったことがない。蘇州の地で、巨大化する台湾IT産業を目の当たりにして、「台湾企業は、どうしてこんなに急速に発展できるのか」と首を傾げているばかりであろう。さらに、急速に追い上げてきている中国ローカル企業や若き経営者については、ほとんど話題になることもない。日本の本社に視線を向けるばかりで、地元の動きへの認識はきわめて乏しい。
6 日本企業への示唆
これまでの日本企業の中国進出に関しては、1つに安くて豊富な労働力に注目する「輸出生産拠点」の形成、2つに中国を「市場」と見立てたものがある。また、食品産業などのように原材料に注目する進出もあれば、ソフト開発部門のように、知的労働を求めての場合もある。それらのなかで圧倒的大多数は安くて豊富な労働力を求める持ち帰り型の「輸出生産拠点」の形成であった。それは、現状の「平行移動」にすぎなかった。
持ち帰り型の「輸出生産拠点」を形成した進出企業の場合、大陸の地で隣にいる台湾企業、中国ローカル企業の動向に関心を抱く必要はない。視線を常に日本の本社に向けていればよいであろう。コストは当然日本に比べて安いのであり、意思決定力を持たないサラリーマン工場長の関心は、いかに日本並みの品質にするかだけに向くことになる。
だが、日本への持ち帰り型の「輸出生産拠点」であった大陸は、いつの間にか「世界の市場」「世界への輸出拠点」になっていた。ここで初めて、周囲との競争が意識される。そして、日本企業のコストは、ローカル企業よりは高いとは思っていたが、台湾企業、韓国企業よりも相当に高いことに驚愕する。さらに、周囲を観察して、台湾企業、ローカル企業の発展ぶりに目をみはることになろう。特に、台湾では従業員数十人の無名の中小企業であったはずの企業が、進出数年後には数千人の規模になっている姿に呆然とするであろう。
●経営者が若返り、自ら現地駐在するようでないと、将来はない
台湾企業のダイナミックな展開はどういうことなのであろうか。それは、日本企業の進出が腰の引けた「平行移動」であるのに対し、台湾企業は明らかに「ビジネス・チャンス」を見据えた「投資」であることによる。台湾企業の場合は、大陸の可能性を緻密に分析し、目標を高く掲げ、果敢に行動している。これまでの実績で明らかなように、現在の大陸には巨大な「ビジネス・チャンス」が横たわっているのである。
この点に関連して基本的に重要なことは、特に台湾の中堅・中小企業においては、意思決定能力のある経営者自らが現地に駐在し、陣頭指揮をとっているということであろう。明らかに現在の大陸の状況は刻々と変わっていく。現場に意思決定能力のある人が駐在しているのかどうか、この点が、現在の日本企業の大陸への進出をめぐる最大のテーマであるように思う。こうしたことに気がつき、経営者自らが駐在する日本の中堅・中小企業がようやく出始めている。ただし、それは今のところレアケースにすぎない。日本の中堅・中小企業の中国進出の最大の課題は、この点に尽きる。
また、最近の大陸の民営中小のローカル企業と付き合い始めると、大半の経営者が30歳代の前半から半ばであることに驚かされる。先の台湾の靴メーカーの経営者が指摘するように、彼らは「学歴が高く、頭が良く、エネルギーがあり、技術もあり、資金もある」のである。これから私たちはこの人たちと渡り合っていかなくてはならない。過去の成功体験を引きずっている年配者では、新しい時代を切り開くことはできない。時代の大きな変革の時期には、新たな世代の登場が不可欠になる。この点、東アジアのなかで、日本が最も世代交代が遅れている。
なお、成熟感と世代交代の遅れが引きずる影は、日本ばかりでなく、実は、台湾企業にも忍び寄っている。台湾も豊かになり、ハングリー精神に満ちた若者が少なくなっているのである。先の台湾系靴メーカーの経営者の「われわれ台湾企業の大陸事業は、もう終わりだ」という言葉の裏には、実はそうした事情が深く横たわっているのである。
●残された課題
中国の存在感が日増しに大きくなる現在、私たちが直面する課題は山のように大きい。中国の「現場」をさまよい歩いている身からすれば、「上海から蘇州、無錫、さらに杭州、寧波と続く長江デルタは、これからどのような方向に向かうのか」「深 から東莞、広州、中山と続く珠江デルタの将来はどうなるのか」、また、「日本とかかわりの深い中国東北はどうなるのか」、そして、「日本企業はどこに向かうのか」といったことが常に脳裏を駆けめぐることになる。
中国の「現場」を歩き始めて、そろそろ20年、地域を丸ごと捉えて、産業、企業の全体の構造を見るという私のやり方は、次第に難しいものになってきた。中国がそれだけ大きく、深くなってきたのであろう。今後はテーマをやや小さくとり、一点突破型の「現場」調査を積み重ねながら、全体を見ていくというやり方をとらざるをえない。今回は、地域の産業、企業の全体を見るのではなく、長江デルタと台湾IT関連産業というところに焦点を定め、中国と日本企業の行く末を占ってみた。私たちの意図が伝わったかどうか。それは読者諸賢のご判断に委ねるしかない。
そして、2003年秋からほぼ1年、このテーマを必死に追いながら、次の課題は台湾企業も一目置く中国の「民営の中小企業」にあることを痛感し続けている。中国の2000年代は「民営中小企業」の時代になることは間違いない。1980年代の「郷鎮企業の時代」、90年代の「外資企業の時代」をくぐり抜け、中国は新しい枠組みを作りつつある。大陸においては、台湾企業の先には新たなタイプの「中国民営中小企業」が、虎視眈々と次の時代の担い手として力を蓄えつつある。わが日本の企業が、そうしたことに関心を抱き、歩踏み込めるかどうか、それが日本の将来を決することになりそうである。
参考文献
川上桃子
1998.「企業間分業と企業成長・産業発展」『アジア経済』39(12).
日本貿易振興会
2003.『2002年中国大陸地域の投資環境およびリスク調査』.
関満博
1995.『中国長江下流域の発展戦略』新評論.
1996.『中国市場経済化と地域産業』新評論.
1997.『上海の産業発展と日本企業』新評論.
2002.『世界の工場/中国華南と日本企業』新評論.
2003a.『現場発 ニッポン空洞化を超えて』日経ビジネス人文庫.
2003b.『「現場学者」中国を行く』日本経済新聞社.
−.範建亭編
2003.『現地化する中国進出日本企業』新評論.
揚英賢
2003.「『クラスターネットワーク』と敏速な部品調達」『一橋ビジネスレビュー』51(2).
関満博(せき みつひろ)
1948年生まれ。
成城大学大学院修了。
専修大学助教授を経て現在、一橋大学大学院商学研究科教授。
注
台湾IT関連産業の長江デルタへの進出の全体像に関しては、近々、関満博編『台湾IT関連産業の中国長江デルタ集積』(新評論)として公刊の予定である。
1 この間の昆山の事情は、関(1995)を参照されたい。
2 私の1990年代の長江デルタの産業調査は、江蘇省を扱った関(1995)、浙江省を扱った関(1996)、上海市を扱った関(1997)の3部構成になっている。
3 このときの報告は、関・範編(2003)としてまとめてある。
4 この間の事業は、関(2002)を参照されたい。
5 この報告は、その後、日本貿易振興会(2003)として日本語で公刊されている。
6 台湾コンピュータ産業の基本的な構図に関しては、川上(1998)、揚(2003)が有益である。
7 こうした問題に関しては、関(2003a)を参照されたい。
8 珠江デルタに特徴的な「委託加工(来科加工)」に関しては、関(2002)を参照されたい。
9 日本企業の「現地化」に関する問題は、関・範編(2003)を参照されたい。
10 このような中国の難しさに関しては、関(2003b)を参照されたい。
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