2004/03/29 PRESIDENT
中国・蘇州を埋め尽くす「台湾IT産業」の隆盛
一橋大学大学院商学研究科教授
関満博
「観光都市」に現れた巨大な「パソコン村」
今年は中国の旧正月である「春節」が例年より二週間ほど早く、一月二〇日ごろからということになった。春休みに幾つかの本格的調査を考えている私にとっては、やや早いが、一月の前半から一回目の現地調査をせざるをえなくなった。今回のターゲットは蘇州である。
観光都市と思われているが、いまや上海、広州に次ぐ中国を代表する工業都市となっている。その蘇州に台湾企業は四〇〇〇社ほど集積しているが、そこに、二〇〇〇年ごろから台湾のコンピュータ関連企業の大集積が始まった。
特に、ノートパソコン生産は、ほぼこのエリアに集中している。実は、私は〇二年秋口からこのエリアの中の「呉江」という場所に関心を抱いていた。当時、建設中で十分なヒアリングはできなかったが、すでに台湾コンピュータ関連企業が約三〇〇ほど軒を連ねていた。それも一社で一〇〇平方キロを超す敷地を抱えている企業に目を奪われた。パソコン、携帯電話のARIMA(華宇)、ディスプレーの中華映管の敷地は、優に一〇〇平方キロを超えており、正門から工場ははるか彼方に見えた。鉄鋼や石化コンビナートは別にして、電気・電子系の工場で、これほど壮大な敷地は初めて見た。
以来、この呉江、崑山を含む蘇州の台湾コンピュータ関連企業の系統的な現場調査は、私の当面の最大の課題となった。そして、ようやく〇四年一月、このエリアで二十数件の現場調査を実現できた。本格的な報告はあと二度ほど調査を重ねてから書籍の形で行うが、ここでは特に注目すべき点を紹介しておきたい。
現在、蘇州には大型の経済開発区が幾つも展開されている。先行的に開発された崑山経済技術開発区(七七平方キロ)のほかに、蘇州高新区(二五八平方キロ)、蘇州シンガポール工業園区(二六〇平方キロ)、呉江経済開発区(八〇平方キロ)が主要なものである。東京のJR山手線内側の面積が六〇平方キロということからすると、その壮大さが理解されよう。これらは単なる工業団地ではなく、新都市開発としての意味も含まれている。
この四つの開発区は、いずれも興味深い存在であり、この比較研究だけでも一冊の本が書けそうだ。互いのライバル意識はかなりのものである。関係者の間では「地元が必死の思いで先駆けた『崑山』、見た目も美しい『蘇州園区』、地味だが実質のある『蘇州新区』、台湾頼みの『呉江』などと言われている。蘇州の二枚看板というべき蘇州園区、蘇州新区は世界の有力企業が軒を連ね、日本の有力企業も目立っている。
逆に、台湾系の姿は薄い。むしろ、台湾系の企業は崑山、呉江という地方色が濃厚で、地価も安い場所に集中しているようにみえる。蘇州全域で四〇〇〇社といわれる台湾企業のうち、一八〇〇社は崑山、三〇〇社は呉江とされている。
台湾企業の中国進出は約六万件といわれ、日本の約二万件をはるかにしのいでいる。このうち、約三〇%が広東省、上海〜江蘇省〜浙江省を合わせた長江下流域が約三五%、福建省が十数%とされている。一九九〇年代後半までは広東省の比重が圧倒的に多かったのだが、二〇〇〇年前後から長江下流域、なかでも蘇州周辺への集積が顕著なものになってきた。特に、OA機器の中でも、デスクトップ・パソコン、コンピュータ周辺機器等は広東省の東莞周辺に大集積したが(関満博、世界の工場/中国華南と日本企業』新評論、二〇〇二年、に詳しく延べてある)、台湾のノートパソコン関連は、蘇州を中心とする長江下流域に集中した。台湾のノートパソコン主力一〇社のうち、QUANTA(廣達)だけは上海の松江区に立地したが、他の九社はすべて蘇州に着地している。
このノートパソコン勢が蘇州に集積し始めたキッカケは、九四年に、台湾を代表するACER(宏基)が蘇州新区にデスクトップ・パソコン工場を進出させたことに遡るとされている。台湾企業に共通する点なのだが、セットメーカーが海外進出する際には、関連企業を連れてくる場合が少なくない。ACERの場合も、抵抗器、コンデンサー、変圧器、プリント基板、プレス加工などの協力企業一四社を引率してきた。
彼ら協力工場群はACERからクルマで一時間圏内の地価の安い土地を模察し、当時は辺境の地と思われていた呉江の北部に着地した。現在(その一四社が固まっているエリアは呉江経済開発区の一部なのだが、別名「台湾電子城」と呼ばれている。
ただし、九〇年代末までは、呉江は全く世間に知られておらず、蘇州周辺の台湾企業集積も自転車などの軽工業部門が目についていたにすぎない。むしろ、二〇〇〇年までは、台湾企業のOA機器関連、電子部品関連の中国進出の焦点は広東省、それも東莞周辺とされていたのであった。
ソニーやNECが頼りにするARIMA
念願のARIMAの呉江工場に、今回、初めて訪問できた。一六〇平方キロの敷地に第一期分の工場が二棟、従業員寮が数棟完成していた。現在の従業員数は約七〇〇〇人、これが全体が完成すると、約六万人の規模になる。
ARIMAは二〇〇〇年に台湾政府がノートパソコンの中国進出解禁を決定するまで中国に進出していない。解禁決定後、躊躇せず長江下流域を調査し、地価が安く、地元の優遇も大きかった呉江に決定する。蘇州周辺にすでに進出していた協力工場約二〇〇社の配置も考慮したとされている。二〇〇〇年九月に設立、〇一年から操業に入っている。
このARIMAは、もともと、自社ブランドを持たないODM(Original Design Manufacturing)メーカーであるが、呉江進出以来、EMS(Electonics Manufacturing Service)の部分を増加させ、世界のメーカーからの受託生産を幅広く展開し始めている。現在の月間生産能力は、ノートパソコン五五万台、携帯電話一〇〇万台、サーバー四四万台、ピックアップヘッド五〇万台、バッテリーバッグ五五万台などとなっている。ノートパソコン、サーバー、ワイヤレス通信と開発を重ね、次の課題は光学、通信材料などとされていた。
主たるユーザーは、ソニー、NEC、ノキア、HPなどの世界の最有力企業である。ライバルはノートパソコンでは、同じ台湾勢のASUS(華碩)、QUANTA(廣達)、COMPAL(仁寶)、INVENTEC(英業達)、FIC(大衆)などであり、携帯電話ではBENQ(明基)、D&B(大覇)だが、大手コンピュータメーカーは、こぞって携帯電話にも踏み込んできており、激戦の様相を深めている。明らかに、ノートパソコンと携帯電話という現代を彩る二つの製品群の生産は、台湾勢の世界であり、それも蘇州を中心とする長江下流域が舞台となっている。
ARIMAの工場に踏み入ると、プリント基板の実装のラインには、日本の富士機械製造の機械がはるか彼方まで並んでおり、また、組み立てラインには大量の若い女性が張りつく目も眩むような光景であった。台湾のODM、EMS企業は蘇州の地で壮大な生産力を形成していたのである。日本の関係者が覗けば、溜め息が出ることになろう。
相次いで建設される大規模な半導体工場
台湾と蘇州に主力工場を置いているARIMAの場合、急速に蘇州シフトが進められている。蘇州の比重は、ノートパソコンの場合、〇一年の二〇%から〇三年は七〇%へ、サーバーは三〇%から一〇〇%へ、携帯電話は〇%から三五%へと急拡大している。台湾の空洞化が懸念される。
当然、このようなセットメーカーが蘇州に進出していることから、サプライヤー、加工業者も大挙集まってきた。例えば、ノートパソコンのマグネシウム合金の筺体を供給するCATCHER(可成科技)は〇二年七月から蘇州シンガポール工業園区でスタートしている。〇四年一月現在、従業員三七〇〇人、基幹となるダイキャストマシン六一台、また、いま評判のブラザー製NCタッピングマシン三三一台(今年一〇月には四五〇台に拡大予定)という壮観なものであった。私はこれだけの規模の筺体屋を見たことがない。このCATCHERはQUANTA、ACER、INVENTECなどのセットメーカーから注文を受けるが、最終的にはDELL。HPなどのブランド品になる。
また、このような一次サプライヤーに加え、加工業者も大量に蘇州に集結している。例えば、筺体用の鋼板切断専門の基杰五金は、九七年には広東省東莞市に進出(従業員七八人)、そして、蘇州の動きが鋭くなった〇二年七月に蘇州に進出している(従業員五三人)。当面は東莞の比重が大きいが、台湾は激減、それに対して蘇州が急増している。
また、このような台湾の中小の加工業者の場合は、先の四つの大型開発区よりも、さらにその周辺に展開している鎮レベルのなかなか見えにくい小規模な開発区に進出している場合が多い。例えば、この基杰五金は蘇州新区に隣接する蘇州市呉中区胥口鎮の香山工業園(一〇平方キロ)に立地している。蘇州に限らず、中国では鎮などの地方政府が小型の開発区(小規模といっても、日本の工業団地の一〇〜二〇倍以上の面積がある)を形成し、外資誘致に励んでいるのである。
以上のように、二〇〇〇年を前後するころから、中国蘇州はノートパソコンを主軸に台湾系企業の大集積が開始されている。長江下流域に自前のノートパソコンと携帯電話の組立工場の建設を考えていた日本のある有力メーカーは、先のARIMAを視察し、自社工場の建設を断念、生産委託に切り替えた。おそらく、この二〜三年で集積密度はさらに増し、世界のノートパソコン、携帯電話等については、このエリアに過半が集まってくるのではないか。半導体に関しても、上海から蘇州にかけて、現在、台湾系の一貫工場が次々と建設されている。すでに昨年末スタートした中芯(SMIC)の浦東新区の巨大な半導体工場は投資額一六億ドルとされている。
日本企業はこうした流れをどのように見ていくのか。ARIMAとSMICの工場の前に立って、自らのあり方を考えていく必要があるのではないか。
関満博(せき みつひろ)
1948年生まれ。
成城大学大学院修了。
専修大学助教授を経て現在、一橋大学大学院商学研究科教授。
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