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2002/05/10 毎日新聞朝刊
[社説]瀋陽亡命事件 公館立ち入り前例残すな
 
 中国の警察官が、瀋陽の日本総領事館に無断で立ち入り、亡命しようとした朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)出身の家族を連行していった。
 在外公館の不可侵を定めたウィーン条約違反である。日中関係へ悪い影響を及ぼさないよう、中国警備当局は、すぐに家族を総領事館の敷地内に戻すべきだ。
 中国の武大偉駐日大使は、竹内行夫外務次官の抗議に対して「総領事館への身分不明者の突入を防ぐ安全確保の措置である」と正当化した。北京の米国やスペインの大使館でも北朝鮮亡命者の駆け込み事件が起きているが、門外の警官は敷地の中には立ち入っていない。外国公館の警備は、敷地の外側でやるのが、どの国でも警備当局の常識だ。
 事件の一部始終は、韓国の亡命支援団体の連絡を受けた通信社が撮影し、映像は世界に流れている。男女4人と女児は、総領事館の敷地内に入りながら、中国当局によって連れ去られた。
 女の子の母親は、門の前で捕まり、鉄の門にしがみついて泣き叫んだが、警官たちに無理やり押さえ込まれた。
 この一家の親類は、すでに亡命に成功して韓国にいるという。韓国政府は5人の受け入れを表明している。あえて厳しい処罰の予想される北朝鮮に強制送還すれば、中国は国際世論から非人道的との非難を浴びるだろう。
 今回の事件では、日本の瀋陽総領事館もお粗末だった。隣の米国総領事館にも、同じ日と翌日、北朝鮮の亡命者が飛び込んだが、中国の警備当局との間のトラブルは起きていない。
 総領事館の敷地に中国の警官が入った時点で、館員はどれほど強く抗議をしたのか。韓国のメディアは、日本の外交官がやすやすと亡命者を引き渡したことを批判している。日本外交の力量がこんなところでも問われている。
 今回の亡命に似た事件は、北京の欧米大使館で起きている。外務省や北京の大使館は、事前に察知できなくても、起きた場合の対処を考えておくべきだった。
 外交官が、日本と北朝鮮との間に、国交交渉をはじめとして難しい課題が山積していることを知らないはずはない。亡命者を受け入れたくないなら表の鉄門を閉めておくべきだし、そうしないなら、館員は予想されるトラブルに緊張して備えていなければならない。外務省から中国の出先にどんな指示が出ていたのか。
 それにつけてもメリハリのないのが小泉純一郎首相の対応である。事件後、「中国の立場を調べて、慎重冷静にやれ」と指示した。在外公館の不可侵という原則を崩していい「立場」など、どの国にもないはずだ。条約違反について、きちんと抗議しておかないと、日本の公館に対する中国警察の無断立ち入りは前例になってしまうだろう。
 慎重冷静に対処すべきは、亡命に失敗した家族の扱いであり、それは、また別の問題である。そこを混同してはならない。
 
 
 
 
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