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 わかかぜはゆっくりと、そのおびただしい数の物体に近づいた。
 目前に迫ったその物体群は、水面にぽっかり浮かび、まるで満タンに空気を入れた革袋のようであった。
 近づいたわかかぜの航跡波で、裏返ったその革袋の端に、膨れあがって、引きつった、動物の顔が付いているのを発見した四人は、思わず口と鼻を被った。
「うぐっ・・・」
 杉山が顔を背けるように言った。
「豚や・・・」
 吉田の体に、悪寒が走った。
「こりゃ、この世じゃないわして。あの世やしょ。この入り江は」
 しかめっ面の秋山船長は、あわてて、わかかぜのユーターンを始めた。
「そう言うと、紀ノ川の岩出の河川敷にでっかい養豚場があったっしょ。あれが流されたんとちゃうか」
 と機関長の内沢は、おそるおそる入り江の方を振り返った。
 後で分かったことなのだが、内沢の言うとおりであった。
 岩出の河川敷にある養豚場が、洪水で流され、豚二百匹が海域に流出していたのである。
 三人が入り江を恐怖の余韻としている間も、杉山だけはボンベの行方の手がかりとして考えていた。
「風の影響を強く受ける豚の死骸が、あの入り江・・・」
 杉山が独り言のようにつぶやくと、それに答えるように船舶電話が鳴った。
「杉山さん、中藤係長からです」
 内沢が取り次いだ。
 杉山は、出掛けのことがあったので、少しバツが悪そうに電話に出た。
「杉山です・・・朝は興奮してすんませんでした」
「いえ、私の方こそ・・・。ところで現地はどうです。見当付きそうですか」
「いえ、今、沖の島の西裏側ですが、豚の死骸だらけでした」
「ええっ、豚を発見しましたか!その情報がほしかったんです。流れたLPガスボンベの充填工場は養豚場の向かいにあったのです。つまりボンベと豚が流れた時刻はほぼ同じです。そして、ボンベの専門家に聞いたところ、栓が破壊されない限り、ボンベは頭の部分だけ海面に出して、ほとんどが没水しているとのことです。つまり、ボンベの移動は、ほぼ表面流にのみ支配されていると言うことになります。その入り江に豚の死骸があるということは・・・」
「そしたら、係長、ボンベはもっと北に移動して・・・」
「そう、大阪湾の友が島反流に乗って東に回って行くんじゃないでしょうか」
「そうか分かったっしょ!今は引き潮やして、ボンベは地の島と沖の島の間、中瀬戸を南下してる最中やしょ」
「うん!杉山さん、間違いない。きっとその通りですよ」
 杉山は電話を切ると、確信するような口調で秋山らに言った。
「中瀬戸に急行やして!」
 わかかぜは、艫を沈めて舳先を持ち上げると、勢いよく発射した。
 目的地にさしかかると、杉山の双眼鏡の視界に、銀色に煌く一筋の帯が現れた。
「あったでぇ!ボンベやして」
 自信たっぷりの笑顔で、杉山が体を小揺すりすると、船内は歓喜に包まれた。
「吉ヤン、直ぐに事務所ときしゅうに連絡いれっしょ!」
 言いつけた杉山は、操船室を出て、わかかぜの舳先に仁王立ちした。
 近づくにつれて、船内の三人にもガスボンベがはっきりと見て取れるようになった。
 三百本のボンベは、引き潮の激流の中をひしめき合い、ガチン!ゴチン!と鈍い金属音を奏でながら南下していた。
 それは太陽に照らされて、ギラリギラリと不気味に光を反射し、一定間隔で海面への隆起と沈降を繰り返しながら、まるで何か巨大な生き物のように前進していた。
 と、突然、ガスボンベの帯が、わかかぜを威嚇するかのように膨らんだ。
「あ、危なっ!」
 舳先の杉山が、叫びながらしゃがんだ。
 瞬間、ゴォーと言う唸り声を上げてわかかぜが、艫を支点にして急旋回した。
 危機一髪で、衝突は回避された。
 しかし、ガスボンベのぶつかり合う音は、どこまでも追いかけてきた。
 その音は、わかかぜのエンジン音と、底重たく共鳴し、船内の空気を震わせた。
 そして、それは、バランスを失って転んだ、吉田の体をも震わせていた。
「武者震いや・・・」
 彼は、振り返ってガスボンベを睨みつけると、体勢を整えた。
「今は危険すぎるっしょ。ボンベが全て中ノ瀬をつききって、動きが収まってからやして。それまで後をつけて行くんやして!」
 慌てて船内に戻った杉山には、発見したときの笑顔は全く消えていた。
 遠方に、知らせを聞きつけたきしゅうの姿が見えると、わかかぜはきしゅうに向かった。
 杉山と吉田は、回収作業のためきしゅうに乗り移った。
 きしゅうの周りに、知らせを聞いた漁船らも続々と結集した。
 激流するガスボンベの群は、中ノ瀬の南沖に達すると、取り巻く船団を蹴散すように大きく西に蛇行し、ようやくその動きを止めた。
 満を持したかのように、きしゅうの船内放送が鳴り響いた。
「今や、かかれっしょ!しばらくするとまた動き出すっしょ!」
 杉山の怒鳴るような言い回しに、船員達が雄叫びを上げて奮い立った。
 吉田の武者震いは、いつの間にか止まっていた。
 きしゅうは、ゆっくりとボンベの群に近づいた。
 杉山も加勢して、三人一組となってボンベの回収に当たった。
 まず一人が、ボンベの頭を慎重にケンツキで引っかけて寄せると、残りの二人もケンツキを引っかけ、三人でデッキまで持ち上げた。
 他の漁船らが回収を躊躇する中、彼らだけが回収の要領を得、重さ三十キロもあるボンベを次々と引き上げた。
 過酷な作業にもかかわらず、誰も弱音を吐かない、荒い息遣いとかけ声だけが交錯する時間が、黙々と過ぎた。
 既に二時間程経っただろうか、海上のガスボンベは半分ほど回収された。しかし、その時、きしゅうの頭上の旗が、バタバタと激しく音を立てて風にあおられ始めた。
「あかん、マゼやしょ!マゼが来るっしょ」
 音ヤンが、肩で息をしながら、南方に浮かぶ雲を不安げな目で見上げた。
「急げ!マゼになるやっしょ!」
 杉山が、皆に呼びかけるように叫んだ。
 船員達の動きが、更に激しさを増した。
 だが、やがて紀伊水道は、凶暴なマゼの海へと化身していった。
 と、いきなり強風を受けたきしゅうの船体が大きく傾いた。
 ガッチーン!強烈な金属音と共に、回収したボンベ二本が、床にたたきつけられて転がった。とっさに、エグチンと満ヤンが転がるボンベに飛びついた。
 エグチンの鼈甲のメガネが吹き飛んだ。
 満ヤンは、ボンベを抱えたまま、船体に体を嫌と言うほど叩きつけられた。
「大丈夫かァ!」
 杉山の声に、満ヤンはボンベに抱きついたまま、無表情でこっくりとうなずいた。
 その時、海上のガスボンベが、再び鈍い金属音をガチン!ゴチン!と発しながら、うごめき始めた。
「あかん、また、動き始めたっしょ!」
 音ヤンが、デッキに四つんばいになり、ボンベの群を恨めしそうな目で睨みつけた。
「上げ潮やしょ。上げ潮が始まったんやしょ」
 杉山が、観念するように言った。
「あかん、吉ヤン。もう無理や止めとけ。一時中止やして!」
 ボンベにケンツキを掛けて、船体に引き寄せる吉田を、上ヤンが止めた。
「上本さん、せっかく掛けたんで、こ、これだけは上げましょうよ」
「よっしゃ、これだけや、音ヤン!これで最後にしょうら」
 吉田の引き寄せたボンベの取っ手に、音ヤンと上ヤンのケンツキが引っかけられ、引き上げようとしたその時、再び船体が大きく傾いた。
 と同時に、音ヤンと上ヤンのケンツキが、ボンベからカシッという音と共にはずれ、二人は後方にドンとしりもちをついた。
 次の瞬間、ガスボンベに引きずり込まれるように、ケンツキを持った吉田の巨体が、反対側の海に一回転して弾き飛ばされた。
 ザッバーンという激しい水しぶきと共に、吉田はマゼの海に投げ出されてしまった。
「吉ヤン!吉ヤン!」
 音ヤンらの絶叫が、荒くれる波しぶきにかき消された。
 気が付くと吉田は、救命胴衣の浮力を借りて、ガスボンベの群の中に浮いていた。
 目の前で、踊り狂う三角波が、きしゅうの船体を見え隠れさせ、近くで、ボンベが激しくぶつかり合う金属音が、鼓膜を刺した。
 だが、彼には、不思議と恐怖心は沸いていなかった。
 すぐにきしゅうから、ロープに結わえられた浮き輪が投げられたが、簡単にマゼに押し返された。
 吉田の体が、紀淡海峡の強い上げ潮に翻弄されながら、流されていく。
 突然、満ヤンが、ケンツキにロープを結わえ付け、やり投げの体勢に入った。
 誤ったら、吉田の体に突き刺さる。
 誰もが息をのんだ。
 だが、満ヤンを止める者はいなかった。
 他に方法がなかったのだ。
 満ヤンは、弓のように大きく体をしならせると、空手の気合いもろともケンツキを投げ飛ばした。
「セイャーッ!」
 マゼを切って放たれたケンツキは、吉田の間近にあるボンベに命中すると、カン、カンと余韻のない乾いた音と共に着水した。
 吉田は、そのケンツキを死にものぐるいで掴んだ。
 掴むと彼は、ケンツキから素早くロープをはずし、自分の体に結わえた。
 それを見たきしゅうの船員達から、思わずため息が漏れた。
 しかし、安堵する船員達とは裏腹に、彼は意外な動作を始めた。
 ケンツキを持って、ボンベを追いかけ始めたのである。
「こら、吉ヤン、止めっしょ!」
 とっさに音ヤンが叫んだ。
「あのバカ・・・」
 満ヤンは、目を点にして呆れると、思いっきりロープを引き戻した。
 満ヤンの引っ張るロープに、音ヤンとエグチンと上ヤンも加勢した。
 しかし、吉田は抵抗した。
 激流に流されるボンベの群れの中で、彼は狂ったようにケンツキを振り回した。
「一本でも多く回収するんや」
 命すら落としかねない状況の中で、何故か使命感だけが頭の中を支配していた。
「こぉらぁっ!吉ヤン、止めっしょい。命令やして!」
 杉山の、雷のような怒鳴り声が、きしゅうの拡声器から海上に何度か響き渡った。
 やっと、吉田の動きが止まった。
 激しくぶつかり合うガスボンベだけが、上げ潮の激流にのって、遠ざかっていった。
 その様を凝視する彼には、もはや寸分の力も残っていなかった。
 船員達によって、運動会の綱引きのように引っ張られる彼の体は、きしゅうに背を向けて何の動作もなく、まるで回収される浮遊ゴミのようであった。
 きしゅうの船体に近づき、みんなの顔がはっきり見て取れるようになってから、やっと自分のしたことに気がついた。
 流れ去ったボンベのことで一杯だった頭の中が、今度は、みんなに迷惑をかけて申し訳ない気持ちで一杯になった。
 船体にケンツキを引っかけ、海中から顔だけ出した状態で、「すいませんでした」と神妙に吉田が謝ると、飛沫でボタ濡れになったみんなの口元が、やっとゆるんだ。
「ええんやして、吉ヤン・・」
 はい上がろうとする吉田の腕を、涙声の音ヤンが掴んだ。
 デッキに引き上げられた吉田は、すぐに音ヤンら数人に抱きかかえられるように船室に運ばれ、着替えさせられると、蓑虫のように毛布でくるまわれた。
「吉ヤン、また明日があるんやして、しばらく横になっときやし・・・」
 音ヤンのがらがら声が、今日はやけに優しく響いた。
 激しく揺れる船内から、横になって見上げた丸窓の向こうに、マゼがうなり声を上げて吹き荒れていた。
 吉田の体は、やっと恐怖心を思い出したように、ガタガタと震え始めた。
 やがてきしゅうは、小さな船体を振動させながら踵を返すと、いつの間にか、和歌浦の天空に浮かんだ満月に誘われるかのように、帰路へと就いた。







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