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沼名前神社の石造物調査
 
沼名前神社
 
 二〇〇三(平成一五)年四月より、当館友の会では沼名前神社の石造物調査を進めている。広島県文化財指定の「沼名前神社鳥居」一基、福山市文化財指定の「沼名前神社とうろう」一対、福山市有形民俗文化財指定の「鞆ノ津の力石」をはじめ、指定外の鳥居、石灯籠、狛犬、陰陽石、玉垣等、多種多様な石造物が存在している。
 花崗岩質の良質な石材であり、原形をよくとどめている。一点も残さずに実測、拓本、写真、聞き取りを行っている。民俗学や歴史学の力量不足を感じながらの調査である。調査途中の一端として、玉垣と港町交易(特別展『北前船とその時代』)との関連性について紹介する。
 従って、実測図等の調査内容にはふれない。
 
所在・位置
 沼名前神社は鞆町の西方の山麓に位置し、大綿津見命を祀り、海上安全の信仰を集めた渡守神社と須佐之男命を祀り、無病息災を祈願する祇園社を併祀している。本殿に上る大石段(江戸時代の文献では、大雁木という)の右側二列、左側二列に数多くの玉垣が並んでいる。一列約百本で四列に並んでいる。本殿の左側の玉垣について、ここに取り上げる。その他、多くの玉垣があるが、省略し全体的調査報告書としては、改めて発刊する予定である。
 
大石段右(北)外側、左(南)外側
建築年代と「取次」
 北外側の最上段の親柱には「西国□行十一人組」「文化九壬申三月」とある。□は石組のほぞ穴で解読できない。「十一人組」が判明しないが、「西國」の十一人が中心になって玉垣を寄進したものである。
 工楽松右衛門が、既存の波止を延長し修築したのが「文化八年」(一八一一)であった。全町民が軒なみ一日一文ずつ積み立てる「一文講」と、問屋の取引高の一%を積み立てる「一朱銀」と、藩や義倉の資金などを合わせて港を修築した。鞆港の大波止建造と連動して、この玉垣を設置したとも考えられる。また、南外側の最上段の親柱には、「文化十一甲戌十月調」と完成年月を刻み、そして「取次、堺屋理八、福□近江屋嘉助」と刻んでいる。□はほぞ穴である。「十一人組」の中の二人を指すものであろう。
 玉島の「玉栄 取次」と刻んでいる玉垣が十三本もある。「取次」と刻んでいる玉垣を列記する。「攝列兵庫神力丸野田屋新介」「同攝列八幡丸表屋善四郎」「阿州後藤田堺助」「豊前小倉伊崎屋善治郎」「防列山代三國屋治兵衛」「同(防列山代)丸屋利八郎」「芸州吉田町煙草屋」「伊喜末讃岐屋惣五郎」「□江村天神丸久兵衛」「土庄村船中」「同出店」「播列網干長松氷野定」「讃州粟嶋枡屋徳太夫」「當所」「取次」では、「東疂屋五郎右ヱ門」「土佐久」「胡屋平右ヱ門」「山田屋」である。
 (州、列、と表記、州の意である)
 
「西國」(寄進者の分布)
 福山城下の下市、神島の問屋や商店、大坂の問屋、玉島の問屋、「當所」の問屋(船宿)が多くの玉垣を寄進している。これが中心である。鞆の津から遠く東方面では、「江州八幡」(近江八幡市)が出てくる。「摂津兵庫」「播州三木」「播州村山三代吉座中」「播列網干」「播列土庄村」、以上が近畿圏である。「摂州灘酒船中」は注目される。唯一「灘酒」という商品名が出てくる。玉垣には、地名、問屋名、船頭名は刻むが特産品は刻まない。幕府の酒造統制の厳しかったその当時、鞆の津の他国商事に「灘酒」を取り扱ったかどうか、今後の調査課題である。「備前八濱」「備中高沼」「備中西濱」「備中柏嶋」「備中矢掛」「備中倉鋪」「備中冨岡」「備中四十津村」、続いて地元備後では、福山城下、鞆の津以外では、「深津村」「備後三次三日市」「芸州吉田町」、山口県では、「防州山代」「防州大畠」「防州室積」と刻んでいる。
 四国では「阿州池北屋治兵衛」というように問屋名のみを記していて、地名を記していない。「阿州」と言っただけで、徳島県の問屋名だけで、知れわたっていた大問屋かも知れない。「讃州粟島」「小豆嶋濱浦」「土州尾浦」である。
 九州では、「豊後原浦」「豊後真郡江」「豊前中津」「豊前中津」「肥後八代」、そして「日州美々津」とある。日州とは日向のことで宮崎県の美々津、遠くは「對州」がある。
 以上は、なるほど「西國」であり、商業交易圏を暗示している。さらに、鞆港の普請事業と同時進行しているが、工事の中核となる問屋(船宿)は別々になっている。詳細については、石造物調査報告書で発表したい。本殿に上る急斜面の工事であり、単に玉垣設置だけではない。莫大な経費をともなう大工事である。しかし現状の大雁木(大石段)は、文久三年(一八六三)に築造されたものであって、文化年間の石段や玉垣設置の様子はうかがうべくもない。
 
大石段右(北)内側、左(南)内側
建築年代と「取付」
 南下袖の親柱には、「文久三癸亥正月」と刻み、南側の最下部の親柱には「文久三癸亥正月」とある。一八六三(文久三)年であった。外側の玉垣では「文化九壬申三月」(一八一二)「文化十一甲戌調」(一八一四)とあるから、寄附金集めの期間か工事期間か判明しないが、「調」とあるので、工事開始、完了と判断したい。すでに、本殿に上る急斜面の坂道が既にあって、文久三年に現在の大石段を敷設し、内側の玉垣を合わせて設置したのである。大石段を敷設し、江戸初期の石灯籠を玉垣の中に設置しなおし、そして、四列の玉垣を再建したり、新築したのである。
 南内側の最上段の西側には、「當所取付 大阪屋萬右衛門」と刻んでいる。江戸末期になると「大坂」→「大阪」と表記した。北内側の最上段の西側には「當所八籠屋與一郎」、南側には「豫州川之江 高津善兵衛吉徳」と刻んでいる。そして、大石段内側の南下袖には、「當所世話方東濱中」「普請掛胡屋平右衛」とある。
 この人達が中心であった。さらに親柱に大文字で刻んでいる人名、つまり大口の寄進者を列記する。北内側では、「豫列 川之江 進藤長次英通」「伊豫 川之江 岸井四良右衛門勝房」「宇和島 濱田太兵衛 御生 吉田喜兵衛」「豊前 宇之嶋 萬屋助九郎」、鞆の津では「寄附 東濱中使中」新屋林兵衛、相屋八良兵衛の名が見える。南内側の親柱では、「讃州 白方 橘屋國治郎」「同所 中屋忠兵衛 同所 三寳丸時治良 同所 若宮丸平吉」「讃列 金蔵寺 和泉虎之助」「讃列 多度津 大隅屋宇右衛門」、そして又「寄附 東濱 中使中」とある。
 鞆港には、港湾労働者の組合とも言うべき「港濱」「西濱」「東濱」の三つの「仲使中」があった。「大阪屋」「八籠屋」が中心になり、そして、「胡屋」「相屋」「新屋」は、仙酔島に面した「東濱中使中」と組をなしていて、積荷の上げ下げをしていたことが判る。いずれの問屋、酒屋も関町、石井町にあり、仙酔島に面した町衆であった。もちろん鞆の津の多くの船宿(問屋)も関わっていた。
 
友の会会員による石造物調査
 
寄進者の分布
 遠くは石川県「加戸腰、錢屋與八郎」がある。加賀藩の御用商人であった、数百艘の北前船の船主でもあった銭屋五兵衛の一族であった。「大坂堂島」、続いて中国地方では、「播列、松屋」「備前、呼松邑」「備前、利生邑」「備中、黒嵜」「備中、阿倉」「備中、船尾」「備中、大島」「備中、[弁]才天」「備前、連島」そして、「尾路」(尾道)は多くの玉垣を数える。「周防□川」「周防徳山」である。四国では「讃州白方」「讃列、金蔵寺」「讃多度津」とあり、「煙草屋兵治」「[煙]」印を刻んでいる。備後の神石郡の特産品の煙草を鞆港の問屋を通して移出していたものか。これをもって、断定はできないが。さらに、伊豫では、既述の「川之江、高津善兵衛吉徳」と、「同、下分屋源次吉充」は十三本を数える。「進藤長次英通」の四本と合わせて、川之江は大口である。さらに、「伊豫」では「馬島」「御生」「雨井」「下灘」「所」「江津」「宇和島、御生」「宇和島、明神浦」「宇和島、大江浦」がある。九州では、「豊前、小祝」の船名が数多く出てくる。「豊前 宇之嶋」、特筆すべきは、「豊後 日田 大和屋作七」「同 蛭子丸 三右衛門」である。日田は約十三万石の幕府の直轄地で、“日田杉”で有名な山間地である。船名、船頭名は今後の交易調査の手がかりになる。鞆の津では、補足すると、「川之濱、神[力]丸三□良」とある。小字「川之濱」がどのあたりにあるのか判らない。昭和五十一年の歴史民俗資料調査収集専門委員会では、『鞆の地名あれこれ』という小冊子を発刊しているし、かなり調査を進めているにもかかわらず、判らない。今日、市町村合併が進んでいるが、大字、小字も含めて、地名は一つの歴史であり、文化である。地形、習俗、生産構造など暗示するものが多い。全国各地で緊急に調査することを提案するものである。以上は、文化年間の玉垣と同じく、商業交易圏を暗示するものである。
 
遊女の寄進した玉垣
 「文化九壬申三月」と「西國□行十一人組」と刻んだ文化年間の玉垣の親柱の次に、最上部に「當所 奈良也 千登せ」、続いて刻印のない玉垣が二本あり、続いて「同 浮ふ祢」と刻んでいる。さらに、本殿南側の石段の玉垣の親柱には「寛政八丙辰歳造之」(一七九六年)とあり、親柱の「佐土原屋興左衛門」に続いて「播磨屋利兵衛」「塩津屋定右衛門」「大坂・・・」「阿州、中村・・・」が立っている。「取次」などの中心人物であると考えられる。次に上位に位置すると推定される玉垣が続く。「奈良屋 さい吉」「廣嶋屋 きよ者し」「廣嶋屋 さのかわ」「奈良屋 うたを」「廣嶋屋 者しとみ」「廣嶋屋 者な佐起」とある。
 江戸時代初期には、奈良屋、広島屋、黒格子屋、吉野屋が「四軒屋と号し」(広島屋文書)公許になり、鞆の津の有磯町が遊廓地であった。一六一七(元和三)年江戸吉原に遊廓を公許し、各地に公許した。鞆の津の公許年代は不明であるが、水野氏入部頃、元和年間と推定される。
 奈良屋が阿弥陀寺に釣鐘を寄進したのが、承応元年(一六五二)(二〇〇二年度、特別展「港町鞆の寺院、その三」図録参照)で、すでにかなりの経済力があった。
 天明五年(一七八五)と、文化六年(一八〇九)の広島屋の古文書で、奈良屋、広島屋、姫路屋、福島屋が確認される。そして文化年間には、四軒屋の株も乱れ、饅頭屋、扇屋、虎屋、姫路屋、籠藤(籠屋藤兵衛)の遊女屋が生じた。
 遊女の中でも、大夫ともなれば、詩歌管弦の芸に優れ書をよくした。広島屋の式部という大夫の書も残っているが略。「庚寛政二年戌四日、廣島屋甚左衛門」の願文には罪業の消滅を念仏に求め、必死の願文である。また、遊女共々、祇園宮(現、沼名前神社)に詣で、罪業を謝し、楼主の仏壇に毎朝経文を唱えた。また、全国の遊女番付表や遊女見立表では、有磯町の大夫は「三十匁」前後であり、瀬戸内の遊廓の中でも最高級である。天神クラスでは、玉垣の寄進は考えられない。
 天明〜寛政年間にかけて、鞆の津の商業は衰退する。遊廓の経営も困難期を迎えるのである。そうであるから、港湾施設の拡充に力をそそぎ、遊廓の復興にも力を入れた。遊女残酷物語を基本的視点に置いて、遊廓史は再検討しなければならない。 (池田一彦)







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