4 日米和親条約締結
嘉永七年(一八五四)一月一六日、ペリー艦隊は再び江戸湾に来航した。阿部正弘は戦いを避け、アメリカ側が人道上の問題として強調していた、漂流民の保護と船舶への物資補給について受け入れることを決断した。交渉は二月八日から横浜で始まり、幕府が最も避けたかった通商について、ペリーに断念させることに成功した。
交渉が進む一方、両国の交流も行われた。アメリカの科学技術を誇示する献上品は、日本人に強い関心を抱かせた。日本側は力士に贈答品の米俵を運ばせ、アメリカ人を驚かせた。横浜応接所やアメリカ軍艦上で、それぞれが主催する饗応も開かれ、交流を深めた。これらの光景は、日米双方によって詳しく記録されている。
三月三日、日米和親条約が締結され、約二百年続いた鎖国体制は終焉を迎えた。ペリーは、日本開国を実現した意義を誇った。一方幕府は、通商を拒否できたことで、日本としての面目を保てたと考えていた。
54. ポーハタン模型
55(1). 福山御城之図(「菅波信道一代記」)
55(2). 神辺駅之図(「菅波信道一代記」)
|