3 ペリー艦隊来航
嘉永六年(一八五三)六月三日、M・C・ペリーが率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊が江戸湾に来航した。阿部正弘は避戦を前提として、艦隊の穏便な退去を図った。一方、ペリーも戦闘を禁じられていたが、ビッドル艦隊の経験から威嚇的な態度で大統領国書の受理を迫った。幕府は直ちに退去することを条件に、国書を受理した。ペリーは、翌年に国書の回答を得るために再来日することを告げ、日本を離れた。
翌年のペリー再来航にどのように対応するのか、阿部正弘は幕閣に限らず、広く諸大名・有司に意見を求めた。特に、海防への参画が認められた徳川斉昭の意見が、大きな影響を与えた。
七月一八日、長崎にロシアのE・V・プチャーチンが来航し、同様に開国を求めた。幕府は時間稼ぎを行い、ロシア艦隊を一旦退去させることに成功した。しかし、このような穏便な対処をはかる阿部正弘の政策に批判的な考えは少なくなかった。
31. |
M.C.ペリー肖像 (「日本遠征石版画集」) |
32. イラストレイテッド・ロンドン・ニュース
33. 異国船江戸湾進退図
(拡大画面:133KB)
|
|
34. 徳川斉昭宛阿部正弘書状写(「新伊勢物語」)
>
35(1). 浦賀記行
35(2). 嘉永外夷視察報告
|