『ギャンブルに関する学際研究』 日本リゾートクラブ協会スポーツ寄附講座 平成6年度研究報告シリーズ
松田義幸
8.女性化社会におけるギャンブル
最近は、「やさしい男性が多く、女性心理が濃厚な社会である」という。こういう社会においては、同じギャンブルでも男性的色彩の濃いものは敬遠され、宝くじのように“夢”を買う女性的なギャンブルに人気が集まるというのだが・・・。
(1)飲酒、賭博、性への欲求は人間の本性
信者に道徳を説く聖者でも、時には好きな女性と一夜をともにした夢くらいは見る。中には聖者でありながら、夢だけでは満足できずに、実際に性を楽しむ者もいよう。聖者でもこうであるからましてや、普通の人々は、恋人を待ちながらまた妻を持ちながら、他の女性を求めたとしても不思議ではあるまい。最近は、この逆の女性の方からのアプローチも少なくない。戦後、性は大幅に解放されてきているのである。
回教では酒を禁じている。その回教圏のアラブでも、エリートはひそかに酒を嗜んでいるという。酒好きにとって最も難しいことは、適度のところで切り上げるという思いきりである。飲酒行動における適正水準の研究がいくら進んでも、アルコール中毒患者は減少しそうにない。適正水準、それを英語では、安全(safety)と自己責任(responsible)ということで、自分の健康を損ねることなく、他人に迷惑をかけない範囲での飲酒をする水準ということである。しかしこのわかり切ったことを、酒飲みはなかなか守りきれない。
ギャンブル、これもどの時代のどの社会にもあって、これにのめり込むことを心配してきた。昔から勤労によって得た金は尊いが、賭けや偶然によって得た金は不浄であり、正しく、清く生きようとする人間が、ギャンブルに近づかないようにどの社会も知恵を出してきた。しかし、現実はということになると、これとは逆で、どの時代においても、またどの社会においても、ギャンブルが途絶えたことはない。
わが国でも、“飲む、打つ、買う”は、道楽のはじまりで、これに近づけないようにするにはどうしたらよいか、習慣化しないようにするにはどうしたらよいか、知恵を絞ってきた。しかし、こうした習慣は、人類の歴史とともにあり、あらゆる時代、あらゆる文化に存在し、知恵を絞った当人たちですら、それに参加し、楽しんできたのが現実である。
表向きは、キリスト教文化においても、また仏教文化、回教文化、また社会主義圏においても、飲酒、賭博、性にうつつをぬかすことは、文化的には次元の低いことで、それよりは宗教音楽、クラシック音楽、読書、スポーツに自由時間をあてることの方が望ましいと考え、そのための環境づくりを大切にしてきた。
ところが、人間の本性はこうした欲求を断ちがたく、家から離れたところ、勤め先から離れたところに、そのための場所、“娯楽街”をつくりあげてきた。そしておもしろいことには、人びとの生活時間の構造が変わり、労働時間が短縮し、かわって自由時間が増大してくると、人間の本性を否定して無味乾燥な道徳的社会に生きるよりも、むしろ喜怒哀楽に満ちた、この世界に馴染み、人間的、文化的刺激を楽しむことも大切なことだと考える人たちが増えてきていることだ。規制するよりは逆に馴染むことによって、中毒に陥らない免疫性をつけることだ―このように構える(predisposition)人たちが、最近、非常に増えてきている。
(2)自由時間の増大とともに身近に
性についてみると、ホモセックスも、レズもまた一つの文化であり、アメリカでは、今や普通の現象、一般的現象になりつつある。わが国でも、一昔前と比べて、週刊誌、月刊誌いずれも、性を扱ったグラフィック、記事が多くなり、男性、女性の頭の中は、まさにフロイドの学説通り、性に関する知識がいっぱい詰まっていると思わざるを得ない。今の学生に、私たちが学生の時に隠れてひそかに読んだヴェルデの「完全なる結婚」を与えても、興味を持って読もうとはしない。相当進んでいるとみて間違いない。
酒についてみると、男性だけではなく、女性にも、飲酒の習慣化が進んでおり、大正生まれ、明治生まれの人たちが見たら、世の中の変わり方を、驚かずにはおれないであろう。夏のビアガーデン、パブ、スナックでの若い男女の飲酒は、まったく珍しくなくなったし、家庭においてもウイスキー、ビール、ワインの常備は、今や一般化している。
ギャンブルについてみると、小はパチンコ・麻雀、大は競輪・競馬まで、これも一般化してきており、普通の人びとがこれに参加したからといって、誰もめくじらをたてる者はいない。今や女性もレジャーの一つ、として、ギャンブル楽しむご時世である。
このように飲酒、ギャンブル、セックスは、自由時間の増大に比例して、身近になってきているけれども、興味深いことは、だからといって昔心配していた家庭病理、社会病理、犯罪が増大しているとはいえないことである。私には遠ざけていた時代よりも、身近になった現代のほうが、むしろ問題が少なくなっているのではないかと思われるのである。
(3)馬とワインとポルノ
わが国の犯罪統計、社会病理、家庭病理のインデックスを時系列でとってみても、飲酒、ギャンブル、セックスのレジャーが一般化してきている割には、極めて低位なのである。教育水準が高くなり、自由時間を活用する能力もつき、昔のように、生活に対立して、仕事のイライラ、モヤモヤを解消するために酒や女、バクチにうつつをぬかすということはなくなってきたのかも知れない。
かつては社会、人生にとって一番大切なことは、まずまじめに働くことであり、子どもを立派な働き手に育てあげることであった。この目的に持って、経済のしくみ、教育のしくみ、家庭のしくみには構造化され、この目的の足をひっぱるようなことは、すべて遠ざけるべきものとしてきた。人間の一生も、経済の価値を最大にするように取り決めがなされ、子どもの時代の教育はよき働き手になるための手段となり、30代、40代が人生の“華”で、それを超えると、やっかい者という風潮をつくりあげてきたが、今やこうした考え方は色あせたものになってきている。
人生50年といわれていた昔と違い、人生は75歳、80歳にまで延び、生涯時間にして65万時間、70万時間まで拡大しているのである。これに欧米の労働慣行制度の週休2日制、長期休暇制、定年制をあてはめると、驚くことに、労働時間は人生の1割以下にまで短縮し、代わって自由時間が3割以上に増大するのである。
こうなってくると、若い人たちの道徳観、価値観は変わってこざるをえない。労働そのものも大切であるが、自由時間を楽しく過ごすということも同じように、またはそれ以上に大切なことであると考えるようになってきているのである。
こうした物の見方、考え方、感受性が一般化してくると、かつての“飲む、打つ、買う”は、“馬とワインとポルノ”にモデルチェンジされ、労働との対立レジャー、生活との対立レジャーから、生活文化の中にすっぽり入り、“対立”から“同居”のレジャーに今や変わってきているのである。
一昔前は、女で身を持ち崩す者、酒で身を持ち崩す者、ギャンブルで身を持ち崩す者と、のめり込むことが少なくなかったが、今の若いひとたちを見ると、ギャンブルにしても、酒にしても、セックスにしても、実にスマートに楽しみ、まさに安全と自己責任の適正水準でとどめていることである。
こうしたライフスタイルの変化に適応すべく、ウイスキー、ビール、ワインの広告は、あの手、この手で、アルコールのある生活の楽しさを語りかけてきた。またアルコールのあるライフスタイルを、レジャーがらみで示している。セックスにしてもまた同じである。ギャンブルの中で競馬は比較的マスメディアを上手に使って大衆にアプローチをしてきた。それが“馬とワインとポルノ”のキャッチフレーズに結実したといってもよいであろう。
ギャンブルもイノベーションを
ここにいささか腑に落ちない現象がある。それは、“ワインとポルノ”は成長をつづけているのに、ある時期からギャンブルが低迷しはじめたことである。ギャンブルを支える環境、つまり消費者の価値観、自由時間、レジャー支出が落ち込んでいないのに、ギャンブル支出が伸び悩む。
一般的に、不況期に売り上げが落ち込むようになったら商品寿命(プロダクト・ライフスタイル)が成長期から成熟期にさしかかったとみるべきであるといわれている。成長期にある時は不況の時でも売り上げが落ち込まず、伸びるのである。オイル・ショックまでをとってみると、ギャンブル一般は不況に強い産業といわれていた。ところが、オイル・ショック以降、不況が深刻になると、ギャンブルの種類によって差はあるものの売り上げの伸びが鈍るようになった。たとえば、入場者数で見ると、競輪は昭和49年、競馬は50年がピークである。まさに成熟期を迎えたといってもよい。
こういう場合にマーケティング戦略でよくとる手は製品差別化と市場細分化をはかることである。たとえば、スポーツカータイプを好むターゲット、シックなタイプを好むターゲットというように特定化することである。競輪の場合でも、戦後つづいてきたサービスのシステムでは大衆にもうひとつ魅力が不足しているとみれば、メーカーが新車を発表するようにサービス・システムを革新して対応することである。
ギャンブルはいまや、生活に対立し、労働に対立し、モヤモヤ、イライラの解消手段、一攫千金の手段から、夢を楽しむ、スポーツを楽しむ、などの生活文化を楽しむレジャー心理のなかに位置づけられている。ギャンブルもそれにフィットするシステムにイノベーションを起こすべき時期を迎えているといえよう。
(4)女性心理が濃厚な社会
ギャンブルファンを分析すると、
(1)生活費を稼ぐための手段として参加するタイプ
(2)無意識の欲求に駆られてギャンブルに走り、自分の意思ではやめられない神経症タイプ
よりも、
(3)気分転換、気晴らし、レジャーとして参加し、自分の意思で適当なところで打ち切ることのできるタイプ
がほとんどである。こうした傾向は、宝くじファンにもみられる。いまも昔も(3)が普通の人々のギャンブルの楽しみ方である。こういう人々に魅力のあるレジャーにすればよいのである。
映画産業は、テレビやビデオの普及で成熟期から衰退期を迎えてしまったが、映画はテレビ・ビデオと真っ向から競合するから一方の伸びは他方の落ち込みになってしまう。しかし、ギャンブルは他のレジャーと深刻に対立するものではない。イノベーション一つで、大衆のレジャーの翼を担う十分な魅力のあるものである。
特に、増大しつつある宝くじの女性ファンの傾向を見ると、“夢を買う”タイプに合わせた商品開発を考える必要があろう。もともと女性心理からみると、(1)のギャンブルによって「生活費を稼ぐ」とか、(2)の「無意識の欲求に駆られてギャンブルに走り」などには馴染みにくいものである。ところが、最近は、男性のやさしい顔つきをみてもわかるように、女性心理が濃厚な社会である。ギャンブルを気晴らし、気分転換のレジャーとして夢を楽しみ、運を試すことはあっても、(1)と(2)には縁がうすいのである。
また、最近の若い人たちをみると、徹底的に情報を集めて分析し、不確実性を取り除き、真剣に意思決定をしようといったタイプよりは、情報誌やタウン誌などのこまぎれ情報をみてなんとなく意思決定をしているタイプが圧倒的に多い。これも女性的心理の一つの表れである。
こうした傾向は若者のレジャー行動を分析してみるとはっきり出てきており、ギャンブルもその意味では従来の男性的商品性格から、女性的商品性格にその内容をイノベートしていくべきものであろう。
(スリーエル1月号、No.20、1982所収)
松田義幸(まつだ よしゆき)
1939年生まれ。
東京教育大学卒業。
余暇開発センター主任研究員を経て、筑波大学教授、実践女子大学教授を歴任。
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