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1989年3月号 文藝春秋
政治の彼方の虹
松本健一(まつもと けんいち)(評論家)
八丈島の出来ごと
 日本人の政治に対する概念には、近代の欧米人によってつくられた「決断=責任」といった捉えかたや、「友敵」理論といった考えかたを、大きく逸脱したところがあるようにおもわれる。それを、日本には近代政治が根づいていないと批判してきたのが近代日本の政治学であったが、この政治学の前提となっている政治的概念それじたいが近代の欧米人によってつくられたものであってみれば、この批判はみずからの政治理論が日本の政治的現実に適合しない、と告白しているようなものであったろう。
 たとえば、昭和から平成へと元号が変わって二週間ほど後、八丈島で町長選挙が行なわれた。ここで現われたことをみれば、政治学者はこんなものは人気投票であって、政治ではない、と一言のもとに否定するにちがいない。
 八丈島の町長選それじたいについては、マスコミが騒ぎたてたため、割とよく知られているだろう。マスコミが騒ぎたてた理由は、ここに現町長の対立候補として立候補したのが、二十年ほどまえ、「愛するってこわい」でデビューした“じゅんとネネ”のネネ(高橋早苗)であったことである。ちょっとレズっぽい雰囲気を売り物にしたグループで、ネネは女役。いつもネグリジェのような衣裳をつけていた。
 その元アイドル歌手が、無競争で四選をはたすとみられていた奥山・現町長に、突然一騎討ちを挑んだのである。奥山といえば、八丈島の姓の五分の一ぐらいがたしかこの姓であった(と、二十年ほどまえ二度ほど島に訪れたわたしは記憶している)から、島にとっては名門も名門。その対立候補として、一年半まえに東京から移住したばかりの三十八歳の元歌手の女性が、「自然保護」を訴えて名のりをあげたのである。
 元アイドル歌手というだけでも格好の話題材料であるのに、そこに「自然保護」という今日の良識が看板として付くのである。マスコミとすれば、たんなる芸能ネタでなく、これを良識的立場から取り上げる錦の御旗をもらったようなものであった。それゆえ、テレビから新聞、週刊誌までが競って報道したのである。
 かの女は準備らしい準備、いわゆる選挙運動らしい運動もあまりしなかった。それでも当選した奥山町長の四一二八票に対して、一二二四票を獲得した。マスコミは「政治のド素人」にしては「善戦」とよび、「さわやか」と評した。そして、それで終わりである。
 だが、この元アイドル歌手の政治についての考え方と、かの女に投票した人びとの政治意識とには、きわめて重要な問題がふくまれていたように、わたしはおもうのだ。それは、たんに、「自然保護」という政治的(?)スローガンに関わるものではない。
 八丈島の島民は約一万人であるが、かの女は町長選への立候補のあと、その一万人の心を受けとめることが「町長」の役割である、というふうに考えたらしいのだ。かの女は今年の手帳の第一ページ目に「八丈島町長のこころえ」と題して、次のように書いているという。
 
一万人の人々の
心を抱きとめて
いつくしむこと
 
人々の心を
繁栄につなげる意識へと
導くこと
 
 わたしなどはこれを読むと、元アイドル歌手のなかにどのような思想の遍歴があったのか、と思想史家として考えたくなってしまう。だが、よく考えてみると、これは何かによって形成された政治思想というより、日本人が心の奥底、つまりエトス(生活的な感情)のレベルで抱いている政治というものに対する普遍的な考え方を表現したものなのではないか。
 「一万人の(ということはそこに生きている人すべて、とどのつまり万民の)、心を抱きとめて、いつくしむこと」。これは、日本人が政治に本来そうあってほしいと望む、究極の政治的なエトスであろう。
 わたしはこれを読んで、一人の女性がその言葉=思想となり終わっていない日本人の政治的なエトスを、よく言葉として表現しえたなあ、という驚きをおぼえる。そして、その「人々の心を、繁栄につなげ」ようとするかの女の姿勢は、すぐれて政治思想家的な志向をもった政治家のもの、といってもよいものである。
 政治学者およびマスコミは、この女性のことを「政治のド素人」とよび、それゆえに「さわやか」と評したのであるが、わたしのみるところでは、かの女こそ、欧米の議会制度の移植のもとでは直接に発現しなくなった日本人の政治というものに対する伝統的なエトスを抱きつづけていたような気がするのだ。それは、繰り返していうと、政治とは本来、すべての人(=民衆)の心を抱きとめて、いつくしむことにほかならない、ということだ。そして、かの女に投票した人の多くは、かの女の実務能力に期待したり、町おこしの可能生に賭けたのではなく、政治とは本来そのようにあるべきだ、とかの女の政治姿勢から感じとったのではないか。
共感共苦の精神
 こういった政治家と民衆との関係は、子をいつくしむ母とその母に敬虔さ(ピエテート)を以て従う子との関係に似ている。この「敬虔さ(ピエテート)」というのは、ひとつの家を家族の「共同態」として維持してゆく意識と、その社会関係のもとに生みだされる精神(エトス)といってよい。保護者と被保護者とのあいだに生じる感情である。これは、個人的な独立=決断を重んじる近代の自我意識と、明らかに背反する側面をもっている。
 そして、日本における天皇と国民との関係は、明治以後、家族制国家とでもいった形態をとったこともあるが、そういった制度以上に、農耕社会のつねとして、この母と子の関係に模されるものであった。(天皇の「赤子」としての国民!)八丈島の女性町長候補者は、つづめていえば「民の心を抱きとめて、いつくしむこと」を政治のモットーとしたが、それはほかならぬ、天皇の理想とする政治であった。
 とくに、政治的な権力から切れた戦後の天皇にとって、その意識が強かった。戦前には制度的に政治権力を掌握しているということもあり、また年齢的な若さもあって、昭和の天皇は権力者として上から民衆を支配し救済しよう、という思いが強かったようにおもわれる。しかし、戦後になって政治的な権力から切れた形態になって、天皇は「民の心を抱きとめて、いつくしむ」ことこそが天皇政治の本質である、というふうに思い、また努めてそのように振舞おうとした。
 
昭和二十二年
ああ広島平和の鐘も鳴りはじめ
たちなほる見えてうれしかりけり
 
昭和二十四年
庭のおもにつもるゆきみてさむからむ
人をいとどもおもふけさかな
かくのごと荒野が原に鋤をとる
引揚びとをわれはわすれじ
 
昭和四十一年
日日のこのわがゆく道を正さむと
かくれたる人の声をもとむる
 
 これらの歌に示された天皇政治の本質を、昨今流行のパフォーマンス(振舞い)というふうな言葉で、批判的に形容してもよいだろう。それらは、天皇の「民の心を抱きとめて、いつくしむ」というパフォーマンスなのではないか、と。
 実に、しかり。それは批判ではない。天皇というのは、そのように民を支配する王権ではなくて、民衆のすべての存在、すべての生起したことを見、そしてそれらを受けとめるパフォーマンスの人であるという、むしろ容認なのである。
 けれど、翻っていうと、日本国中探して、このようなパフォーマンスをあえてなしうる人が、他に、そしてどこにいるか。そのパフォーマンスは、日本人が政治というものは本来「すべての民の心を抱きとめて、いつくしむ」ものであってほしい、と希うエトスを引き受けてなされたものであった。
 むろん、こういった母と子との関係になぞらえられるような保護―被保護の関係のもとに行なわれる天皇政治は、近代政治学の体系からいえば、宗政一致にちかいものとして否定の対象になるにちがいない。近代の文明は、「決断」によって独立する個人に価値を認めることを「原理」とする。これに対して、天皇政治はドストエフスキーが『白痴』のなかでムイシュキシ公爵にいわせている、
 
おそらく共感共苦が全人類唯一の法である。
 
 こと、つまり「民」に対する「共感共苦」を「原理」とする文明であった。その意味で、天皇政治はかぎりなく近代文明に背反するのである。
 しかし、近代の議会や内閣や政党や銀行や鉄道や病院は、はたして人間ひとりびとりを存在として認め、とどのつまり救済したか。たとえば、ムイシュキンはこの小説のなかで、「世界を救おう」として「機械的形式」についての議論をたたかわせる人びとのただなかに、次のように出現したのだった。世界を救うのは、「自由な国民の議会制度」なのか、「鉄道」なのか、それとも「科学、産業、組合、賃金」なのか。それとも、こういった近代の「機械的形式」ではなくて、「美」であり、また「共感共苦」という「全人類唯一の法」なのではないか、と。
 そして、近代の日本人は、民主主義的な議会制や、責任内閣制や、個人の権利を守るという裁判所や、近代的な病院や、便利な鉄道や、基本的人権を守る組合などをつぎつぎに取り入れながら、しかもなお最後のところで、「すべての民の心を抱きとめ、いつくしんでくれる」、いいかえると民衆に「共感共苦」の感情をそそいでくれる天皇存在を希求していたのであったろう。天皇は、哀しいことに、近代の「機械的形式」に絶望した民衆の最後の拠り処であったのだ。そうでなければ、明治時代、近代の議会や内閣や科学や医療やらに足尾鉱毒事件の解決を望みつつも、ついにそういった近代とは背反するような天皇への直訴へと走っていった田中正造の姿はありえないのである。
 いや、明治ばかりではない。より近代化がすすんだはずの昭和、あるいはその戦後期になってからも、天皇の名が叫ばれつづけたのだった。二・二六、特攻隊、水俣病患者・・・というように。つまり、天皇の名が叫ばれたのは、天皇に「共感共苦の精神」を絶望的に希求する民衆の悲鳴というものであった、といえようか。
 
 「国民のすべてがそれぞれにじぶんのことを考え、じぶんの愛する人を想い、じぶんの家の永続を祈り、じぶんの属する集団や共同体の利益を図るときでもなお、一人でいいから、ほんとうにたった一人でいいから、国民すべてのことを考え、想い、祈り、図ってくれる人がいてほしい。
 そのような幻の人を思い描いて、この昭和という時代のなかで、二・二六事件の青年将校は『大御心にまつ』といい、戦争中の特攻隊員は『天皇陛下万歳!』と泣きながら死に、水俣病の患者は『て、ん、の、う、へい、か、ばんざい』と絶叫したのだった。」
 
 右は、昨年九月、わたしが天皇の重体という報道に接したあとで書いた文章の一節である。そこでは、「じぶん」と「天皇」が対比的に書かれている。これは、わたしが、「じぶん」を主張しつづけた近代とそれを超えてある「天皇」、という対比を鮮やかにあぶりだそうとしたからである。近代の日本人は、その「じぶん」と「天皇」との大いなる距離に揺られ、またその無意識的な葛藤に衝き動かされて生きてきたのである。
政治を超えて
 昭和天皇の政治は、戦後になって権力から切れたことによって、その天皇政治という本質を開示することになったが、それは高度成長以後いっそう明らかになったようにおもわれる。なぜなら、高度成長以後、日本人が相対的な平和と繁栄と安定とに馴れ、そのなかでひたすら「じぶん」の生活、財産、健康、安全といったものを守る方向に走っていったからであったろう。このとき、皮肉なことに、政治家でも経済人でも思想家でも学者でも医者でもなく、ただ一人、天皇のみが国民すべてのことを考え、いつくしむ役(パフォーマンス!)を果たそうとしていた。
 そのことが、晩年に、病床の天皇が行なう「政治」によって一挙に露呈したのだった。むろん、そのときの天皇の「政治」は消費税問題にも、リクルート疑惑にも、また国際化論議にも関わらなかった。しかしそのことによって一層、天皇の政治はそれら政策論や情勢論、そして実務的な処理に関わるものでないことが明らかになったのだった。
 たとえば、天皇はその病床から、豊葦原瑞穂のとどのつまり“米づくり”の国である日本の経済と国民の生活の根本に影響を及ぼすのは米の作柄である、というふうに無意識的に考えた。そうして、「長雨にたたられた今年の米の作柄はどうなっているのか」、と問うたのである。
 この問いが天皇の政策論議や情勢論に発するものでないことは、天皇がそう問うたとき、これにすぐ答えられる侍従や政治家が誰もいなかったこと、それによって側近たちが周章狼狽したさまが伝えられたことでも、歴然としていよう。そして、この発言は、天皇の長靴姿の「田植え」を背景においてみれば、ごく自然の、身についた、無意識的な思考であることがわかる。
 もちろん、こんにち日本の国民のほとんどはすでに農民(“米づくりの民”)ではない。農業人口も十四%ぐらいに低下している。専業農家とすると、十%を割っている状態である。だから、一流の政治家、経済人、学者たちなら、日本の経済と国民の生活の根幹に影響を及ぼすのは、米ではなく、円相場だ、とか、情報産業(たとえばリクルート)の将来性のほうだ、などと答えるかもしれない。
 しかし、日本の国民が究極のところで政治に求めているのは、そういった政策レベル、情勢論ではなかった。それどころか、天皇の病気、重体、死去へと至る過程のなかで明らかになったことは、消費税が三%であろうが五%であろうが、そんなことはどうだっていい。日本が国際化しようがしまいが、そんなこともどうだっていい。結局のところ、日本人は天皇とともに“米づくり”をする島国の民でいい、というふうな収斂、つまりアイデンティティの再確認だったようにおもわれるのだ。
 天皇の重体(吐血)が発表されると、竹下首相はひたすら私邸にとじこもり、外相は国際会議への出席を取り止めた。これは、天皇の病状を心配したというより、そのことをきっかけに日本人がアイデンティティを確認した、その延長上の行為であったにちがいない。つまり、わたしのみるところ、日本人は現在、「・・・国際化が国是のようになってきますね。ところが、日本の国民は『うん、そうだ。国際化社会に進まなければいけないのだ』といいながら、(中略)われわれは本来権力も何もない天皇と一緒にこの国で死んでいってもいいのだ、と島国の中に縮こまる。要するに、ソニーや車がなくても、あるいは多国籍産業とか海外のキャピタルなどがなくても、何にもなくてもわれわれはいいのだと」(「教祖のカリスマ性とは何か」『歴史読本ワールド』一九八九年一月)考えているわけだろう。
 ジャーナリストの一部は、竹下内閣が「天皇報道」を自由自在に操り、狡猾に立ちまわって「不気味」である、と指摘する。けれども、事態は逆で、竹下内閣は天皇制をどのように扱っていいかわからず、右往左往して旧習をひたすら守ろうとしている、といったほうが正確なのである。
 そのことは、小渕官房長官が病状の報告から平成の告知まで、ただメッセンジャー・ボーイのように、口をぱくぱく動かしていただけで数カ月を過したことにも明らかであろう。むしろ、ジャーナリズムのほうこそが、一足先に新天皇をかついで、「開かれた皇室」構想のほうへと走っていったのだ。
 皇室は国際化する社会のなかで、国民のまっさきを、すすんでファッションをみせ、家族相和し、外交を展開する、といったかたちで歩いてゆく。これが、ジャーナリズムが描き、また新天皇夫妻が理想とする皇室像であるようにおもわれる。しかし、皇室はなぜ開かれねばならないのか。
 そのように開かれて、家族の血液型や星座が調べられ、ファッションが紹介されてしまえば、あとは成績、頭のよさ、そうしてついに英主室と同じようにスキャンダルの的にされるのが、オチである。そのように開かれることを、日本人ははたして善し、と考えているのか。
 天皇制は、内閣や議会ばかりでなく、ジャーナリズムをもふくむ一切の政治を超えて存在すべきである。しかも、権力をもたない。そのためには、天皇は権力と関わった京都や東京を離れ、いわば地上を支配する権力との、潜在的な二重権力状態をつくるべきである。
 わたしは元号法案なんかなくなってもかまわない、とさえおもう。元号を法律によって規定するかぎり、これに対する反対勢力が五十%を超えた時点で、法律は廃止され、元号なんて一切なくなってしまうことになるだろう。それゆえ、法律なんかなくとも天皇は元号をみずから定めつづけ、民の心を抱こうとし、いつくしもうとするような形態のほうがよいのである。
 あえていえば、天皇は国事行為に携わらなくてさえいい。内閣や議会がどうあろうと、一切の権力をもたずに、ただひたすら国民の心を抱きしめ、いつくしむ。そのように政治を超えていわば潜在的な二重権力としてあることが、天皇制をもっとも深く国民のなかに根づかしめ、しかもそれが国民の権利を阻害したり抑圧したりする手段につかわれるのでなく、むしろ国民の権利を伸ばしその生活と安寧を守る方法となるのではないか、という気がする。
 天皇制は潜在的に二重権力であることによって、現実の政治を超える。だから、日本人が高く天皇の名を呼びはじめたときは、必ず現実の政治(内閣、議会、政党、裁判所、学校、病院・・・など)に対して絶望感や不信感がきわまったときなのである。
 もちろんだからといって、天皇制は政治的権力体制として復活すべきだ、などと考えるべきではない。政治的権力となれば、それを政治権力的に奪おうという論理がでてくるのだ。「支那(中国)に生れたら、じぶんは天子になれたとおもうよ」という北一輝の言葉は、その秘密にふれているのである。
 天皇制は政治の彼方の虹としてあるべきで、そのことによって現実に翻弄されるしかない民衆の夢を繋ぐことができる。そして、じつはそれ以外に天皇制が近代政治を超えて生き延びる制度的方法はない、とおもわれるのだ。昭和天皇の生涯は、そのことを身をもって示した、とわたしにはおもえる。
◇松本 健一(まつもと けんいち)
1946年生まれ。
東京大学経済学部卒業。
京都精華大学教授を経て、現在、麗沢大学教授。
 
 
 
 
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