日本財団 図書館


1989年1月号 世界
日本国憲法と「内なる天皇制」
奥平康弘(おくだいら やすひろ)(東京大学教授)
“天皇フィーバー”を考える
 九月二〇日以降、日本を襲った天皇「ご容体」報道の洪水およびそれに呼応して広範に国民のあいだに展開した「自粛」騒ぎ、総じて「天皇フィーバー」と称しうる状況は、そのはげしさにおいて、まず私を驚かせた。私は、天皇「ご容体」情報がそんなにも強い需要価値を持つとは、じつは思ってもみなかったし、その情報がバネになって、こんなにも全国津々浦々の人びとが同一歩調をとることになるとも、考えていなかったからである。
 この点において私は「見込み」違いをしていたのであるが、なぜ、こうした「見込み」違いを私はおかしたのだろうか。このことの解明が私自身に要請されている。
 同じ現象にかんして私の注意を惹いたのは、マスコミの大騒ぎといい、民間の「自粛」動向といい、ともに、一方では「なんとなく」ムードに支配されたものと捉えることができるものではあるにしても、所詮は、「自由意思」の所産というべき実質を具えていたという点である。強いことばでいえば、国民大衆は「自主的」に、好んで大騒ぎしたといえる気配がうかがえるのであって、これが私には深刻に響いた。
 もっとも、国民大衆の側に「自主性」を見る、私のような立場は、異論にさらされる余地がある。これは、大騒ぎを醸成したのは政府=体制なのであって、かれらは総理大臣、外務大臣をはじめとしたあれこれの政府高官の海外出張の取止め、式典その他の各種催し物の取消しという恰好で国民に範を垂れ、そういう風にして国民の行動を操作した側面を軽視する誤りをおかしている、と批判されよう。
 しかし、これら体制の側のうごきは、付随的に大衆操作の効果をねらうものであったかもしれないが、かれらとしては、この「ご容体」重体の状況のもとでは、とらざるをえない「自粛」であった、といえるようなものなのである。政府高官の「自粛」決定がデモンストレーション効果を持つものであったことを全面的に否定するつもりはないのは、今述べたとおりであるが、デモンストレーションというものには、それ自体としては「真似事」を強制する力はないのである。このさいは、にもかかわらず「真似事」に走った国民大衆の側の事情を、いっそう重要視すべきだと思う。
 ただそういってしまうだけでは、政府=体制に不当に免罪符を与えることになりかねないので、よろしくない。「例えば」という形で、一、二付言しておきたい。公権力組織(地方自治体もふくむ)は、その組織内部において一定の規律権を有し、これが各所属員(個人)の自由意思を排除する方向で、天皇フィーバーに服属せしめる力を持って迫まった(病床にある天皇に対し奉り、不敬不遜な言辞を弄したというので、議員懲罰決議をした地方議会もあるらしいが、こういったうごきも、この範疇に属する)。
 そして、そこからまた、国民大衆の底辺にまで浸透するような各種のデモンストレーションが生じた。天皇フィーバーとの関係でとくに注意を要するのは、公権力組織が管理運営する学校制度である。こんなにも組織立ち、こんなにも全国にきちんと張りめぐらされ、そして直接にひとびと=こどもたちを掌握しえている制度は、公的にも私的にも、他に例がないのではなかろうか。この制度が、天皇フィーバーに確実に役立っていることは、この間における新聞の投稿欄などなど「下からの声」に照らして明らかである。
 公権力組織の関与する例としてもう一つあげれば、公権力の管理運営に属する集会場、「公共の場所」の規制である。たまたま私の認識に属するのは、静岡市内の市民グループ「天皇制を考える市民連絡会議」が一〇月初旬「天皇の戦争責任と戦後責任は何か」をテーマに、県の施設および市の施設の使用許可申請を、ともに拒否されたという事件である(市は後に許可)。これは、公権力が天皇フィーバーを「沈静化」しようとする市民のうごきを、逆に押えることによって、少なくも効果的には、天皇フィーバーの高揚に大いに貢献した事例として顕著である(静岡のこの会場使用拒否事件は、訴訟に発展したという。裁判のゆく末に注意したい)。似たような事例が、ほかにもあるだろうと推定される。
 なお、こうした集会の場所の管理運営権という名の規制のほかに、東京都公安条例が典型であるように、集会届けを警察におこなうよう強制するメカニズムをとっている地方自治体がある。こういうメカニズムは、天皇フィーバーが高揚すればするほど、これに反対ないし批判する趣旨の集会開催に、一定のチリング・エフェクト(萎縮効果)がはたらくことも、急いで付け加えておかねばなるまい(なお、天皇あるいは天皇制にかんする表現の自由が抑制される現代的な問題状況について、例えば、奥平「福祉国家における表現の不自由――富山県立近代美術館のばあい」『法律時報』一九八八年二月号60巻2号を参照されたい)。
 にもかかわらず、私はこのたびの国民大衆のあいだにみられた天皇フィーバーを一方的に政府の誘導や操作のせいにしてしまうのには、納得できないものを感ずる。事態はもう少し国民大衆に即して観察すべきだと思う。
マスコミの動向とその評価
 これとは別に、天皇フィーバーをマスコミの集中豪雨情報の責任に帰せしめる議論も多く聞かれた。確かに、マスコミの大騒ぎ――ほとんど“はしゃぎ過ぎ”というべき性質の騒ぎ――は、まことに目をみはらせるものがあった。西部劇映画などでお馴染みの、野牛の大群がある一点に向かって一斉にすさまじい勢いで走り出す、あのスタンピードを思わせるものがあった。大殺到である。立ちどまったり、逆方向に向かうことを許さない状況が出現した。私はいま、体制としてのマスコミのことを語っているのである。戦前・戦中のマスコミは、こういうスタンピードを繰り返しながら、戦争へのみちに殺到するのにあずかって力があったのは、周知のとおりである。
 「またはじまったか」という想いであった。幸いにして、戦前・戦中と違って、今は新聞紙法の規制がない。したがって、「このスタンピードはおかしい。間違っているぞ」という立場を表明する自由はあるわけである。そしてこの自由を行使したのは、日刊新聞紙と称しうる出版物では――私の認識するかぎりでは――わずかに赤旗があるにとどまった。赤旗だけが、新聞紙法(および治安維持法)の廃止がもたらした効果=少数意見表明の自由およびそういう意見を読む自由を現実に享受した、といいたいくらいである。
 予測に反し“Xディ”の到来は遅れ、「ご容体」の危機的状況は慢性化した恰好になった。スタンピードも徐々にブレーキがかかるとともに、マスコミのなかにも、ようやくポチポチと少数意見あるいは冷静な物の見方が出はじめることになった。
 こうしてマスコミは、その自主的な判断にもとづいてではなくて、「ご容体」の意外な持ち直し――危機の慢性化――という事態に当面してはじめて、スタンピードを中断したのであった。中断した結果、国民大衆にむかって“自粛”騒ぎを“自粛”しようと呼びかけるうごきが出てきたが、しかし、マスコミ自身が闇雲にスタンピードしてしまっていたことについて、「あれは一体なんであったのだろうか」と自己を反省する声がほとんど聞こえて来ない。少なくも表に現われて来ない。(もっとも、これはあくまでも他律的な「中断」であって、やがて到来するXデイとともに、マスコミはスタンピードを再演する構えであるのだから、この段階でそう簡単に自己反省するわけにはゆかないのでもある)。
 私の目にうつるのは、以上のようなマスコミの動向であるが、そうしてみれば、国民大衆の天皇フィーバーにマスコミが及ぼした影響は、重視に値いこそすれ、軽視してはならないことになるのである。
 そうであるから、では天皇フィーバーの根源はあげてこれマスコミにあり、国民大衆はただ、受動的に踊らされただけの操り人形みたいなものだったのだろうか。私はまたここでも、そう容易に国民大衆以外の「他」に責任を嫁するのに抵抗を覚える。そういう把え方は、客観的に正しくないし、道義的(規範的)によろしくない、と思う。
 天皇フィーバーにかんしては、先ほど来から部分的に肯定してきているように、政府の誘導・操作やマスコミのはしゃぎ(はたまた右翼の有言無言の圧力)に、国民がいわば「打てば響く」形で反応した面があるに違いない。けれども、それだけではないところに私は問題をみる。「打たなくても響いた」あるいは「打った以上に響いた」面があったことを見失ってはならないのではなかろうか。少なくとも私は、「他」のせいにしてしまえないところに、ことの本質の一部があると考える。そしてさればこそ、事態は――少なくとも私にとっては――深刻なのである。よく用いられる語法でいえば、「うちなる天皇制」がしたたかな強さを持って生き残っていることを、それは示すものであった。そしてそこのところに肝心の要(かなめ)が所在しているように感ぜられるのである。
 「他」に責任を帰せしめるのは道義的(規範的)によろしくない、と先に述べたが、その意味は、こうである。これは要するに、国民大衆を独立の人格(自主的に情報を選択し、自主的に事態を判断して、自己の行動を決定する能力を具えたもの)として、あるいはそういう者たちの集合体として捉えない傾向、ことばを強めていえば一種の愚民観を、根底に秘めている。そうした物の見方が客観的に正鵠を射たものかどうかとは別に、それが規範的に正当化されうるものかどうかが問題になる。ここでは、この問題に立入る余裕がない。今はただ、この種の物の見方では、日本国憲法が謳うところの国民主権の原則と基本的人権の尊重主義、この二つの原理は、ついに貫徹することがあるまい、ということを指摘しておくにとどめる。道義的にいえば、あの天皇フィーバーは、やっぱり、それなりに立派に一人前(いちにんまえ)の男女が、それなりに自覚して演じた大騒ぎであったのである。
わが“うちなる天皇制”
 さて、私事(わたくしごと)の身辺を公にさらすのは、あるいは「うちなる天皇制」と同根の、日本的な生活感覚に適わないところがあるが、このさいは、あえてそれを記そうと思う。じつは、私の職場では、二年ほど前からの計画がみのって、今年十月はじめ、目下多少流行の気味があるが、ある研究題目に即した国際シンポジウムを開催し、ともかくも無事終了して、一定の成果を得たのであった。この催しの日程が煮つまった九月下旬、職場での定期集会では、当然のことながら、近々に迫まりつつあるシンポジウムの最終的な詰めにかんして討論がおこなわれた。実務的なプログラム進行の検討の過程で、わが同僚のひとりがこういう趣旨の発言をし、私をしてびっくり仰天させたのである。
 その者のいわく。「こういう事態ですからね。いつ、なん時、Xデイが来るかわかりませんよ。シンポジウムの日程を直撃するかもしれない。中止とか延期とかの準備をしておく必要があるんじゃないですか」というのである。この会合では、「不確定要素があり過ぎるので、そういう事態は考慮の外においておいて、そのときになったらどう収拾するか、出たとこ勝負で検討しましょうよ」といった雰囲気のなかで、ことを済ませたので、私は自ら発言して反論を提示するのを差控えた。そして会合が終了したのちに、当事者や二、三の同僚にわが胸中を披露するにとどめた。この発言は、次の三点において問題であるというのが、私のいいたいところであった。
 発言者においては、第一に、Xデイが到来したならば、国際研究集会のような性質の催しさえも取止めにしなければならないと前提しているふしがある。この前提が問題である。第二、開催の取止めということを、われわれ主催者が自発的におこなうはずがないのであって、ここはまず、だれかが――例えば、大学の総長とか、そのうえの文部大臣という線が一番考えられるのだが――取止めを指示することが想定されている。しかし、それがだれであれ、そういう指示をなすことができる(権限がある)と考えているところが、問題になる。そして第三に、そのことと関連するが、だれかの指示がある場合には、われわれはそれに従って二年越しにあたためてきた国際的規模の研究集会の開催を断念するほかないという構えになっているが、われわれの側のこのような遵守義務はどんな根拠によって出てくるのか。これが疑問である。
 私事周辺の瑣事に、もうこれ以上の紙幅を割くつもりはない。ここでは、今述べた、多少思いつき的な三つほどの問題点・疑問点がいずれも、国際集会断念(予測)論者には全然意識の外にあるらしいということ、そういうふうにして、Xデイを体制の期待するとおり受けとる心の準備が論者においてはちゃんとできていること、すなわち、パターンに従った天皇制の「受け皿」がこの者のなかにしかとビルト・インされていることを、確認してだけおこう。ここでもまた、「うちなる天皇制」が自然的に発露しているのであるが、その論者が私の最も尊敬する経済学者のひとりであり、かれはまた他の点では鋭い文明批判の具現者でもあるのだから、私のショックは並みのものではなかったのである。
日本国憲法「第一章 天皇」の外観
 九月一九日の急変をきっかけに展開するスタンピード、十月はじめに徐々にかけられたブレーキ、それ以降の危機の慢性化、といった事態の推移を目のあたりにして、十月中旬、私は日本を離れ、現在は西ベルリンに来ている。ここからは、日本、とりわけ天皇問題は少しばかり違ってみえる。その経験は私にはとても貴重なもののように思う。
 この冬学期、「日本の憲法、政治および社会」といった広いテーマに拠り、小さなクラスで英語による講義をおこなうのが、当面の私の職務のひとつである。講義をはじめて間もなくのある日、私は日本国憲法の特徴を明らかにする意図から、この憲法典(テクスト)のコピーと明治憲法のテクストのコピーとを学生諸君に配付した。多少の話をしたところで、ひとりの学生の質問が入った(質問により講義を中断する自由を、私は予め強調しておいてある)。かれがいうには、「見たところ、ふたつの憲法にはそんなに違いはないじゃないか。どうしたことか。」学生は、こんなふうに第一印象を語ったのだが、これはもちろん皮相な観察でしかなく、もっと注意深くその中味に立ち入れば、“新”憲法と“旧”憲法とのあいだには、大いなる違いがある。そして、憲法学の観点(あるひとつの観点)からすれば、そこに「主権の変更」というほとんど革命的な違いがあるのである。
 それでは一体、この学生の第一印象を軽く一蹴すれば、それで済むのだろうか。そうはゆかないところに、ことの本質がある。日本国憲法は、そういう印象、つまり「両者あまり違わないではないか」と思わしめる構成を腐心してわざと取っている面がある。天皇主権から国民主権へという「主権の変更」が新憲法の最も重要な契機であったにもかかわらず、このことが憲法の字面(じづら)ではとても見えにくい構造に、意図してしてあるのである。
 本来なら(憲法学的にいえば)、主権者たる国民の地位、その基本的な権利、民主政治の基本原則といったようなものが、まず最初に、つまり第一章に出てくるのでなければならない。ところが現実の日本国憲法は、明治憲法とそっくりそのままの形態、すなわち「第一章 天皇」からはじまる構成を取っている。こうして冒頭第一条から第八条まであげてこれ天皇のことを定めているところは、明治憲法が冒頭一七ヵ条を占めているのに比べれば見劣りするものの、その衣鉢を引継いでいるのは疑いない。
 あらためて注意を促していえば、表玄関のうちで最も重要な位置を占める第一条は、ふたつの、それ自体全然性質を異にする命題が奇妙に合体して無理やり一ヵ条に収められているという、たいへん手の込んだ構成になっている。ここにそれをあえて再現すれば、第一句に「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって」と定められていて、天皇の象徴的地位が語られ、つづく第二句では「この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」とあって、ここではさり気ない形をとってではあるが、国民に主権が存すること、すなわち「主権の変更」が潜った形で定められている。
 「国民主権」の原則についていえば、前文もふくめ憲法の他の部分を見回わしても、このさり気なく潜った形で謳われている第一条の第二句以外には、この原則につき明示的に言及している箇所はないのである。なお、われわれが現在手にしているテクストでは、「主権の存する日本国民の総意」とあるが、立案過程では日本政府は「主権の存する日本国民」という表現方法を嫌い、あれやこれやの逃げを試みたのであった。しかしその意図が占領軍当局(SCAP)に見破られ、結局現に今ある表現方法に落ちつかざるを得なかったという経緯がある(中村政則ほか訳「ビッソン日本占領回想記」三省堂・一九八三参照)。
 両憲法の連続性・同似性の外観を取り繕うためには、ほかにいろんな苦心がなされた。例えば、第二条「皇位は、世襲のものであって、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。」や第五条「皇室典範の定めるところにより摂政を置くときは、・・・」に出てくる「皇室典範」である。この、Xデイ接近にともないしばしば人口にのぼるようになった法律名は、これら憲法条文に由来するのであるが、明治憲法時代には同じ「皇室典範」という名の規範は、議会制定法(法律)を超越した、特別「憲法」であったのである。むかしの皇室典範は、天皇および皇室にかんする基本法ではあるが、帝国議会はこれには一指だに触れ得なかった。天皇が、天皇だけが、自らのことを定めうるのでなければならない。この皇室典範にもとづいて、登極令、皇室喪儀令その他の枝葉が出されたが、それらのどれもが、議会の関与しない「皇室令」(皇室自主法)として発せられ、日本国内法体系のうちで特殊な場所を占めていた(皇室にかんし議会が関与しうる、ほとんど唯一のことは皇室経費という財政事項であったが、これさえも、明治憲法六六条は議会の介入余地を最小限度のものに押しとどめている)。
 これを要するに旧皇室典範は、戦前の天皇制そのものを象徴する決定的に重要な国家基本法であったのである。いうまでもなく、新憲法は、こうした特殊規範も、これにもとづいて出来上がる特別な皇室法体系も、一切合財廃絶し、その再現を許さない。それが新憲法の命ずる実体である。しかし、そうであるのに、いやたぶん、そうであるからこそ、新憲法立案者らは、せめて「皇室典範」の名称をそのまま踏襲したのであった。踏襲することによってあたかもなお特別な皇室法体系があるがごとき外観を取りたかったのである。
 かくしてわれわれは今、「皇室典範」という名の法律を持っているのであるが、手元に六法全書の類をお持ちのかたは、現行法律の名称例をとくとごらんいただきたい。今の法律は一般には、「なになに法」、「なになにに関する法律」と名付けられているが、そのなかにあって「皇室典範」は、まことに異彩を放った存在なのである。こうした恰好でまさしくわれわれは、旧天皇制に一本取られてしまっている(憲法四一条は、他方で「国会は・・・国の唯一の立法機関である。」と定めており、したがって、これだけ取れば、皇位継承や摂政にかんする法律にどんな名を冠するかは、国会の自由に属する道理である。前引憲法第二条と第五条は、「そうはさせじ」と旧天皇制時代の冠をはめ込んだのである)。
 ちなみに、現憲法における「皇室典範」の語は、英文では“the Imperial House Law”と訳されているが、これは旧「皇室典範」の公式訳語そのものにほかならない。こうした「そっくりさん」は、両憲法における「天皇」が、“Emperor”という同じ語でつながっているところにもみられる。こうした次第をもって、われわれは、今や世界唯一、ただひとりの“エンペラー”を持ちつづけるという、なんともはや異色の国民たりえているわけである。
 以上のごとくであるとすれば、先のドイツの学生の「ふたつの憲法にはそんなに違いはないじゃないか」という第一印象は、それなりに正鵠を射ているということになるのである。
そうした外観が持つ意味――「国体」考
 そこで問題は、なぜ一体、こうした印象を抱かせるべく、旧・新両憲法の連続性・同似性を取り繕う努力が払われたのかという点に生ずる。私は、先ほどの学生の質問に対して「それは、歴史的にのみ説明できる」と答えたうえで、支配体制は「国体護持」こそ敗戦時の最重要課題であると考え、国民の圧倒的多くもそう思い込んでいた事実を指摘し、さらにそのことを説明するために、明治憲法における天皇制の特徴を摘示するという具合に、期せずして、日本近代史に踏み込んでいくことになったのであった。
 本稿ではもちろん、読者諸賢先刻ご承知の、この種の近代政治史に深入りするつもりは毛頭ない。しかしながら、敗戦時切り札として持ち出され、一定の有効なはたらきをした「国体護持」のスローガンが、敗戦翌年には、天皇主権から国民主権への原理的変更を要請する新憲法の本質を、非常にぼやけたものにするのに役立ったということを、まず第一にあげておきたい。もう一つ述べたいのは、支配体制は主権の所在変更をふくむ新憲法に直面しながらもなお、「国体は変更せず、国体は護持された」と言い張ることによって、じつは「国体」概念のすり替えに成功したという点である。
 「国体」といえば、「国民体育大会」しか意味しない今の世のなか。今さら「国体」概念でもあるまい、と嗤われそうだが、「国体」という語はどうでもいい、ことは天皇制のありかたにかかわる。もともと「国体」は、国振り(くにぶり)・国柄(くにがら)を意味したであろう。ある国の基本的な特徴といった意味である。なにをもって日本国の「基本的な特徴」と考えるかは、千差万別でありうるが、この語の用いられる脈絡では、大筋ではふたつあったと理解しておいていいだろう。
 ひとつは、文化現象としての天皇崇拝を指す。すなわち古来からとだえることなくつづいた(万世一系の)天皇を、あこがれ・尊敬の中心に置き、そうすることによって国としてのまとまりがついていると考えられている状況、このなかに「国体」を見る。伝統的、歴史的、情緒的な感覚で構成されたこの概念には、他に比類のない独特な国振りについての国民的プライドが秘められており、容易に夜郎自大に転化する要素が入り交っている。一八八九年教育勅語でいわゆる「国体ノ精華」というのがこれに当たる。憲法学者・美濃部達吉は、このように把えられる「国体」を認識したうえで、しかし、そのいうならば特異なイデオロギー性のゆえに、法律学的概念として採用することを拒否したのであった。
 もう一つ別の「国体」概念を、しかも法律学的な意味合いで定立したのが、美濃部(民権派)の対極にある穂積八束(神権派)であった。穂積はこれを「主権の所在」による国家の識別法と考えた。大日本帝国の場合は「万世一系の天皇」が主権として統治権を総攬するという点、天皇に主権が所在する点にこそ「国体」がある、と把えた。たんに「主権の所在」というに過ぎないのであれば、客観的な制度、すなわちザッハリヒな権力形態にかかわるのであるが、日本のこととなると、主権の所在者たる天皇にまつわる歴史的、伝統的、情緒的「民族的確信」が入りまじる運命にある。穂積は正面では「主権の所在」という観点のもとに「国体」を法律学的概念として設定しておきながら、裏からこっそりと、そしてたっぷりと倫理的、情緒的な天皇観を浸透させ、法律学的な概念たる性格を極度に不明確・不透明なものに仕立て上げたのであった。
 穂積の法律学的な「国体」は一九二五年治安維持法のなかに取り入れられ、一九三〇年代に入って大審院はこれを「主権の所在」を意味するものとして承認した。しかし、それとともに歴史的、伝統的、情緒的な天皇観、いやそればかりではなく「東洋的な不可解さ」(oriental inscrutability)(Minear, JAPANESE TRADITION AND WESTERN LAW, 67)にまで拡大する法概念として、効果を発揮した。
 敗戦、そして日本国憲法の採用とともに、「国体」はいちじるしい動揺を余儀なくされたが、支配体制は「国体護持」「国体不変」の線を固持してゆずらなかった。けれども、「主権の所在」は――どんなに外観を取り繕っても実体的には――変更したのだから、その意味では「国体」は「護持」されることなく、崩れ去ったというほかない。支配層は、ひそかに法概念としての「国体」から、倫理的、伝統的、情緒的な「あこがれの中心としての天皇」を意味する「国体」、文化現象としての天皇制に戦線を移して、そこで「国体護持」「国体不変」の建前を保持すべく頑張った。
憲法研究者がやってきたこと――その限界
 こうして、文化現象としての天皇制=「国体」論に支えられて、日本国憲法のなかに、法律的制度としての天皇制が生き残りえたのである。しかし生き残った天皇制は、もはやかつての法律学的概念たる「国体」とはいかなる意味でもつながりを持たないはずのものであった。日本国憲法の天皇制は、新憲法という新しい規範が創造した、全く新しい制度であるはずであった。
 戦前の天皇制は、ふたつの「国体」概念の相互浸透・相互作用により、権力にかんするハード・ウェア構成部分とその観念にかんするソフト・ウェア構成部分とが混交し、そのうえに成り立つ「東洋的な不可解さ」をともなう融通無碍のものであった。そのことをもって特徴とした。ところが、新憲法のもとでは、そのハード・ウェア構成部分においては、まず最初に国民主権の原則にもとづく民主主義的な政治機構があり、それに適合的な形で、それと矛盾低触しない範囲内で、天皇制度が設定されている。それは局限的な法制度でしかない。
 こうした憲法上の制度としての天皇制とは別に、戦前からの伝統的、情緒的、倫理的な文化現象としての、あるいはソフト・ウェア構成部分としての天皇制イメージがなお強く残っているかもしれない。しかしそれは、法律とか権力とかが支配する領域外にある文化の世界に残っているにとどまる、と考えられる。憲法の一制度としての天皇制は、権力的には去勢されたものでしかないから、文化現象としての天皇イメージがどんなに大きくふくらんでも所詮、それは――憲法が有効でありつづけるかぎりは――天皇の政治権力化を引起すことにはならないだろう、と観測されたのである(希望的観測であったか?)。
 あらましこういった観測のもとに、憲法学者はひたすら、天皇の地位や役割を「人類普遍の原理」、世界に「普遍的な政治道徳の法則」(憲法前文)としての民主主義の基準に照らして最少限度のものにとどめる解釈論を提示するよう努めてきたのであった。例えば、憲法上天皇はいかなる行為をなすべきか(なすことができるか)、天皇は元首なりや、日本国は君主国か共和国か、といった争点が登場するたびに、今述べたような観点から、説得力を持ちうる解釈論を構成し、これを国民に提供することに意を用いてきたのであった。
 そして実際のところ、憲法制度として存立しうるかぎりの最少限の地位と役割にかぎる解釈論は、たんに学界において通説的な立場を占めているといいうるのみではなく、実際政治のうえでも一定の通用力・支配力を有してきてもいるのである。こうして例えば、最近話題になったように、イギリスの某大衆紙が天皇の戦争責任を糾弾するなど天皇を批判する記事を載せたことに抗議したロンドン駐在日本大使の「元首」発言は、日本においてさえも評判が悪かったし、かつてイランを独裁的に支配していたパーレビ国王に向かって、「あなたの国はアジアの西にある君主国、私の国、日本はアジアの東にある君主国」とお世辞を述べた中曽根通産相も失笑と軽蔑を買わねばならなかったのである。
 けれども、いかんせん憲法研究者のなしうることには一定の限度がある。例えば、天皇のなしうる行為について憲法はどんな限界を設けているかといった種類の問題。憲法は、第六条と七条とによって、天皇のおこなう国事行為を明示的に定めているが、これ以外にどんな行為をなしうるかを、憲法は語るところがないのである。勢い、解釈の問題となる。
 このうち、自然人としての、あるいは私人としての天皇がなしうる行為は算え切れぬほどたくさんあるが、これは憲法のあずかり知らぬところであって、論外としうる。いわゆる地方行幸、諸行事への出席、かずかずの皇室外交など、簡単には私的行為といい切れない灰色の部分が争点となる。そして、あとでもう一度取上げるが、こうした灰色的な天皇行為がこのところやたらと増えている。つまり増殖過程にあるのである。これらのうち、ある種の行為は憲法上認めがたいと解釈したり、総体として増殖過程にあるのを違憲であると評価したりしても、これらはほとんどすべてが事実上の行為であるから、実行する者の側はなんであれ実行しうるわけである。そして、さらに困ったことには、事前であれ事後であれ、そうした行為を訴訟その他の制度のうえで争うことはほとんど不可能なのである。せいぜい政治的な場での政治的な性質の批判の対象になりうるだけである。
 今、私は、自分がそのひとりであるところの憲法研究者が持つ有効射程範囲の限界ということを語りつつあるのであるが、このことは、もう少し深い意味を持っているように思われる。次にそのことを考えてみたい。
憲法制度としての天皇と「うちなる天皇制」
 日本国憲法において天皇制が存置されるについて最も力があったのは、前述したように、体制の側はもちろんのこと国民一般のあいだにも根強く残っていた「国体護持」「国体不変」の信念であり願望であった。これあるがために、憲法において天皇制は生き残りえたのである。しかもその「国体」論たるや、「主権の所在」をめぐる法的・権力的な脈絡のそれではなくて、伝統的、情緒的、多かれ少なかれ倫理的な「あこがれの中心としての天皇」といった文化現象としてのそれであった。後者を「うちなる天皇制」と呼ぶとすれば、まさにこの「うちなる天皇制」こそが、憲法制度としての天皇を――権力上は完全に去勢したうえでのことではあるが――残しえた原動力であったのである(この場合、SCAPの承認という事実を軽視するつもりはない。しかしながら、「うちなる天皇制」に着目したればこそ、SCAPは天皇制存置にあえて賭けたのだというべきであろう)。
 このように憲法上の天皇制の生みの親は、文化現象としての「うちなる天皇制」にほかならないのだが、この関係にはちゃんと裏があるのに気がつく。いうならば、その逆もまた真なり、である。どういうことか。もし、現行憲法において天皇の規定なかりせば、すなわち憲法が天皇を存置しなかったとすれば、そもそも天皇制度というものは廃絶し、天皇という存在そのものは消滅してしまうことになったのだから、文化現象としての天皇制、「うちなる天皇制」もまた、その存立の基盤を失い、消滅する運命にあったに違いないのである。「うちなる天皇制」がそれ自体としてどんなに強かろうと、また、それが古代、中世、近世にかけてどんなに独特にひとの心を押えていたにしても、今の世のなか、憲法制度上の基盤がないままでは、脈々と生きながらえることができないのである。
 そう考えると、どんなにささやかなものであれ、どんなにつつましいものであれ、ほかならぬ憲法のなかの天皇の諸規定こそが、「うちなる天皇制」にとっての必要不可欠な支柱、栄養源にほかならないということになるのである。
 憲法上の天皇制と「うちなる天皇制」は持ちつ持たれつの関係のなかで、廃絶をまぬかれ、生き延びることになった。
 生き延びて現在、では一体両者の関係はいかにあるか。それが次の問題になる。
 まず事態を、私のような憲法研究者の任務負担の問題として眺めれば、先にも述べたことであるが、憲法研究者の多くは、もっぱら憲法上の天皇制の限定解釈に努力を傾注し、それと「うちなる天皇制」との関係は考慮の外におく傾向にあった、といえる。「うちなる天皇制」に由来する、ある種の突出部分が憲法領域にくい込んでくることが稀れではないが、こういう場合でも、憲法研究者は憲法上の限定解釈で防戦するのが、通常の仕方である。
天皇のパフォーマンス
 ところが実際問題としては、ひとたび憲法が――よしきわめて限定した形のものであれ――天皇を制度として認めてしまったならば、そして、かく認めるについて文化現象としての「うちなる天皇制」が原動力的役割を果たしたといういきさつがある以上は、「うちなる天皇制」から派生するあれやこれやの期待・願望が、憲法制度としての天皇に向かってくるのは、これはもう当然であり、ほとんど必然である。
 かくして、憲法によって、いうならば辛うじて命脈を保ちえた「象徴天皇」が、たんに憲法の定める国事行為をのみならず、さまざまな会議やイベントにお出ましになるよう要請され、天皇のほうも、もともとがより多く「文化現象としての天皇」イメージにささえられているのを心得ており、かつそれに合わせるのが得策であるのだから、御心のまにまに臣草の要望に応えることになるのである。こうして、とうてい「国事行為」の範疇を以てしては説明できないさまざまな種類のパフォーマンス(それらを準国事行為、象徴行為、公的行為などと呼び、または分類して、ひとびとはそれらを理屈づけるのに懸命にならざるをえないのだが)が展開してやまない。ひとは現代を「パフォーマンス」として特色づける傾向があるが、まさに「象徴天皇」は現代にふさわしく、ハード・ウェア部分を受けもつ憲法が予想しているところを大はばに超えて、より多量多種のパフォーマンスを演じてきている。
 天皇の場合には、その演ずる国事行為ならざる行為を準国事行為、象徴行為、公的行為などと呼んで、一定の整理がおこなわれるが、同じ、あるいは似たパフォーマンスが天皇以外の、皇太子、皇太孫その他皇族によっておこなわれる場合には――それらが慣行化し、空気みたいなものなったということも手伝って――より少くしか問題視されない。
 「うちなる天皇制」はもちろん天皇のお出ましをいただきたいが、それが叶わないとあれば、天皇候補者(皇位継承の順位リストのなかにある者)であっても悪くない。こうして、ここでは、憲法によって辛うじて命脈を保っている「象徴天皇」との関係で、したがってまた同じように憲法によってその存在が間接的に認められているところの皇族が、あちらこちらに登場することになるのである。
 ここへ来て最近、天皇にいろんな役割をお願いしたのは申し訳ないことだった、とする自己反省みたいなことが聞かれるが、パフォーマンスが増殖過程にあるのは天皇にかぎったことだけではないのである。より裾野を広げた形で、皇族の世界にも同じ過程が進行中である(例えば、私のせまい経験のひとつふたつを記してみる。ひとつは一九八七年来日のベルリン・オペラ、R・ヴァーグナー『ニュベルンゲンの指環』初日第一夜のことである。皇太子・妃臨席をひとびとは起立して迎えた。初日ということもあってか、開幕まえ「君が代」が演奏された。周辺を見回わしたところが、私をふくめほんの二、三のひとだけが未起立。少数者感をいやというほど感じさせる一刻であった。もうひとつ、四、五年まえのことになるが、とある午後に仕事をしながらNHK・FM放送で、たしかJ・S・バッハ「ヨハネ受難曲」を聴いていた。曲が終ると、アナウンサーは「ただ今の演奏には、ビオラの部分に浩宮様がご参加していらっしゃいました」というような「解説」をつけ加えた。「ナンダ、コレハ」という想い、しきりであったが、私はここでも少数者であるに違いない。こうして「うちなる天皇制」はバッハの演奏にまで食い込んでくるのである)。
元号法制定の持つ意味
 天皇・皇族のパフォーマンスは、法的根拠のない、事実上の、一過性の行為である。これに対し、ひとしく「うちなる天皇制」から発露し、しかも憲法上の「象徴天皇」との適合性をいちじるしく欠くのに、堂々と法制度化に成功したのが、一九七九年制定された元号法による一世一元の元号制である。
 この法律は、新憲法施行に合わせて必要的に立法化された新皇室典範ならびに皇室経済法や、憲法がその制定を制度必然的に予定した国事行為の臨時代行に関する法律など皇室関係法とは、いろんな意味で性格を異にする。それは、第一に、元号制という天皇に関係する新制度と創設した法律である(“戦後”「昭和」は事実上の慣行にすぎなかった)。それは、第二に、庶民の日常生活における時間単位を直接に支配するねらいのあった法律である。これだけの理由を以てしても、私は、この法律をハード・ウェア構成部分としての天皇制にとってエポック・メイキングな立法だったといっていいと思う。
 元号法成立過程にあっては、いろんな説明がなされたが、憲法適合性についての説明は、要するところ、「『天皇は日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴』であるのだから、『国家象徴』の在任期間に合わせて暦を作りかえることこそ、ふさわしいのだ」というに尽きる。「象徴」という憲法用語のなかにソフト・ウェアとしての「うちなる天皇制」がそっくりそのまま入り込んで、それにとって都合いい解釈に仕立て上げている。けれども、憲法用語としての「象徴」は、「統治にはかかわらない存在」という消極的性格を婉曲に表現したものというのが、宮沢俊義教授の主張以来確立した学説の立場である。そうではないとすると、「国家の象徴」であるという、内容不明の文言を打出の小槌みたいに振り回すことによって、支配体制が天皇にかこつけてしたいと思うことがなんでもできることになる。
 これは、戦前の「文化現象」としての「国体」が治安維持法などを媒介として法的意味の「国体」と混交することによって、濫用をはたらいたやりかたと、かなり近いところにある。行きつく先は、憲法的秩序の混乱もしくは崩壊を意味するのであるから、憲法自身はこうした自殺的なやりかたを容認するはずがないのである。けれども、元号法制定者らは、「象徴」概念をそういうふうに使って、憲法に適合すると言い繕った。その点だけとっても、元号法は画期的であったといえる。
 そればかりではない。天皇は「国家象徴」だから、一世一代の元号制があるのが当然という議論についていえば、日本よりももっとはっきりと「君主」としての性格を具え、したがってより強められた意味で「国家象徴」をいただくところの、外国では、一世一代の元号制を持っているかというとご案内のごとく、これは日本独特なものなのである。一世一元制は、憲法の「象徴」からはうまく説明できないゆえんである(先述のように、私たちの職場では――幸いにしてXデイが到来しなかったので、計画どおり――十月初旬国際研究集会を開催した。雑談の機会に、折からの“天皇フィーバー”が話題になった。あるヨーロッパの社会学者は「天皇は政治権力からはなれた純粋に社会的な存在のようだから、大衆が多少騒いでもどうということはないのではないか」、といった趣旨のやや肯定に近い受けとめかたをした。そのかれに私は、「では一体、一世一代の日本式カレンダーをどう思うか」と聞いてみた。かれの反応は、「ああ、あれは駄目だ。あれはやり過ぎだよ」というのであった。確かに、やり過ぎなのである。一九七九年、私たちはそのやり過ぎ立法を易々と成立するのを黙認したし、今「昭和」をせっせと使っているし、やがて来る新しい元号をも喜んで受容することになるらしいのである)。
Xデイによる新しい局面
 以上要するに、憲法が用心深く局限した法制度として天皇制を存置したが、この憲法制度に手掛りを求めて「うちなる天皇制」が取り付き、この法制度をどんどんふくらませかねない様相を呈している、ということである。そして、この点できわめて重要な意味をもつのは、Xデイ到来にともない展開するであろう各種パフォーマンスである。
 明治憲法下では、皇位継承や葬儀その他のパフォーマンスは、旧皇室典範にもとづいて皇室が勝手に制定した登極令、皇室喪儀令その他の皇室令に詳細に麗々しく定められていた。しかしこれらは戦後すべて失効して跡形も残っていない。現行法体系には、ほとんどこれに触れたものがない(内閣法制局は、例によって例のごとく、法の欠除を解釈で補うべくいろんな入れ知恵を試みているが、苦戦を強いられている)。そこでどうなるかというと、旧皇室典範以下の関係皇室令が定めていたやりかたを適宜準用するということになるらしい。
 つまり、むかし天皇が主権者であった時代、そして神道にのっとることが当然視された時代にそれと適合的なものとして考案されたパフォーマンスが、もはや主権者ではなくなった天皇のために、そして政教分離の原則が掲げられている憲法にもかかわらず、演ぜられるという。旧皇室典範体系は、たんに「うちなる天皇制」といった種類のものではなかった。ハード・ウェア構成部分に位するものであったのである。その旧皇室典範体系が、Xデイ到来とともに甦がえるというのだから、事態は深刻である。
 国会の不作為(なぜ、この点の立法に怠慢であったのかは、いろいろな説明が可能だが)による法の欠除をいいことに、旧天皇制度の一部、重要な一部が、復活するという、この「なしくずし」がまた、まことに日本的ではあるまいか。
 繰返えしになるが、日本国憲法が「ほんの少し」の天皇制度として存置したもののなかに、「内なる天皇制」というか「文化現象としての天皇制」というか、伝統的、情緒的な天皇観念がはたらきかけることによって、「ほんの少し」のものとはいえないような成長を遂げる可能性が出てきた。そういう勢いにはずみをつけるものとして、Xデイ後の一連のパフォーマンスが展開するかどうか、注意深く観察したい。
 憲法にして、「第一章 天皇」の諸規定なかりせば、という思いを消すことはできない。しかし、一九四五、六年、このかつてない民主主義高揚期においてさえ、われわれはそうする力を持たなかったのだから、詮のないことである。われわれは、「うちなる天皇制」と妥協しながら、憲法のなかに「ほんの少し」の天皇制を残さざるをえなかった。われわれのなすべきことは、せめて憲法制度としての天皇においては「ほんの少し」のままで止めおくこと、その意味で初心を貫ぬくことであると思う。
 憲法研究者としての私がひそかに恐れているのは、ちょうど恰も、自衛隊の存在の既成事実を重んじて、憲法九条解釈の変更をおこなう学説が現われたと同じように、「うちなる天皇制」の浸透により生ずる天皇の事実上の強化現象に着目して、天皇関係の憲法規定の解釈変更をあえてする学説が到来することである。
外国からはどう見えるか
 先にもいったように、この稿を私は西ベルリンで書いているのであるが、一ト月まえここへ来て以来、ドイツ人、とくに日本通のドイツ人による“天皇フィーバー”批判をしばしば開く機会を持つ。かれらはほとんど異口同音にといっていいほど、次のようにいう。「われわれはこどものときから、少しやり過ぎではないかと思うほど、過去のドイツがおかした誤りを教えられてきたし、今以て過去を贖罪することに務めてきている。その私たちからみれば、日本人が過去を忘れ、過去にこだわるのをやめて、天皇に執着し天皇を憧憬しつづけているのには、どうしても批判的にならざるをえない」と。
 過去の贖罪という点でいえば、戦後ドイツ政治史をひもといてその点での対外処理政策がどんなに徹底して、どんなに忍耐強く展開したかという、体制側のうごきひとつとってみてもわかる。この方面での教育政策が相当にきついものであるということも、容易に想像できるのである(そうだから、かれらは、日本の教科書検定制にことさらに強く反感を抱く)。
 ドイツにとっては、一九八八年は、日本のマスメディアでも多少報ぜられたようであるが、一九三八年十一月九日ドイツ各地で繰り広げられた“ポグラム”(ユダヤ人への組織的なあるいは衝動的な虐殺または排斥運動)のあった夜、“クリスタル・ナハト”の五十周年目に当たる。西ベルリンでは、各種の展示会、講演会が十月末から開かれはじめ、当夜へと盛り上げていった。八日および九日の夜は、どのTVチャンネルでも“クリスタル・ナハト”を反省する番組が見られた。あるチャンネルではG・ベルティーニの指揮で、マーラーの第十交響曲アダジオ、シェーンベルク「ワルシャワからの生き残り」などが演奏されるのを偶然観たが、今名をあげた三人はすべて、周知のようにユダヤ系である。偶然ではあるまい。だれでもが深い想い、強い反省を以て聴いたに違いない。
 こういう機会を把え、政治的立場を超えて全国民が過去の誤りを認識し、自己反省しているドイツ人のやりかたに接したのである(もちろん、この種のことがらはすべて綺麗事だけがあるわけではない。無思慮な青年たちのあいだに反ユダヤ的な行動・言説がみられるようになったという事実がある。それだけに“クリスタル・ナハト”記念事業は、「遅れて来た者たち」も責任を負わなければならないという方向に、ある種の力を注いでいるようにうかがえる)。
 こういう戦後文化に育ったドイツの人びとからみれば、“天皇フィーバー”にうつつを抜かし、過去を清算するどころか過去をいつくしんでいる日本人の思考・行動に反感を覚えざるをえないのはよくわかるのである。日本のことなどはちっとも知らず、私とによって日本人とはじめて話す機会を持った、ある主婦が、いろんなことをしゃべった合い間に、「やっぱり私には、日本という国は不可解だわ」とぽっつりといったのが、私にはとても印象深かった。確かに外国からみれば“天皇フィーバー”に集中的に表現された日本人の行動様式は、不可解というほかない、日本独特のものなのであるが、日本人にとっては不思議でもなんでもない、ごく自然な「うちなる天皇制」の発露するところであって、外国人が不思議がるほうが不思議なのである。
戦争責任を問う問い方を考える
 ともあれ、ドイツ人からみれば、Xデイによってひとつの過去が終ろうとするこの時点においてこそ、天皇とは何であるのか、とくに天皇は本当に過去の誤りに責任を負わずに済むのか、もしそうならなぜなのかと、日本人がつきつめて考え、これを公に議論すべきではないか、ということになるのである。
 そこで私は私なりに、天皇は果たして戦前昭和史のなかで「戦争責任」と一口で呼んできているものを、本来はどんなふうに引受けるべきなのかを、今後考えつづけてゆきたい。これを考えることは、おのずから私の「うちなる天皇制」を考えることにならざるをえないのであって、私はどんな責任を分担しなければならないのか、それを償うために私はなにをすべきなのかという、ちょっとしんどい作業になる。自分のうちなるものとなると、一生かかっても解答がえられそうにないが、立ち向うほかあるまい。
 初発の、天皇の「戦争責任」について少し触れれば、「戦争責任」という概念をやたら振りまいても、けっして有効な解答は得られないことを、さし当たりまず確認しておきたい。「戦争責任」論については、丸山真男からはじまり家永三郎など多くの人びとが、その概念を整理して用いるようにと示唆してきている。いかなるレベル(範疇)の責任か、だれに対する責任かどういう形で責任をとるのかが、少なくもまず区別されねばならない。
 天皇の「戦争責任」論についていえば、従来とりわけ天皇に責任はないとする公認の説がもっぱら刑事・民事の責任になぞらえた法制度的なレベルで議論を終始したこともあって、まずここに拠って、若干述べておきたい。
 天皇無責任論は、東京裁判という法制度のなかで、天皇が起訴されずに済んだという事実を根拠とする。連合国のなかのある政治的思惑がからんで、そういうことになったのは周知の事実であって、これは否定できない。けれども、連合国に対する責任が一定のある法制度のなかで問われずに終ったということは、ありうる他の法制度のもとで、他の人びとに対する責任もすべてなかったことを帰結するわけではない。
 ただ現実には、東京裁判以外には天皇の責任を問う法制度をわれわれは設けることをしなかったから、そのことを問うチャンスをわれわれ自身が放棄したということになる。もしわれわれが、ドイツの人たちがそうしたように、外国人による裁判とは別に、自分たちの裁判を持ち、そこで、われわれ国民や連合国によってはその利益が反映すべくもなかった諸国、とくに旧植民地やアジアの国の人びとに対する責任追及をおこなうチャンスがあったならば、その力があったならば、不起訴はおろか無罪放免というわけにはゆかなかったかもしれないのである。こういった形で天皇の責任を問わずに済ませたのは、われわれ国民の責任に属する(ここでわれわれの負うべき責任は、道義レベルのそれである)。
 もしかりに東京裁判においてであれ、われわれ自身の設けた裁判においてであれ、天皇の問責が法制度的にありえたと仮定すれば、天皇の側は自分は憲法にしたがって行動したまでである、とあとで再三主張するようになる無罪論を、この裁判でも述べることになったであろう。けれども、あとでの主張は、天皇個人およびこれをサポートする人びとの、証拠にもとづかない一方的な言い放しでしかないのであるが、法制度上の裁判となるとそうはゆかなかったであろう。いまでもなお、けっして公開されることのない天皇関係の会議記録、メモその他明確な文書による証拠の提出がかならずや要求されたに違いないのである。
 そうはいっても、そんな裁判はなかったではないか、といわれれば、二の句がつげないのだが、責任というものは、法制度上のことばかりを意味しないことに留意したい。そこで今度は、政治責任のレベルに移る。
政治責任の取り方、取らせ方
 法律制度的な責任の場合には、責任の有無を追及する実体法(要件あるいは基準)と責任ある者に課する制裁を定めた実体法(効果)とがあって、これを特定の者に適用するかどうか判断する手続法(裁判)とが準備されている。そうしたレベルの責任体系なので、これは、最も厳格なもの、最も正式なものといえる。それだけに、戦争責任といった特別な種類の責任問題に対して、うまく法律制度的に備えることはたいへんむずかしい。したがって、そのための特別な裁判が設けられても、その有効射程範囲は予め局限されざるをえない。これに反して政治責任体系のほうは、法律制度上のそれがもつさまざまな制約から逃れ、比較的に自由に展開できる。例えば、刑事法には時効の定めがあり、それによれば、一定の時間経過とともに責任体系を発動させない仕組みになっているのは周知のとおりだが、政治家の汚職事件などでは時効により刑事裁判で責任追及できなくなっても、その者の――国民に対する――政治責任を問うことはできるし、また、できるようになっていなければならないのである。
 さて、天皇の戦争責任の論じかたについていえば、法律制度上の責任体系への発動がどこからもなかったから、およそ責任がなかったことになるのではなく、そうであればこそ逆に、いっそう、政治責任はその他の責任を究明する余地がないかどうかが検討されるべきであったのである。ちなみに、法律上のそれと違って政治責任には時効というものはない。その者がなお独特な政治的地位を占めており、したがって政治的な制裁をその者に課することができるのであればいつでも、その者の政治責任を問うことはできるのである。天皇の、戦争にかんする――国民に対して有する――政治責任は、今なお問いうるものとして残っているといえる。
 政治責任の範疇に属するものとしてまず念頭に浮ぶのは、先に別の側面から指摘したことがらであるが、戦前・戦中の天皇関係文書の公開である。先にはこの問題を、天皇は明治憲法の条規にしたがって行動しただけだという抗弁との関係で引き合いに出したが、政治責任のレベルでは、天皇の無答責を定めた明治憲法そのもののもつ問題性も評価対象となりうるし、かりに天皇のある判断・決定が明治憲法に違反したものではなかったとしても、それが政治的に正当であったか適切であったかをも問うことができるのである。
 ただ、私の理解する政治責任体系は、たんにことばのうえでではなくて現実に作動しうる特有な物=政治機構が前提としてある。そうでないにしても、政治責任に対する制裁的方法といえるものが具わっているのでなければならない(その点で、私の理解するところによれば、他の責任体系たる道徳上、倫理上のそれと、区別される)。さてそこで、天皇の政治責任であるが、まず取りあえずふつうの政治責任のありようを想定してみていただきたい。一定の政治機構のトップにいる者は、自らに固有のミスがない場合でも、部下のおかした法的な罪業・政治的過誤にかんして政治責任を負うべき仕組みになっている。そういう仕組みになっていればこそ、政治秩序が成り立っているのである。大日本帝国政府というまぎれもない政治権力機構のトップに位していた天皇には、この理が適用されないのか。また、政治責任というのは、ことの性質上、結果責任(原因たる行為に対する価値評価がどうであれ、その行為の結果不利益・不都合・損害が生じたならば、かく生じた結果のゆえに引受けなければならない責任のことをいう)でもありうるわけである。戦争がかずかずの不利益を国民にもたらしたのは否定できない事実であるから、戦争の結果責任を天皇に引受けてもらうかどうか問う余地は大いにありうるわけである。
 ただいかんせん、われわれ国民は、敗戦後たぶんこういうことを問題にしうる一番いい時期に、天皇の政治責任を問う手続をとらなかったし、あとでも述べるように、その後の歴史経過においては、こういうことがやりにくくなった。敗戦直後のある時期においては、承知のように天皇あるいはその側近は、いろんな思惑から(とくに、連合国による戦犯指定から逃れる目的で)、退位してことを済ませうるかどうか検討した。私の理解では、皇位を退くということは、考えられる政治責任の取りかたである。現実には、しかし、これも公知のように、別の思惑(退位して天皇が天皇でなくなることは、かえって連合国の戦犯指定を誘発する可能性が強いという読み)がはたらいて、天皇側はそういう方向を辿るのをやめたのであった。やがてまもなく、東京裁判は天皇を被告人にしないばかりか証人としても召喚せず、天皇抜きでおこなうことがはっきりする。そして、その頃には、天皇側は完全な居直りをすることになり、もはや退位などは口にしなくなるのである。どんな意味の責任もないというポーズをとるにいたるのである。
 ここで、次のことに注意を喚起してみたい。一九四六年一一月、日本国憲法が制定されたことによって、国民の側は、天皇の政治責任を問うことがたいへんむずかしくなったということである。「うちなる天皇制」のしからしむるところ、憲法は天皇制を存置し、天皇に「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」たる地位を与えた。国家の象徴的存在であるということと、過去の政治的過誤のゆえに政治責任をになうべき主体であるということとは、両立しがたいからである。
 そのことにもかかわるが、憲法施行に合わせて国会が制定した皇室典範は、即位にかんして「天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する」(第四条)と定めることによって、天皇が存命中に退位しうる制度を用意していない(もっとも、だからといって天皇の退位が法的にありえないことなのかどうかは、解釈上議論の余地はあろう)。天皇の退位、それによる政治責任の引受けということを、われわれの代表者たちは予想しなかったのであった。
ありえてよかった方途
 実際には生じなかったことなので、話は、いわば過去仮定形にならざるをえないのだが、敗戦直後からマッカーサー憲法草案が公になるまでのどこかで、天皇自らが退位の意を表明し、これを受けて帝国議会が旧皇室典範を自ら修正して、生存退位の筋道をつけ、裕仁天皇が政治責任をとって退位すればよかったのにという線が、ひとつ考えられる。少なくも、退位しても戦犯指定という逆効果が生じる余地がなくなった時点では、天皇にそれを期待することは無理難題ではなかったはずである(現実は、その後の天皇にあっては、道義責任さえ感じている気配がない)。
 それよりももっといい線であったと思われるのは――なお、依然として過去仮定形にとどまるのだが――天皇が退位希望を表明しようしまいと、ときの帝国議会がさっさと旧皇室典範を修正して生存退位の道を開いたうえで、天皇の退位を決議するという方法であったと思う(官選貴族院の学界出身議員の一部には、そういった式の問題処理が望ましいという考えをとる者がいた。しかし、実際政治としては実らずに空中分解した)。
 「なんだ、高々退位で満足するのか」と叱る向きがあろう。勇しい空理空論を説くのは簡単である。しかし「うちなる天皇制」に囲繞されて、それ以上のなにがとれたというのか。現実には、退位さえ要求できなかったではないか。
 もしも、帝国議会がこういう形で天皇責任問題を片づけることができていたとすれば、それがもつ憲法上の意味は相当に大きかったはずなのである。これは――議会が天皇の退位をもたらすということは――明治憲法体系そのものの改正を意味するていのものであった。すなわち、マ草案にもとづく日本国憲法制定以前に、われわれはこの一点において、実質的には新しい憲法の成立に着手したことになるはずだったのである。
 そのことを別にしても、もしもわれわれが――代表者を通じて――天皇に責任をとってもらったという歴史体験を持ちえたとすれば、これは、天皇主権から国民主権への転換という憲法革命の輝かしい里程標でありえたのである。そういう歴史を持ちえず、「うちなる天皇制」に捕われつづけていたのは、日本民主主義のために、かえすがえすも残念である。
 天皇の戦争責任論を私の将来の課題としようという考えから、問題の接近法を論じてみたところ、思わず紙幅をついやしてしまった。道義的、倫理的な責任の論じかたの問題などたくさんの問題を残したまま、ここで取りあえず擱筆する。
(一九八八・一一・二二稿)
(おくだいら・やすひろ 東京大学教授・在西ベルリン)
◇奥平康弘(おくだいら やすひろ)
1929年生まれ。
東京大学法学部卒業。米ペンシルベニア大大学院修了。
東京大学教授、同大学社会科学研究所長、国際基督教大学教授、神奈川大学特任教授を歴任。憲法研究者。
 
 
 
 
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