今回見つかった巨大な柱は、出雲大社が、現代人の想像を超える規模だったことを絵空事ではなく現実のものとし、古代日本国家にとって出雲が重要な地域だったことを立証した。
「古事記」「日本書紀」に国の成り立ちの物語として記された神話の中で、ヤマタノオロチ退治や国譲りなどの出雲神話がほぼ3分の1を占めており、出雲が極めて重要な地域として描かれている。
これは記紀の大きななぞで、一つの有力な解釈によれば、記紀神話が成立するころ、大和の南東に伊勢神宮、北西に出雲大社を配置するとともに、伊勢を高天原(天上世界)、大和を葦原(あしはら)の中つ国(地上世界)、出雲を根の国(地下世界)として描き、天皇による全国統治の理念を体系化したからだという。
その時期は、「日本書紀」の斉明天皇5年(659)の条に、(天皇が)出雲国造に命じて神の宮を造らせたと書かれていることなどから、斉明天皇から天武天皇にかけての時代(7世紀後半)だった。
今回の発見は、古代の出雲大社が、天皇の宮殿だった平安京の大極殿(政治の中枢)、国家宗教である仏教の総本山、東大寺大仏殿(宗教の中枢)をしのぐ規模だったことを裏付けた。大極殿や大仏殿が6世紀末以降の新しい建築様式の礎石建物であるのに対して、出雲大社は弥生以来の伝統的な形式の掘っ立て柱建物にこだわりながら高さを追求している。
3本の柱を束ねて太い柱にし、柱穴に石を詰めて根固めをする工法は、掘っ立て柱建物を高くするための工夫とみられ、ほかに例がない。記録によれば、古代の出雲大社はあまりの高さのために何度も倒れては建て替えられたという。
なぜそこまでして、平安時代末にいたるまで、出雲の地に高い建物を建て続けたのか。7世紀後半に成立した天皇制国家・日本にとって、出雲が極めて重要な聖地だったのは間違いないだろうが、それだけでは説明がつかないなぞを古代出雲大社の巨大柱は秘めている。
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