1996/09/20 毎日新聞夕刊
[歴史万華鏡]食す国と狩る国 屠るよりも食べるが主
岡本健一<編集委員>
初唐の文人政治家・魏徴(ぎちょう)が、「中原(ちゅうげん)また鹿を逐う(おう)」と詠よんでいらい、中原つまり首都圏で鹿を逐うこと(逐鹿<ちくろく>)が、王権争奪戦を意味するようになった。前々回は、その歴史的な背景について、中国古代史の桐本東太さん(慶応大学)の研究にもとづいて考えた。
桐本さんによると、中国の天子と諸侯は日ごろから専用の動物園を設け、天の神にささげる犠牲用の鹿類やゾウ・ライオンを飼っていた。もちろん、禁猟区だが、王朝が揺らぐと、帝位をねらう覇王たちが「天子の動物園」に踏みこんで、まるで草刈り場のように天子の鹿を狩り尽くす。そして、前王朝の犠牲獣を天帝にささげて祭り、天命に従って帝位についた。
ひるがえって、古代の日本。比較文化史家の中野美代子さん(北海道大学名誉教授)によると、日本の天皇には中国の帝王や西欧の王侯のような「天子の動物園」がなかった。犠牲獣を屠って(ほふって)、血みどろのいけにえを神にささげる、古代的な習慣もなかった。
元京都市動物園長の佐々木時雄さんは、名著の誉れ高い『動物園の歴史』で明治天皇のエピソードを紹介している。1882(明治15)年、上野博物館の開館式に臨んだ天皇、館内をめぐりながら、せっかくの動物園(当時は博物館内の施設)には寄らずに帰ってしまった、という。中野さんによると、それもまた、わが天皇制が動物園や猛獣と縁が薄かったから、とみる(『仙界のポルノグラフィー』)。
もちろん、古代の日本に「天子の動物園」がまったくなかったわけではない。比較文化史の井本英一さん(桃山学院大学)の「王の再生と神話」(『王権の神話』)によると、平城京の北側に造られた離宮「松林宮」にはご猟場があって、「天子の動物園」の役割も果たした、という。
シカやイノシシを飼う職業集団・宍飼部(ししかいべ)や鳥養部もいた。平城宮の門前にあった左大臣・長屋王の邸宅にも、ツルやサルが飼われ、鷹(たか)狩り用のタカとタカ犬もいた。鹿もいたろう。まぁそれでも、熊のような猛獣まで飼う趣味は、天皇にも王族にもなかった。
エチオピア最後の皇帝ハイレ・セラシェは、大ききんのさなかでも毎日、王宮内の動物園のライオンに肉を与えたという。井本さんは「帝王のそばにトーテム獣のいることが必要」な好例だった、と説く。
それが世界の通則なら、ライオンなどとは無縁の古代の天皇制は、海外の王権のありようとは異なる。
狩りをして、鳥獣の肉を食べる。現代風にいえば、狩りはスポーツであり、肉食は動物性たんぱくをとることだが、かつては動物の霊魂を自分の体にとりこみ、生命を更新することと考えられた。
そればかりか、狩りはわが領土の範囲を確認するデモンストレーションでもあった。秦の始皇帝は、全国平定のあと、各地を巡回しながら、要所で狩りをおこない、天帝を祭った。いわゆる「巡狩」で、じっさいに狩りをしたわけだ。古代朝鮮でも国王は国内を巡遊して、「巡狩碑」を立てた。
古代日本でも、律令国家成立以前の天皇(大王)や皇族は、全国各地に巡幸・遠征しているが、「少なくとも動物を屠って神をまつったことは、記録にもないし、考古学でも検証しにくい」(考古学者の水野正好さん)。
では、諸国をめぐる天皇は、何をしたのだろうか。宗教民俗学者・堀一郎さんの戦前の力作『遊幸思想』(のちに『我が国民間信仰史の研究』に収録)によると、天皇は巡幸か巡狩か国見をした。伝説上の応神天皇は播磨で狩りをしたり、国見をしている。とくに、景行天皇はわが子ヤマトタケルと同様、全国を巡幸している。
景行は巡幸中、なますを食べたくなったが、調理できるものがいない。いらいらしていたらお供の磐鹿六鴈(いわかむつかり)がハマグリのなますをつくって食膳に進めた。天皇は喜び、六鴈に膳(かしわで)の姓をたまわった、という。
この例からみると、巡幸した天皇はその地の名産を食することで、わが領土であることを示したらしい。都にいても、諸国からの献上品を食べた。その国々は「食す(おす)国」といわれ、天皇の統治する国つまり「治す(おす)国」とみなされた。
中国が「狩る国」なら、日本は「食す国」だった、と対照的にいえないだろうか。
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