天皇陛下が二十四日、盧韓国大統領を迎えた宮中晩さんで植民地支配など過去の歴史に対して述べられた「お言葉」は、「我が国によってもたらされたこの不幸」との言い回しで、行為の加害者側であったことを初めて認めた。また昭和天皇の時は用いられなかった「朝鮮半島と我が国」という表現を繰り返されたことで、韓国のみならず朝鮮半島全域に向けたメッセージの性格をも込めると同時に、我が国の責任と立場をより明確にしたものと言える。盧大統領も晩さんの答辞で「この問題に深い関心を示されたことは、きわめて意味深い」と述べ一九八四年九月、昭和天皇のお言葉に対し「厳粛な気持ちで拝聴した」と述べた全斗煥大統領より前向きの評価を下した。
本来、憲法上「国政に関する権能を有しない」(第四条)天皇のお言葉が、戦後から半世紀近くも経た今、日韓間でこれほどの政治問題に発展したのは、過去の侵略的行為について謝罪を繰り返してきた西ドイツなどに比べ、我が国がその責任と反省をあいまいにしてきた代償と言えよう。
日本は憲法上の制約を理由に、海部首相が政府を代表して謝罪すると表明、二十四日の首脳会談で「過去の一時期、朝鮮半島の方々が我が国の行為で耐えがたい苦しみと悲しみを体験されたことを謙虚に反省し、率直におわびの気持ちを申し述べたい」と述べた。
しかし韓国民にとって天皇は、新聞が「日王」と報じるように、日本を代表し、皇位継承後も過去の歴史を背負った「顔」と受けとられている。それだけにあくまでも「天皇の言葉による謝罪が必要だった」(韓国外交筋)わけだ。さらに日本政府自身“皇室外交”の名のもと、事実上、お言葉に政治的効果を期待してきた経緯があった。
最大のポイントとなったのは、昭和天皇より踏み込むかどうかだった。お言葉が前段で昭和天皇のお言葉を引用しながら、後段で「痛惜の念」を明らかにした腐心の組み立てとなったのは「より踏み込むべきでない」とした自民党などの声に沿いつつ、韓国側の要求にも応えざるをえなかった政府の事情を端的に物語っている。より踏み込むことになった後段のくだりでも、政府部内では韓国へ伝える直前まで「激論が交わされた」(政府筋)という。
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