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1989/01/10 毎日新聞朝刊
戦後労働運動と天皇 受け入れた象徴制
 
 戦後の政党が陰に陽に天皇制との関係を問われ、自らも天皇制の位置づけに慎重に対処してきたのに対し、労働界は戦後の一時期を除き「憲法擁護」を前面に掲げることで象徴天皇制もすんなり受け入れてきた。連合の竪山議長、総評の黒川議長も園遊会に出席しており、天皇逝去に対しても「象徴天皇が守られている限り、国民が天皇を敬愛し、敬慕する自然の感情をとやかく言うつもりはない」(真柄総評事務局長)との態度だ。
▼「煙突男」事件
 天皇と労働運動のかかわりを昭和史の中から拾ってみると、一九三一年(昭和五年)十一月の「煙突男とお召し列車」事件がある。当時の富士紡川崎工場労組は賃下げ反対ストに突入。要求を会社にのませるため、煙突男が登場し、百三十時間以上も煙突の上でたれ幕を張って頑張った。たまたま、煙突下の東海道線をお召し列車が通ることになり、警察が「陛下を見下ろすのはけしからん」と煙突から下りるよう求めたが、煙突男は「要求をのむのなら下りる」とはねつけ、結局、組合側の要求が通った形で決着した。
 その後も政府は、労働運動が反天皇制思想と結びつくことを極度に警戒し、厳しい監視下においた。やがて労働運動そのものが産業報国運動を通して国家総動員体制に組み込まれていった。
▼戦後、廃止論も
 戦後、天皇制を問い直す声が労働界でも起こった。特に共産党の影響が強かった「産別会議」はスローガンの一つの天皇制廃止を掲げた。
 一九四六年昭和二十一年、五月、東京世田谷区の「米寄こせ」大会の参加者が皇居にデモをかけ、初めて赤旗が坂下門をくぐっている。
 また、同年五月十九日の食糧メーデーで、田中精機工業の従業員、松島松太郎さんはプラカードに「詔書 国体はゴジされたぞ朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民 飢えて死ね ギョメイギョジ」と書き、不敬罪で逮捕された。松島さんは「政治批判だ」と主張したが、起訴され、一審は名誉毀損(きそん)で懲役八月の有罪判決。しかし二審は不敬罪に当たるが、新憲法公布で大赦令が出たとして免訴の判断を下ろし一九四七年(二十二年)十月には不敬罪そのものが廃止された。
▼政治は政党に
 一九五四年(昭和二十九年)労働団体などで結成された「憲法擁護国民連合」は憲法の全文支持を打ち出した。朝鮮戦争のぼっ発、保安隊の発足が続く中で、憲法九条をトリデに再軍備を阻止する点に狙いがあった。しかし憲法全文を支持すれば、第一章の「天皇」も含まれるわけで、天皇制に対する否定的議論は憲法擁護を前面に立てて進めようとしている反戦、反軍拡の運動に水をさすと受け止められる風潮を生み出した。
 さらに、労働運動の指導者、特に総評「黄金時代」の太田薫、岩井章両氏が戦前に弾圧された体験がなかったため、天皇制の功罪を身近に考える素地がなかった、という指摘もある。この点について、太田氏は、日本的労働組合のターゲットは「経済」であり、天皇制の是非など「政治」は政党にまかせておけばよい、という趣旨のことを語ったこともある。
▼同盟会長も「万才」
 経済、反戦運動重視の結果、天皇制を真っ正面から論ずることはなくなり、一九八〇年(昭和六十年)十二月の建国記念日の日の式典で、宇佐美同盟会長が出席者を代表して「天皇陛下万才」の音頭をとったことが皮肉まじりに労働界の「事件」とされているくらいだ。
 一方、天皇が労働運動に関して述べられたご発言の中で公にされているのは、一九六五年(昭和四十年)九月二十二日の外国人特派員団との記者会見で、記者が「戦後の日本の民主化、皇室自体の変化、婦人や労働組合の役割の変化など具体的問題について論評していただけませんか」と質問したのに対し、「そのような動きを変化といえるかもしれません。しかし日本の民主主義の基盤は明治時代の初期にさかのぼるものです。わが国の旧憲法は明治天皇の五箇条の御誓文に基づいていました。私はこの五箇条が日本の民主主義の基礎であったと信じています」とお答えになっているくらいだ。
 
 
 
 
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