1987/12/23 毎日新聞朝刊
皇太子殿下の会見要旨。“象徴天皇”の考え方などについてご発言
皇太子殿下と宮内庁記者会の会見はお誕生日を前にお住まいの東宮御所(東京・元赤坂)で約四十分間行われた。お話は天皇陛下の様子や礼宮さまの留学など多方面にわたったが、天皇の地位やあり方についての会見要旨(一部略)は次の通り。
−−天皇の地位や、あるべき天皇像についてお考えを。
皇太子殿下(以下殿下) 日本国憲法で天皇は日本国の象徴であり、国民統合の象徴であるというふうに決められているわけです。このことは多くの国民の支持を得ているものだと思います。また、伝統的な天皇の姿にも一致しているんではないかと思っています。(あるべき天皇像は)象徴がどのようにあるべきかということを常に求めていくということにあるのではないかと思っています。
−−伝統的な天皇の姿というのはどういうものでしょうか。
殿下 日本の歴史の中で一番長くあった状態ということが言えるんではないかと思います。
−−天皇が政治的権力を持たない時代ですか。
殿下 そういう意味です。
−−現憲法の規定する天皇は伝統に合うということですか。
殿下 そういうものですね。
−−明治憲法下の天皇のあり方はそれに合わない異質のものだったとお考えですか。
殿下 あの憲法をどういうふうに解釈するか、ということによってくると思いますね。
−−統治権の総覧者として力を持っていましたね。
殿下 そういうことも言えるし、一方で明治天皇が政治的に発言されたことはあまりないんではないかと思いますね。例えば憲法の制定の審議の間でも特に発言されているということはないようですね。ですから、そういう意味で明治天皇のあり方もかなり政治と離れた面が強かったということは言えるんではないかと思います。ベルツの日記に日本のいき方がいいというようなことを書いていますね、ドイツと比較して。
−−憲法の規定そのものの方はどうでしょうか。
殿下 ですから、やはり憲法をどういうふうに解釈するかということではないでしょうか。明治の時代からだんだん、憲法の解釈にも違いが出てきたということがあるんではないでしょうか。
−−(伝統的な姿について)殿下のお考えになっているのはどの時代ですか。
殿下 少なくとも平安以降ということになりますね。平安以降がこれで千年以上になりますね。平安の間にもいろいろ変わってくるわけですが・・・。
−−天皇の親政ではなくて、摂政とか関白を置いて政治の表舞台に登場しないという・・・。
殿下 そういうことになりますね。しかし、例えば古い時代でも天皇があまり政治をしない時代が早くからあったんではないか、という気がしないでもありません。例えば(天皇ではない)中大兄皇子があれだけ長い間政治をされていたわけですね。聖徳太子もそうですしね。上皇の院政が始まる前の時代には、そういう時代もありますね。やはり、その時代は日本が非常に発展した時期でもありますね。ただ、制度としてということではないと思います。
−−中世でも後醍醐天皇は異質ですか。
殿下 そうですね、やはり。
−−(今秋の訪米前の)米国特派員団の質問に対し、一九三〇年代から敗戦までの天皇のあり方とそれ以前、それ以後は違うというようにお答えになっていたと思いますが、その時代についてはどうお考えですか。
殿下 まあ結局、天皇機関説とか、いろんな議論があるわけですが、もう、ひとつの解釈に決めてしまったわけですね。そのことを言っているわけです。だから大日本帝国憲法がいろいろな解釈ができた時代から、できなくなってしまった時代・・・その時にあるひとつの型にだけ決まってしまった、と。例えば美濃部(達吉)博士は戦後も確か、大日本帝国憲法のままでもやっていけると述べておられるわけですね。
−−天皇制の考え方というものがそのようにバラエティーに富んでいる方がふさわしいとお考えですか。
殿下 言論の自由というものが大事だということです。
(注1)中大兄皇子 蘇我氏専制時代の六四五年、蘇我入鹿らを討ち、朝廷の実権を取り戻した(大化改新)。皇太子として、のち天智天皇として公地公民制実現を目指しさまざまな改革を断行した。
(注2)聖徳太子 六世紀末から七世紀初め、推古天皇の摂政として政権を握り、冠位十二階、十七条憲法を制定するなど数々の業績を上げた。
(注3)後醍醐天皇 一三二一年から院政を廃して親政を行い、鎌倉幕府打倒を計画。一三三三年、幕府滅亡とともに建武新政を行い、天皇政治を復活させたが、足利尊氏に追われ、南朝を起こした。
(注4)ベルツ ドイツ人医師。明治九年−三十八年来日。東京医学校(のち東大)の教師として教べんを執るとともに、宮内省(当時)侍医を務めた。日本文化に精通し「ベルツの日記」を執筆。
(注5)天皇機関説 明治憲法の解釈で統治権は国家にあり、天皇は国家の最高機関として統治権を行使するものとした。美濃部達吉博士らが唱え、大正時代には学界の定説となったが、昭和に入り軍部の台頭とともに排撃された。博士は戦後、占領下の憲法改正に反対した。
小林直樹・専修大教授(憲法学)の話 象徴天皇制が日本の伝統であった、という学説と同じ考え方を述べられたのではないか。こういう見解は、天皇の神聖と親政を否定して、民主制と適合を強め、天皇制を近代化、中和化するものと考えられる。しかし、その一方で、他の人間がなりえない「世襲の象徴」を正当化する主張となると思う。これが血の神話となんらかの関係がある限り、合理化、民主化には限界があり、平等の大原則に反するのではないか。
しかし、現実の日本は、世論調査でも絶対天皇制の支持も天皇制否定も極めて少数だ。皇太子殿下の考えは、その両方のまん中にいる一般大衆の保守的な心理に最もアピールする伝統型思考だと思う。こういう大衆天皇制の心理的基盤に見合った考え方ということだ。
児玉幸多・学習院大名誉教授(日本史)の話 天皇が歴史上、基本的には「象徴」の立場にあったということは妥当な考え方だ。明治から昭和初期にかけても、江戸時代や現在に比べ権力があったのは事実にしても、絶対君主といわれるようなものではなかった。総理大臣の任命とか戦争をやめるとかの時に発言権があったというだけ。しかも、時に強く発言することがあったにしても、おおむね積極的に発言したということはなかった。それよりも軍部とか近い人間とかに天皇が利用されたという面が強かった。戦時中などは、天皇が軍部に利用され、言論統制がしかれ、何も言えない状況を作られてしまった。皇太子殿下はそういうことをおっしゃりたかったのだと思う。
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