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第二章 船絵師の二大流派とその系譜
―吉本派と杉本派―
 船絵師は一人前の絵師として認められていなかったから、彼らの経歴も系譜も全くわからない。しかし、現に数千点を超える船絵師の描いた船絵馬があり、しかもそれらが日本の船舶画として評価されるともなれば、せめて船絵師の流派や系譜ぐらいは、はっきりさせたいものだと思う。
 船絵馬とそれを描いた船絵師の関係を整理してみると、ともかく画壇における諸流派の存在と同様に船絵師にもいくつかの流派が厳然として存在していたことがわかる。流派の分類とその系譜の探究は、船舶画としての船絵馬の観賞だけでなく、造船技術史の資料として使う場合の資料批判にも重要な役割を果すことになるので、吉本・杉本の二大流派をとりあげて、概観してみることにしたい。
 
一 吉本派
 文化期(一八〇四〜一八一七)から船絵馬の主流的存在は、大坂に住む吉本善京に代表される吉本派であった。しかし、文化八年(一八一一)から明治八年(一八七五)までの六四年間、善京が同一人物だったとは思えない。といって無名の善京であってみれば、狩野派や土佐派あるいは浮世絵諸派の系譜の中に名前を求めることはできず、必然的に彼らの描いた船絵馬とその落款や花押などから系譜を探り出すよりほかはない。
 船絵馬の特徴は写実性の重視にあるとはいえ、絵師の流派による様式化や個性による癖のでるのは免れない。そうした点から吉本派の船絵馬を分析してゆくと、共通した特徴を摘出することができる。今ここでそれを詳述する余裕はないが、ともかく吉本派の様式を基準に船絵馬全体に検討を加えると、文化八年の吉本善京以前にも無落款だが吉本派の絵馬がかなりあることがわかる。目下のところ、一〇年遡った享和元年(一八〇一)を上限に一三面の絵馬(図59)があり、吉本派の画系の成立は寛政期にあるとみてよさそうである。
 文化八年に粟崎八幡神社に奉納された万徳丸の絵馬(図20、18)に落款を入れた善京を仮りに初代とすると、これに次ぐのは天保元年(一八三〇)春に糸魚川市(新潟県)の一宮神社に奉納された絵馬を描いた善京である。この間に一九年のギャップがあって、画風も初代とは明らかに違い、別人とせざるをえない。この一九年間には吉本派の無落款物が約二〇面もある。これらの絵馬を比べてみると、文政九年(一八二六)に富来町(石川県鳳至郡)の住吉神社に奉納された冨吉丸の絵馬から明白な画風の変化が認められる。この画風は天保元年春の善京筆の絵馬とも共通し、また本書の冒頭で北斎と比較した年紀のない善京筆の絵馬(図2、3)にも同じことがいえるので、文政九年以後は二代目善京に替っていたと断定してさしつかえない。
 ところが、厄介なことには、天保元年初冬に小松市(石川県)の多太神社に奉納された絵馬(図60)には吉本善興景映なる落款が出てくる。常識的にみれば、ここで代替りがあったとすべきだろうが、天保元年の春と初冬の絵馬は全くの同筆で、別人の作とは考えられない。そこで花押を比較してみると、これがまたまったく同じである。したがって、二代善京と善興景映は同一人物であって、天保元年の春から初冬の間に善京から善興に改名したことになる。あるいは、京と興は同音だから改名ではないかもしれない。
 善興となった二代目は、引き続き天保末年まで多数の絵馬を遺しているが、天保一四年(一八四三)六月を最後に善京と昔の名に戻っている。この場合も、当然、代替りがあったと考えるのが常識的である。ところが、ややこしいことに、代替りは実は改名より早い天保一二年にすんでいるのである。その間の経緯を船絵馬に語ってもらうと、こうである。
 
図59 享和元年(1801)のプレ吉本派の絵馬 
寺泊町の白山媛神社蔵
 
図60
天保元年(1830)初冬の吉本善興景映筆の絵馬
小松市の多太神社蔵
 
図61 天保11年(1840)の吉本善興筆の絵馬 
中条町の荒川神社蔵
 
図62 天保12年(1841)の吉本善興筆の絵馬 
中条町の荒川神社蔵
 
図63 天保9年(1838)の吉本派の絵馬 
中条町の荒川神社蔵
 
 善興が天保一一年まで描いていたことは絵馬(図61)の上から証明できるが、翌一二年の絵馬(図62)になると、同じ善興の落款ながら絵の上では微妙な違いが生じ、端的にいえば腕が落ちている。それは年齢による衰えといった性質のものではなく、別人の手になるためである。そこで花押に注目すると、天保一一年の善興と翌年の善興では明瞭に違っている。しかも、後者は弘化元年(一八四四)以後の絵馬に据えられた善京の花押と同じである。というわけで、天保一二年から二代善興に代替りし、二年後の一四年秋になって三代善京と改名したことになるのである。
 二代善京は、初代善京の図面的な画風を継承しつつも表現の硬さは減り、正確な船体描写に磨きがかかっている。ただ、善京の場合、落款物と無落款物(図63)との質的な差が甚だしく、あるいは無落款物は弟子筋か傍系の下請に描かせていたのかもしれない。ともあれ、善京は船絵師としては杉本勢舟とともに双璧であるが、写実性ではやや勝る。
 ところで、三代善京によって版画化という量産方式がとられ、それが嘉永二年(一八四九)に始ることはすでに述べた。この船絵馬制作上の革命によってコストダウンが現実し、船主や船頭が主だったそれまでの購買層を低所得層の水主にまで拡げたことの意義は大きかったと思う。その代り船絵馬のマンネリ化を来たし、船舶画としての美術的価値を犠牲にしたことも事実である。
 三代善京の花押は天保一二年から明治八年(一八七五)に至る三〇年間を通じて使われているので、この間は一人だったとみられる。しかし、慶応期(一八六五〜一八六七)の船絵馬では船体の版画に僅かながらも様式上の喰違いや表現の変化が生じているので、この辺で代替りがあった可能性はあるが、目下のところそれを証する手立てがない。
 以上の考察から吉本派の系譜を作成してみると、次のようである。
 初代善京―二代善京=善興―二代善興=三代善京







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