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三 第三期(文化期〜天保期)の船絵馬と船絵師
 第三期に当たる文化期から天保期にかけての四五年間は、第二期で一応完成の域に達した船絵馬がさらに一層の写実化を進めた時期であり、この期をもって日本絵画史における船舶画のジャンルの確立期としてよかろう。いわば船絵馬の黄金時代である第三期は、清長・歌麿・写楽などの浮世絵の黄金時代にやや遅れるとはいえ、北斎や広重の全盛期と重なり、庶民芸術の隆盛という点で共通するものがある。
 もっとも、一部では写実性即図面的正確さといった誤解を生じたらしく、図面の引写しのようなものも現れた。つまり正確さを追求する余り、イラスト的になってしまったわけである。一方、船頭以下乗組の描写には関心が薄れたとみえて、魅力は減退しているが、これは第一期や第二期の比較的自由な人物表現と対比しての話であって、第四期以後の甚だしい様式化からすれば、まだしもである。
 こうした欠点の少ない名作としては、粟崎(金沢市)の粟崎八幡神社に奉納された文化一四年(一八一七)の大絵馬(図18)がある。ここでは船・人物・背景が一体となって動きのある緊張した画面が形成されている。とくに空荷と満載の二艘を適確に描き分けた手腕からして、絵師はよほど船や船乗りの生活に通じていたに違いない。落款はないが、このように写実性と絵画性を兼ね備えた最上級の作品が現れるのも当該期の大きな特色である。
 大坂の絵馬屋の手になる船絵馬は第二期にはすでに全国的に需要があったと考えられることはすでに述べたが、当時はまだ船の描写に実写性が不足するのはいなめなかった。しかし、第三期に入るとぐっと写実性を増し、いかにも弁才船らしい姿に描くのがふつうになる。このようにリアルな船絵馬だからこそ、船を熟知している船乗りたちに歓迎され、大坂出来の船絵馬はますます売れていったらしい。それに答えてか船絵馬屋もサービスにつとめ、船の絵自体はレディメイドながら、注文主が乗る船の船名・帆の反数・帆印・乗組人数をなるべく忠実に描こうとする。そして郷里に持ち帰って奉納する時、奉納年月日と奉納者名を書き込みやすいように画面の片側または両側に枠で囲んだ余白を設けておくことも、一九世紀初めには普遍化するに至る(図19)。
 ところで、第三期で特筆すべきは、船絵馬に落款(らっかん)を入れるようになったことである。その皮切りは吉本善京で、文化八年(一八一一)に粟崎八幡神社に奉納された万徳丸の絵馬(図20)が落款物の初見である。この絵馬は住吉神社を背景にした標準形式であるが、船体描写にみられる図面さながらの緻密さ・正確さは、さすがに落款を入れる気になっただけのことはある出来といってよい。惜しむらくは、図面的硬さが船舶画としての感銘を稀薄にしている。どうも絵というものはむずかしいものである。
 文化八年の吉本善京に次ぐのは、文化一一年の杉本常重、文政四年(一八二一)の杉本円乗常重、天保元年(一八三〇)の吉本善京と吉本善興景映、同二年の杉本円乗勢舟、同三年の吉本善興などがある。時代が下るとともに落款入りの絵馬が増加し、天保一〇年以降では吉本派と杉本派の落款を入れた絵馬が急速にふえてくる。と同時に、この両派の無落款の絵馬がはるかに多く出まわっているので、まずは吉本・杉本の両派が大坂における船絵馬屋の二大勢力となっていたことはいなめないようだ。両派以外では、天保九年に須佐町(山口県阿武郡)の皇帝社に奉納された絵馬を描いた松村某がいるが、様式のうえから杉本派に属することは明白だし、また地方には一般の絵師が船絵馬を描いて落款を入れた例もあって、ようやくこの頃になると船絵馬が社会的に関心をもたれるようになったという気配が感じられないでもない。
 こうして社会的にも表面に浮び上った船絵馬屋のなかで船絵師を自称したのは、既述の杉本円乗勢舟である。代表作の一つが天保二年(一八三一)に粟崎八幡神社に奉納された宝福丸の絵馬(図21)で、標準形式の船絵馬のなかでは屈指の秀作である。この前後に描いた無落款の絵馬もなぜ落款を入れなかったかと疑うほどの秀作が多く、勢舟の実力は当代随一といっても過言ではない。
 
図18 文化14年(1817)の大絵馬
粟崎八幡神社蔵
 
 ところが、吉本派になると、なぜか落款は入れても船絵師と書き込んだ例は皆無である。それが船絵師としての自信がなかったからでないことは、文政末年から天保一一年までの落款入り絵馬の出来栄えのよさによって察せられる。本書の冒頭で北斎と比較した辰吉丸の絵馬(図2、3)はその代表作であって、同時代の杉本勢舟に拮抗(きっこう)し得たのはこの二代目善京(天保元年初冬以後は善興景映と改名)をおいてほかにいなかったのではあるまいか。
 
図19
 
文化11年(1814)のプレ杉本系の絵馬 寺泊町の白山媛神社蔵
 
 ともあれ、船絵馬の黄金時代である第三期には標準形式の既製品が大量に出廻る一方、特注品も描かれるようになった。前述の善京の万徳丸にせよ、勢舟の宝福丸にせよ、この頃では落款入りの絵馬は標準形式でもすべて特注品であった。それは既製品とは違う上質の板を使っているので一目でわかる。
 こうした標準形式の特注品に対して、はるかに大型の特注品もあった。前述の文化一四年の粟崎八幡神社の大絵馬がそうだし、また同じ神社に天保二年に奉納された大絵馬(図22)も同じである。後者は、兵庫沖を帆走する荷物を満載した二艘の弁才船とまさに木津川口を出帆せんとする空荷の一艘を描いており、空荷と満載を描き分けたあたりは心憎いばかりの出来である。空船の右に見える「船つなくへからす 拾番」と記された木は、木津川口のもっとも沖に立つ水尾木(みおぎ)つまり水路標識で、この絵馬は当時の水尾木の姿を伝える貴重な資料でもある。二面とも粟崎の豪商木屋一族が奉納したものであるが、これほどの力作にもかかわらず、なぜか落款はない。しかし、杉本勢舟の手になることは間違いない。







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