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船の科学館 資料ガイド4 黒船来航

 事業名 海事科学知識の普及啓蒙活動
 団体名 日本海事科学振興財団 注目度注目度5


「黒船来航(くろふねらいこう)を知っていますか?
 いまから150年ほど前の幕末(ばくまつ)(江戸時代末期)、見慣れぬ4隻の巨大な黒い軍艦(ぐんかん)が、江戸湾(東京湾のことを当時はこう呼びました)浦賀沖に姿を現しました。しかも、うち2隻はもくもくと煙を吐く蒸気船(じょうきせん)です。
 当時、オランダを除く西欧の国々と国交を持たず、いわゆる「鎖国(さこく)」政策をとってきたわが国は大変驚き、退去するように求めますが、司令長官として乗り込んできたアメリカのペリー提督(ていとく)はこの求めに応ぜず、アメリカ大統領の国書を携えてわが国に「開国」を求めてきます。
 こうして、わが国はペリー提督の要求に応じてアメリカと「日米和親(わしん)条約」を結び、ほどなく西欧諸国と通商条約も締結(ていけつ)して長い「鎖国」の眠りから覚め、近代国家への道を歩み始めたのでした。
 この4隻の黒船は、いったいどのような船だったのでしょうか?
 日本の歴史を大きく転換させた、ペリー艦隊の「黒船来航」について一緒に探ってみることにしましょう。
 
黒船“サスケハナ”の木版画
所蔵:船の科学館
 
ペリー提督の肖像画
(The Illustrated London Newsより)
所蔵:神奈川県立歴史博物館
 
 
 1853年(嘉永(かえい)6)に、ペリー艦隊(左から“サラトガ”、“サスケハナ”、“プリマウス”、“ミシシッピ”)が浦賀沖に来航した様子を縮尺1/200で再現したジオラマ模型です。比較のために、弁才船(べざいせん)と浦賀奉公所(手前)の小早(こばや)と押送船(おしょくりぶね)の模型を同一縮尺で配置しています。 所蔵:船の科学館
 
知りたい! 教えて!
Q1 黒船ってどんな船?
A 室町時代の終わりごろから来航するようになった西欧諸国の船は、船体が黒くしかも巨大であったため、一般に黒船と呼ばれるようになりました。今日では黒船といえば、幕末に来航したペリー艦隊のことを指すようになりましたが、本来はこうした西欧の異国船(いこくせん)を総称して黒船と呼びます。
 
Q2 どうして黒船って呼ばれたの?
A ペリー艦隊を含め当時の西欧諸国の船は、一般に木造船体に腐食防止(ふしょくぼうし)のため黒いタールを塗っていました。そこで黒船と呼ばれるようになりました。よく鉄製の船と誤解されがちですが、あくまで木造船でした。
 
Q3 どんなところが特徴だったの?
A ペリー艦隊の最大の特徴は、最初に来航した4隻のうち旗艦(きかん)“サスケハナ”と“ミシシッピ”の2隻が蒸気機関を搭載した蒸気船だったということです。帆を使わずに煙突から煙を吐き、潮や風に逆らって力強く外車を回して進む姿は、当時の日本の人々を驚かせるとともに強い衝撃を与えました。
 
Q4 どんな人が乗っていたの?
A 初来航した4隻のペリー艦隊を指揮したのは、当時58歳のアメリカ海軍准将(じゅんしょう)マシュー・カルブレイス・ペリー提督でした。ペリーは、東インド艦隊の司令長官として約1,000名の海軍士官、水兵、海兵隊などとともに、はるばるアメリカから来航しました。
 
Q5 どのくらいの大きさだったの?
A それまで大型の船といっても千石船(せんごくぶね)(弁才船(べざいせん))くらいしか見たことのなかった日本人にとって、ペリー艦隊の黒船はとてつもなく大きく見えました。旗艦“サスケハナ”の排水量(はいすいりょう)は3,824トン、千石船は載貨(さいか)重量150トンで排水量200トンと推定できるので、約19倍の大きさがあったことになります。
 
Q6 どんな目的で日本に来たの?
A ペリー提督はアメリカ大統領の国書を携え、それまでオランダを除く西欧諸国との国交を閉ざしていた日本に、「開国と通商」を求めて来航しました。当時アメリカは蒸気船による太平洋航路を開こうと計画しており、捕鯨船(ほげいせん)や蒸気船の補給基地などを求めていたのです。それまでのかたくなな日本の態度を知っていたペリーは、蒸気船と大砲の威力を背景に強い態度で、交渉に臨んで(のぞんで)きました。
 
Q7 どんな航路を通って日本に来たの?
A 当時、太平洋を横断する蒸気船の航路は未整備だったため、アメリカ東海岸のノーフォークを出発、大西洋を横断してアフリカの南端にある喜望峰(きぼうほう)のケープタウンに寄港、スリランカ(セイロン島)、シンガポール、上海(しゃんはい)、沖縄(おきなわ)を経て、約7ヶ月半の航海の末、江戸湾に到着しました。
 
Q8 何回日本に来たの?
A ペリー艦隊は、都合2回来航しています。初めてわが国を訪れたのは江戸時代末期(幕末)の1853年7月(嘉永6年6月)のことでした。久里浜に上陸し、大統領の国書を手渡したペリー提督は、来春再度来航すると言い残して江戸湾を離れ上海に戻りました。そして早くも翌年の1854年2月(嘉永7年1月)、今度は9隻の大艦隊で再び江戸湾に姿を見せ、「日米和親条約」を締結して4月に江戸湾を去りました。
 
Q9 当時の日本の人々はどう思ったの?
A 幕府の上層部は、オランダからの情報でアメリカ艦隊が日本に来航するとの情報を得ていましたが、ほとんどの人々はそうした事実を知らされておらず、その驚きは大変なものでした。蒸気船やペリー提督、もたらされた近代文明の品々などは次々に書き写され絵画や瓦版(かわらばん)になって各地に広まりました。
 
Q10 黒船来航で日本はどう変わったの?
A 「鎖国」を解き開国したわが国は、一転して急速に近代国家への道を走り始めることとなりました。その意味で、黒船来航は日本の歴史上の大きな転換点となりましたが、黒船の出現があまりに強烈だったため、それまでの歴史や文化を否定し、急速に西欧諸国に傾倒(けいとう)していったことは後に大きなひずみを生み出すことにもなりました。
 
第2次来航の“ポーハタン”(左)他のペリー艦隊
(ペリー渡来絵図貼交屏風より)
所蔵:東京大学史料編纂所







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更新日: 2019年7月13日

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