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 平野弥十郎氏は、それがペリー来航予告情報によって対応策を執ったということはわからなかったと思います。それでこの人は、皆さんには第3回で佐藤先生から品川台場等についてお話があったと思いますが、実は品川台場の構築にもかかわっています。この土木工事には下埋めのために、どたん石というものがずいぶん必要だったそうです。このどたん石をどこから持ってくるかということで、横須賀から持ってくることになりました。この弥十郎さんは、横須賀の切り出しから御用船への積み込みを担当しました。いまも横須賀に行くと崖が白くなっていますが、あれは、明治になってから軍の砲台をつくるためにもかなり石を持っていったという話もありますが、このとき品川台場に使うどたん石を切り出すのでずいぶん崖になったという話も伝わっています。
 それでさらに薩摩藩邸内にも台場をつくりますが、弥十郎氏はそれを請け負ったり、それからうまい具合にと言ってはいけませんが、安政大地震や大嵐がよくきましたので、薩摩屋敷の営繕を請け負いまして、順調に業績を伸ばしました。横浜にも松山藩が台場をつくり、その設計者は勝海舟ですが、勝海舟との面識を持ち、松山藩の台場を増築することもやりました。それからおもしろいことに、どうしてこういうことに目をつけるのかよくわかりませんが、熱海の温泉を酒樽で江戸に運んで温泉の宅配を始めたというのです。考える人は考えるもので、商才があったようです。
 それから横浜の開港場埋立て、また築地ホテルですが、これは清水建設のはしりである2代目清水喜助とともに請け負った。さらには明治維新後に品川、高輪の鉄道工事も請け負っている。当然薩摩藩とつながりがありますから、北海道開拓使の仕事も請け負いまして、実は北海道の函館、札幌の幹線道路はこの人が請け負ったそうです。
 最後は明治19年にリタイアし、明治22年に北海道でクリスチャンとして、ちょっと若いと思いますが66歳で没したそうです。辞世の句を紹介したいと思います。「世に残る思いはさらになかりけり天つ御国へ帰る身なれば」、やりたいことはやったということです。こういう人物までわかりました。ペリー来航予告情報によってつくられた下屋敷中渋谷はどれだけの広さがあったかというと1万3923坪ということですが、そういうかたちで島津さんがきちんと対応策を執ったということがわかりました。
 したがいまして黒船が日本にもたらしたものですが、たとえば吉田松陰や佐久間象山や維新の志士たちにとっては政治的なチャンスだったのではないかと私は思います。いま紹介した平野弥十郎にとってみれば、ビジネスチャンスだったと思います。吉田松陰の考え方からいえば、ペリー来航はたしかにくやしいのですが、これは一つのチャンスではないかと考えることもできたわけです。ビジネスチャンスとしては平野弥十郎のようなケースがある。私が今回取り上げたいのは、政治的なチャンスとはどういうことかということです。それがつまり白旗という話になってくると思います。
 二のペリーの白旗についてのお話に移りたいと思います。この話をするときには、レジュメの3、67ページと書いてあるところからの「江戸時代における白旗認識と『ペリーの白旗』」という論文を飛び飛びに紹介していきたいと思います。「はじめに」を見ていただきたいと思います。2002年11月のことですが、ここに映し出してあるように、『ペリーの白旗 150年目の真実』という本が出ました。嘉永6年6月に浦賀沖に来航した東インド艦隊司令長官のペリー指揮下の交渉した人物、おそらくブキャナンだろうと思いますが、彼が対応した浦賀奉行所の役人に、白旗とその利用法を説明した書簡を渡したとされる事件の実態と影響を現代の問題にまで広げて詳細に調査、研究したノンフィクションがこの本です。現時点で、この問題に関する最も詳しい、正確な文献だろうと思います。
 発端となったのは、松本健一氏の『白旗伝説』です。もちろんこれは発表されたものをあとで一つにまとめたものですが、いまから14年前に最初の論文が発表され、ことあるごとにこのペリーの白旗と白旗書翰に言及してきたわけです。少し前のこの本ですとか、中央公論社の『日本の近代』、それからこれも中央公論社の『評伝 佐久間象山』、これにも白旗のことが出ています。そういうこともあり、そしてまた上智大学の三輪公忠氏が『隠されたペリーの「白旗」』という本も書きました。これは国際関係論の視点から、なぜこれが隠されたのか、その裏には新渡戸稲造がいたという話ですが、そういうかたちで話題を呼びました。
 結局、新しい歴史教科書に取り上げられまして、特にこのページに、「ペリーが渡した白旗」ということで、コラムのかたちで取り上げられました。要するに本文で、受け取りを拒否できなかったのはなぜかということで、その理由としてこうであるということです。ここに何と書いてあるかというと、「幕府が国書の受け取りを拒否できなかったのはなぜか。ペリーは大統領の国書とは別に、白旗を2本幕府に渡していた。それには手紙が添えられ、開国要求を認めないなら武力に訴えるから、防戦するがよい。戦争になれば必勝するのはアメリカだ。いよいよ降参というときにはこの白旗を仕立てよ。そうすれば和睦しようと書かれてあった。武力で脅して要求をのませるというやり方は砲艦外交と呼ばれ、欧米列強がアジア諸国に対して用いてきた手法だということです。」この記述の根拠は先ほどの松本健一氏および三輪氏の著作によっているというわけです。
 これがなぜ問題になったかというと、この新しい歴史教科書が市販された直後に歴史学研究会など21の学会が連盟で記者会見を行いまして、いくつか誤りを指摘しました。その席上で最も強調されたのが、ペリーの白旗書簡は偽文書だ、正確な歴史事実を知らさなければならないとされる中学歴史教科書に偽文書と考えられる白旗書簡が、あたかも事実であるかのごとく掲載されたことはいけないだろうということです。白旗書簡が最も論点になったというわけです。特にその後、当時東大教授だった宮路正人氏が白旗書簡はにせ物だと断定した論文をいくつか発表しました。これが新しい歴史教科書の採択問題に発展して、歴史学会のみならず、思想界や教育界を巻き込む一大論争になったのです。
 それらの経緯は、この『ペリーの白旗』という先ほどの岸さんの本に詳しいので、ぜひ見ていただきたいと思いますが、私はどちらの立場にも立たずに真実はどうだったのかということが一番気になりました。たまたま私は古本屋さんの目録を見ていましたら、こういう資料がありました。これは「嘉永五年」と読みますが、ところが、「丑六月の日」と書いてあります。「嘉永五年」は「壬子」で、「丑」は「嘉永六年」ではないかと思ったのですが、とりあえず「異国船之一件全 岡氏」というこの写真の部分が目録に載っていたので、これはおもしろそうだから買ってみようかと思いまして、古本屋さんに電話をかけました。
 いままで正直ごみみたいなものも買ってしまっていたものですから、あまりそういうものだと怒られますので、中身もきちんと確かめようと思い、古本屋さんに電話をかけましら古本屋さんはここの部分を読んでくれました。「異国船渡来につき、御城付より表御用部屋江申しこし候趣」。ここまで読んでくれまして、「買います」と言いました。これは買うしかないと思いました。最初の「御城付より」というところが、内心うれしくてしょうがなかったのです。けれどそれを古本屋の主人に気取られると、いきなり値段が上がったら困ると思いまして、「買います」も控えめに言いました。
 この「御城付」というのは徳川御三家、すなわち尾張、紀州、水戸の御三家が、特例で認められている、江戸城の本丸御殿の中に置くことができる家臣です。ほかの大名はできません。御三家は、一応ことがあれば、要するに将軍家に事故があれば将軍になり得る家格であるということから、江戸城内の様子を常に知っておいたほうがいいという配慮からでしょう、こういう役職を置くことが許されていた。
 その「御城付」、江戸城内の動静に詳しい藩士が、藩の表御用部屋にもたらした情報であるということです。この「御城付」に関しての研究もほとんどありませんし、それがどんな情報をもたらしていたかなどという業務内容も、ほとんどわからない状況がわかっていたので、これはぜひ欲しい、ペリー来航うんぬんにかかわらず欲しいと思ったわけです。
 そして一、これは「一」と書くので「ひとつがき」ですが、くれぐれも「いち」と読まないでください。そうすると通でないと思われてしまいます。「一」のこれに、「一昨日、八時ごろ、異国船数艘渡来につきうんぬん、右のうち二艘、蒸気船、二艘は黒船にて、アメリカ船のよし」とあります。これがこの資料での第一報でありまして、やはりペリー来航の話だということです。表紙ですと「嘉永五年」などと書いてありますが、これは「六年」の間違いだということがわかります。
 そしてさらに読み進めていきますと、「一、異国船うんぬん」とありまして、「一、異国船持参の書翰、浦賀奉行へ直に相渡し申すべき旨、異国人申しつかわし候につき、同所にて受け取り難く、長崎へ持参候よう、相答え候ところ」、要するに長崎に持っていってくれと言ったところ、「長崎へ持参候ば」、これは「難」という字で、「難く」ですから、「願い相すみ難き儀は、よく相心得おり候につき」、長崎に持っていけなどというと、おれたちがやりたいことは拒否されるから、長崎になど持っていかないということです。「当浦へ」、つまり浦賀へ「持参候」、だから浦賀に持ってきたのだということです。
 「もし奉行受け取りこれなく候わば、江戸近く乗り込み、相渡し申すべく」、つまり奉行が受け取らなければ江戸へ行くということですが、これも先ほどから言っていることと符合します。「右の否返答遅滞に及び候わば」、つまりこれがいいのか悪いのか、その返答が遅れたなら、「無断」、つまりことわりなく「内海へ乗り込み候間」、ことわりなく内海へ、つまり観音崎、富津の間を越えるという意味です。
 「右様、相心得くれ候ようなどと、甚不埒のことども申し立て」、非常に不埒なことを言っている。その上、「願意相叶わず候わば」、つまりアメリカ側の要求が通らないことになったら、この「かなう」という字は「叶」、叶姉妹の「叶」です。そうすると、「一戦に及び申すべく」、われわれの要求が通らなければ一戦に及ぶぞ。「さりながら」、これは「介」という字ですが、「会」という字の書き間違いだと思います。「右合戦中にても、願意相叶い候わば、この旗を差し出しくれ候よう」、もし合戦中に、われわれアメリカの要求を聞くのなら、この旗を差し出したらよかろう。「さ候わば、人数引き上げ申すべく間」、そうすれば人数を引き上げる。「この旗二本差し出し候よし」、それでこの旗を2本差し出した。
 ここには白旗と書いてありません。つまりわれわれがいま持っている白旗という印象ではなく、合図の旗であるという印象しかここではありません。それで、「右はまったく脅しのために差し出し候ようにも相見え候えども、何様」、どのようなという意味でしょうか。「覚悟はいたしきたり候ものに相見え候」というコメントが付されております。
 要するに私が言いたいのは、書簡のことは一切触れられていない。この記述からすれば、どうやら口頭の説明だということと、もう一つは、これは日本側の意識としてはあくまでも合図旗であり、白旗という、われわれが降伏の旗として認識しているものとは一線を画するべきで、「この旗」という表現から、そのように考えて文章を書きました。そういうふうなことを書いていたものですから、岸さんの取材を受けたりして、さらにいろいろ調べた結果が、この「江戸時代における白旗認識とペリーの白旗」という文章です。







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