司会 どなたか質問は。
質問 今日はお話をありがとうございました。レジュメの中の3番目、明治以降の品川台場ということで、2番の海軍・陸軍からの移管、3番目の東京市・都の対応の2項目に対して大変サラッとした解説でしたが、話し足りなかった逸話がありましたら教えていただきたいというのが1点です。
それからお台場の「お」というのは幕府が関係していたからだと。それ以外の場所として全国に1000カ所くらい台場というものが存在していた。ちょうどこのお台場がいろいろもめていたころに、全国その他の台場と呼ばれるところがどのような動きをして、どのように対処して、いま現在どのような状況にあるのかという概略がわかれば教えていただきたいと思います。
佐藤 2番目のほうから言いますと、各藩でつくった台場については、先ほど申し上げましたように、文化財の指定を受けないと存続していないというのがほとんどのようです。台場の場所に碑を建てて、ここに何々台場がありましたというのはわかりますが、どういう形で、どのようにいまなっているかという状況については、あまりはっきりしていません。詳しく調べられたのが原剛さんが書かれたものがあります。防衛研究所の研究員をやっておられたときに書かれたもので、全国のお台場関係をかなり細かく調べられています。形からいま存続がどうなっているか、細かく書かれています。(「幕末海防史の研究」)
やはり国が指定するということになると、歴史的に価値が高いものしか指定していませんので、たとえばお城で言っても江戸城や姫路城という大きいもの、お台場でも和田岬と西宮と品川台場、五稜郭くらいが文化財の指定になっているぐらいです。ほかの場所は記録にあっても、史跡の指定がないとどのような経過をたどったかはわかりかねます。
1番目の海軍・陸軍の話は、もしお時間があればここに来ていただいて、資料を見ていただいてもいいのですが、明治6年に海軍省の管轄となり第1軍管区の海岸砲隊が配置され、同8年に海軍省から陸軍省に移管されています。
東京市、あるいは東京都の対応ですが、東京市が東京港を管轄している関係で、港の中で役に立つものは利用してほしいし、第2台場のように港湾機能として支障になるものは、幸いに第2台場は史跡指定がありませんでしたから、東京都の港湾局の仕事で撤去してしまいました。ですから記録のうえで、もし文化財の指定となっていたらどういうことになったかとも思いますが、港湾の機能に支障であればやむを得ず撤去するということになろうかと思います。幸いに第3と第6台場の位置が航路からはずれていますので、残ったという感じがします。第1と第5は埋立造成地の中に消えましたし、台場の基礎部分は埋立地中に残っています。第2も航路の真ん中にあったので支障が出るということで撤去しました。
第4台場は崩れ台場と言いましたが、陸軍用地から入札で土地を売却して緒明造船所に変わります。その造船所の経営から今度石油会社の貯蔵タンクの敷地に変わって、さらにいまは再開発で天王洲になり、建物に変わっていくという歴史をたどります。経過はありますから見ていただいても結構です。そういうことで国を守る防衛施設というのは、必ず国の軍隊がやるかと思いますが、当時の日本は残念ながらそういう仕組みではありませんでした。幕府は政治のうえでは日本全国を治めましたが、軍隊では徳川将軍を守るための軍隊しかもっていません。
したがって各藩の大名が、同じように自分の藩を守るために軍隊はもっていましたが、日本全国を守る軍隊は当時ありません。徳川将軍を守る、つまり旗本という人たちが将軍を守ったのであって、日本の国を守るという力はありません。というより仕組みがなかったのです。長州を攻めようと(元治元年(1864))、全国の大名に声をかけて長州は悪いやつだからやっつけろと、お触れをかけたのは徳川幕府ですが、手伝ったのはそれぞれの有力な藩だけです。
外国から攻めてきたときに、どう対応するかと言ったらまとまった軍隊がありませんから、そこで各有力大名にお台場をつくらせる。そして東京湾口にはたくさんお台場をつくりましたが、そこを守る有力な藩に、たとえば縁のある会津、川越、忍藩、あるいは井伊直弼の彦根藩といった、金をもっているところや徳川と縁の深い大名に守ることを命じる。藩も財政的に逼迫しているので、わざわざ幕府が1万両与えるから守ってくれというようなやり方です。ですから日本の国を守るという意識はあっても、そういう仕組みになっていなかったということです。
明治新政府になって初めて軍隊を一つにまとめようというのが、陸軍であり海軍であったのです。そういう状況ですから、守る意識とはいったいどういうことなのか、いまではわかりにくい。国を守るというよりも、幕府を守るということだったと考えたほうが理解しやすいと思っています。
質問 いまの各藩のお台場ということではなくて、日本国東京湾、当時は江戸湾と言ったそうですが、横須賀の沖、東京湾入り口に海堡があります。海堡といま先生のお話の江戸を守るお台場と、建設の時期、あるいはどちらも幕府が手掛けたことではないかと思いますが、この関係、要するに二重の構えにしたのでしょうか。それとも海堡というのはまた別の問題ですか。
佐藤 いまご質問の海堡というのは第1、第2、第3海堡のことですね。あれは明治になってからですから、守るという意味ではそうだったかもしれませんが、時代がだいぶ違います。いま海堡で残っているのは、第1と第2が一部で、第3は撤去工事を国が一生懸命やっています。これは明治になってからの話で、日清・日露戦争、明治37、38年当時から、日本の海軍がだいぶ強くなってロシアをやっつけた、日本はロシアに勝ったと言いますが、当時の武力から言って、外国から攻められたら、日本は海軍だけで守れるかどうか自信がないわけです。
陸軍も奉天を占領して、やっと世界に日本という国があるんだなと思われている時期に、もし攻められたら日本は当時ロシアとまだ戦っていましたから、一面では危ないという、怖い時代でした。やはり天皇が皇居におられる東京を守るために、東京湾口に海の中、あるいは陸地続きの海堡をつくろうとして一生懸命明治政府はやろうとしました。特に第3海堡などは、せっかくつくっている最中に大正12年の関東大地震でほとんどが沈没してしまいました。それでずっと現代まで残っているのです。それをそのままにしておくと、東京湾口が非常に狭くて、1日平均700隻以上のコンテナ船や大型石油タンカーの大型船が出入りしますので、ぶつかったりあるいは沈没したりという危険があるので、国は今まで手をつけなかったものを、とうとう全部撤去するという工事を今懸命にやっています。
現実にかなり海堡の上部のほうは取りましたが、まだ下部は残っています。第2海堡もまだ一部残って、釣り人のいい場所になっています。
それから富津の沖の、陸地続きの第1海堡も日清戦争前つくったものはまだ残っていますが、いずれ撤去するようになるのではないかと思います。湾口が広がらない以上は、支障になるものは取らないわけにはいかないということです。いまご質問の品川台場とはまったく関係ありません。思想的には守るということで同じですが、時代がだいぶずれています。
司会 それではもう一方だけ、よろしくお願いいたします。
質問 おもしろいお話をありがとうございました。時間がないようですから、簡単に質問させていただきます。このお台場は何年から築造し始めて、何年にできたのでしょうか。明治維新まで15年しかなくて、黒船時代で非常に対応が早かったので、つくっている間に半分くらいまでいったのではないかという気がしますが、いかがでしょうか。
佐藤 ペルーが来たのは嘉永6年(1853)の6月ですから8月から手をつけています。場所にもよりますが、だいたい平均して10カ月くらいでできています。
質問 1年足らずでつくってしまったと。
佐藤 はい。最初の目標で発注して150日くらいでつくれというのが、幕府の最初の予定でしたが、やはり当時の技術力で考えると、いまで言う地盤の調査をもっとていねいにやらないとただ出洲があって、砂地は波に洗われやすいのですが、一つの枠の中に入れると意外と砂というのは固まりやすい面もあります。ですから第1、第2、第3はわりと早くできて、第5、第6ができて第4、第7は途中で中止になりましたが、併せても2年弱くらいでやったということです。
質問 それに関連して、備えた大砲です。まともな大砲は備わっていたのかということに興味がありました。拝見すると字が小さくて読みにくいですが、一応破裂弾と書いてあるのを見ると、弾を込めて着弾してから爆発するという新しい大砲のような気がしますが。その大砲を国産できるのはいつからですか。
佐藤 佐賀では文久2年(1862)ですから、1870年から1880年くらいです。ペリーが来たのが1853年ですから10年後には何とか体制ができたと言っていますが、アームストロングの一番すごい大砲をつくったのは文久3年(1863)くらいかと思います。何しろ研究というのが佐賀藩以外の藩にできませんでした。反射炉をつくったのは、さっきも申し上げましたように薩摩もやりましたが・・・。
質問 それはわかりますが、1853年にペリーがやってきて、2年ぐらいの間に台場をつくって、そのうえにアームストロング形式の破裂弾の弾を据えたというのは、非常に対応が早く、しかもそれを国産できたというのが非常に不思議に思えるのですが。
佐藤 普通に思えばそうですが、研究しているところはもっと早くから研究しています。幕府がやらなかっただけで、各藩の対応というのはもっと早くから勉強・実験していたわけです。
質問 海外情勢のことをかなり各藩ごとに調べていたか。
佐藤 たとえば長崎の年寄だった高島秋帆が江戸に呼ばれてもうやっています。(天保12年(1841)武蔵国徳丸原で洋式砲術の訓練を公開)あれはペリー来航の20年も前になってしまいます。結局古い体質の幕府が、いつまでも国産の古い大砲を使おうと言ったのは、井上・田村流という大砲の技術をやる専門家のほうが新しい取り組みをしていなかったということです。ですから高島秋帆は長崎の年寄役ですが、結構オランダとの交易の中で大砲などを自分で買い込んでいます。そういうことを後で幕府の目付、鳥居耀蔵に追求され捕らえられて牢屋に入れられてしまう。山のような先進的な考えをもった人たちは結構いたと思います。(佐賀・鹿児島・山口等の諸藩と水戸藩・韮山代官地など)
しかし幕府が採用しないから、ペリーが来てすぐつくって間に合うのかとなりますが、体裁だけは間に合ったんです。ということは、それよりも以前に湾内の測量なども太郎左衛門などが一生懸命やって測量していました。幕府から2カ月後にすぐつくれと言われて作業に苦難はあるものの、ここの位置なら砲台をつくっても大丈夫だという見込で工事はできたと思います。
質問 西国の大半のほうが幕府よりも進んでいたということですね。
佐藤 そうですね。
質問 どうもありがとうございました。
司会 どうもありがとうございました。それでは本日の講演はこの時間で終了いたします。皆様、どうもありがとうございました。
平成15年6月29日(日) 於:フローティングパビリオン“羊蹄丸”
講師プロフィール
佐藤正夫(さとう まさお)
昭和8年(1933) 2月26日生まれ。
昭和33年(1958)
4月 東京都港湾局に配属
以後、総務部、港営部、計画部等に配属
平成 4年(1992) 4月 東京臨海副都心建設(株) 審議役
平成 8年(1996) 4月 大豊建設(株)営業部営業部長
平成13年(2001) 3月 同上退職
その他
東京港開港50周年記念事業「東京港史」編纂委員
現在
日本港湾経済学会 評議委員
地方史研究協議会 委員
(財)東京港福利厚生協会 60周年協会史編纂調査役
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