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第3回 江戸防衛の最前線「お台場」
元東京都港湾局参事 佐藤正夫氏
 
司会 それでは皆様、大変長らくお待たせいたしました。ただいまより、「海・船セミナー2003」第3回として、本日は元東京都港湾局参事の佐藤正夫さんによる、「江戸防衛の最前線『お台場』」ということでお話ししていただきます。
 佐藤さんはプロフィールに書いてあるとおり、長きにわたり東京都の港湾行政に携われ、それがきっかけということではないのですが、お台場の研究を始められたそうです。いまではお台場と言えばこの人に聞けというぐらい、様々なところからお話がこられていると聞いています。本日はお台場築造の時代背景から現在のお台場の状況までお話ししていただきます。それでは佐藤正夫さん、どうぞお上がりください。(拍手)
 
佐藤 皆さんお休みのところ、大勢参加いただきまして大変ありがとうございます。私はいまご紹介いただきましたように、東京都の港の仕事に何十年か携わってきました。いまは二つしか残っていませんが、その中にある第3と第6台場といったお話ができればと思い、私も参加させていただきました。本当に暑い最中、大勢の皆さんにご出席いただいていますので、私の知る限り、一生懸命お話しさせていただきたいと思います。
・台場の全体像について
 さっそく始めさせていただきます。レジュメに番号をふっていますが、先に図面などざっと説明させていただいて、それからレジュメのほうに入ったほうがわかりやすいのではないかと思いますので、スライドのほうから先にお話し申し上げたいと思います。
 お手元にいま、表紙になっているものがありますが、そこにお台場と現在の図面を重ね合わせて、だいたいどういう位置関係にあるかを、先にご理解いただきたいと思います。
 ここに前列にお台場が第1、第2、第3と三つあります。後列が第4、第5、第6、第7で七つです。実際11基計画されましたが、幕府の財政もなかなか厳しくて、1、2、3の三つを先に手をつけて、その次に4、5、6、7と順番に手をつけました。途中で財政上非常に逼迫して、4と7は途中まで工事をやってやめてしまいました。現在は一列目第3と二列目第6の二つだけが残っています。実際は5基築造で、江戸を守るには非常に力が足りないのではないかという検討もされていました。品川の前に御殿山というのがありましたが、後に御殿山の下に御殿山下砲台というものをつくりました。後に名称が長いのでこれを第4台場という言い方もあります。
 これが大正4年の図面です。ここが浜離宮です。ちょうど新橋の前になります。明治5年に新橋というか汐留からずっと鉄道が敷かれて、横浜まで鉄道がつながります。その時点で見ると、台場は第1、第2、第3、それから後ろが途中までできた第4と第5、第6、第7、それから御殿山下がこの位置です。大正4年ですから埋め立てはそれほどできていませんが、浜離宮の南側、それから一部埋め立てが始まっています。
 明治の末から大正にかけての埋め立てというのは、東京の港というのは横浜の港とよく比較されます。将軍が江戸城におり、江戸に外国人が来てもらっては困るという意思が非常に強かった。1853(嘉永6)年にペリーが来ますが、貿易をやりたいというのがアメリカのねらいだったと思います。ペリーが来た理由はアメリカの捕鯨が第一で、鯨の油は光を灯す油等に使われるわけですが、太平洋の北側、アリューシャン列島沿いに、日本でいうと千島、北海道あたりまでずっと、あるいは日本近海まで捕鯨船がたくさんやってきました。当時アメリカの捕鯨船は世界一の数字だったと思います。
 ところがイギリスが中国、特に香港を中心とした貿易を一生懸命始めましたので、アメリカも遅れてはならずということで、日本を中継基地、漂流民の保護、燃料石炭、給水、食料の確保として貿易をやろうというねらいがあったようです。それは貿易をきっかけに日本と仲良くしようというのが、ペリーの役割だったと思います。
 明治になり、そういった関係からアメリカと修好条約を結びました。幕府の姿勢というのが、もともと外国人をあまり好き好んでいたわけではありませんが、仲よくしていかなければならない事情になってきて、港をつくろうという考えが出てきました。幕府は、江戸から遠いところに港をつくったらどうかというのが横浜港のスタートであるわけです。またそれは後ほどお話が出ると思います。
・台場の位置と形状
 江戸につくったお台場の形をざっと見ると、1番と2番はほぼ同じ形です。3番はいま残っているのと少し形が違って、南面側がとがっていまして直角になっています。4番もだいたい同じですが一回り小さい。これが5番で、6番、なおさらに一回り小さい。それから7、8、9、10、11台場まで計画していましたので、この五つの台場の形とはほぼ3と同じような形になっています。
 それから御殿山下の砲台はこのような形で、ほかの台場に比べて形が少し変わっています。その理由の一つは、背後に目黒川が流れていて、川が台場をつくる予定地の裏側を流れているような形です。一番陸地に近いところに御殿山下の砲台がつくられました。
 この図は東京港の平面図です。昭和33年の頃使っていた図面です。現在皆さん、地図をご覧いただくと地図は常に上向きになっているところが、方角としては北を指すと習われたと思います。私もそういう世代ですが、実は江戸の地図を見ると、もちろん江戸城を中心にして地図をつくっていて、必ずしも江戸の地図は上が北ではありません。だいたい右手、今でいうと東の方角です。
 現在使っている図面は、全部は北を指しています。いろいろ調べているうちに気がついたのは、南側が東京湾になります。お台場の南側の入り口、船をつけるところを波止場と言っていますが、お台場全体が対象形になっているという前提で考えますと、この線を結んだときに、地図で言う北の方角とどのくらいのずれがあるかを調べてみました。だいたい角度が30、25、25、30度です。この第4だけが一番陸地に近い関係もあって、少し角度が大きいようですが、だいたい30度内外くらいの方角に、正面がつくられています。
 どういうことかというと、東京湾のほうから敵が攻めてきたときに、常にそこが正面だという意識だろうと思います。全部同じではありませんが、そういう方角を考えて設計したということが言えると思います。
 これは皆さんお手元にある図面ですが、少し規模が正確ではありませんが、現在の図面にお台場がどのような感じか落としてみました。そうすると第1、第2、第3、ここが第4で、そして第5、第6と、感じとしてはこのようになります。どういうことかと言うと、後ほどお話し申し上げますが、第1と第5のお台場は、港湾の機能のため支障になるということで埋立中の造成地の中に入ってしまいました。
 2年前、港区の教育委員会のほうで、第1台場の一部の石垣について遺跡の発掘を行っています。この調査報告書は1999年に出ています。第4の位置に天王洲アイルという再開発でホテルなりオフィスなり、あるいは一部劇場などをつくっています。東品川2丁目になりますが、天王洲というすごい再開発が行われているところです。その角が第4台場で、通称「崩れ台場」という言い方をしています。
 ここにある第2台場というのは、今はまったくありません。東京港が扱う貨物量がだんだん増え、ちょうど東京湾の南のほうから東京港に向って、大型船が品川埠頭、あるいは芝浦埠頭に接岸するためにここに入ってきます。そうするとこの航路幅が非常に狭くて大型船に支障をきたす、航行するうえで第2台場の位置が具合が悪いということになります。
 したがって第2台場を全部撤去する工事が行われました。残っているのが第3と第6台場だけです。
 東側に一部点々で囲って書いてありますが、第7台場は石垣まで詰めないで、土砂を少し入れたぐらいで工事が終わってしまいます。この地図を見ますと、ここに運河があり、運河の出入り口になり航行に支障となるのでこれも全部とってしまいました。芝浦から臨海副都心のほうに行くレインボーブリッジができて、レインボーブリッジの橋の歩道から第6台場あるいは第3台場を十分時間かけて見ることができるようになりました。
 それから天王洲アイルのさらに陸地側ですが、ここは御殿山下砲台で、ここに目黒川が蛇行して東京港のほうに流れ込んでいます。すぐ川を渡ったところに、半分くらいの大きさがお台場小学校の校庭になっていて、ここは一部石垣が陸上に顔を出しています。上を平らにして小学校の校庭に使っているという状況です。
 第1、第2を飛ばして第3、第4を見てみますと、実はここの直角形はさっきお話し申しましたが、だいたい正方形に近いです。形状は5方5割という言い方をして、5辺で、最後の北口(波止場)を入れると五つの辺ということになります。第4台場も5辺になりますが、形だけご覧いただいても、だいぶ違うという感じをおもちになられると思います。後ほど台場に入っている施設の説明をしますが、形だけご覧いただきます。あと、気をつけるとなると、台場の周辺に柵のような絵があると思います。第4のほうはそういうていねいな書き方ではなくて、いかにも丸太を打ったという黒い丸ポツが二重になって書かれています。これも後ほど、また柵についてお話しいたします。
 同じように形は、だいたい5から6の辺をもった形です。特に5番や6番はまったく同じで規模が違うだけです。真ん中には休息所と書いてありますが、これはお台場の守備をする兵隊たちが、ここで泊り込んで敵の船が来たときに、すぐに対応できるようにということで、陣屋とも言っていますが、休息所は台場のだいたい真ん中につくられていました。
 皆さんのお手元には、お台場の設計予算額や施設の一覧表もついていると思いますが、それはまた後ほどお話しいたします。品川台場の備砲というのが書いてあるものが入っているかと思います。要するにお台場とは何かと言うと、「御台場」と言うように「御」の字がついています。これは幕府がやった仕事なので、尊称して「御」の字をつけています。ですから普通は台場で通るわけです。それから日本全国にお台場がどれくらいあったかというと、あまり詳しいデータがないのですが、史料を一応集計してみると1000弱くらい各藩で、自分の領地を守るためにお台場(陣屋を含めて)をつくっています。
 このお台場というのは、品川にあるお台場と違ってそれほど頑丈なものではなくて、だいたい土で土壁をつくって、そこに大砲を置く程度のものがたくさんあります。品川のように本格的に石を積んで、守るという形のものは大変少なく、ほとんどないくらいだろうと思いますが、幕末になっていろいろな新しいヨーロッパ形式の、お城の形式をとったものが出てきますが、当面この品川が海の中につくった砲台ということで、注目を浴びているところです。この図面は何を表しているかというと、幕府がつくった台場、砲台を置いてある場所、あるいはそこの陣地を構築している場所というような意味合いで、お台場とついているようです。







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