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2004.03.07 シンポジウム東京 佐藤彰一
 
はじめに
 自閉症児・者の法律問題といえば、施設や学校での虐待・不当処遇、就労施設での賃金差別や犯罪被害などがすぐに思い浮かびますが、広く地域生活をしていく自閉症児・者の法律問題も数が多く、サポートも必要になります。
 たとえば、中・軽度の人であれば、訪問販売業者の餌食になる、サラ金の金を借りさせられる、携帯の使いすぎで多額の請求が毎月来る、などなど、一般の消費者被害と呼ばれるものが、ほとんど事件として登場します。これは被害者サイドの事件ですが、通勤、通学途上で痴漢と間違われる、人を押し倒してしまうなどの「加害サイド」の事件も地域生活では発生します。
 それだけではありません。本人をサポートする家族や支援者・施設職員が関わる法律問題も、実は自閉症児・者の抱える法律問題と不即不離の関係にあることが多いのです。親が離婚や多重多額債務者問題を抱える場合、これは自閉症の子供にとっても重大事です。親が子供の年金や預金を当てにするなどのケースは多くの関係者が経験していることでしょう。親の問題は子供の問題とは違うなどとは、とても思えません。さらに施設との契約、相続問題、医療機関の代諾など、後見問題をめぐる問題が山ほどあります。
 
長崎事件の視野を広げる
 長崎の事件はわれわれ自閉症児の親にとっては衝撃的なものでした。その中で、焦点はどうしても少年法の手続、つまり大人の世界でいえば、刑事手続に当てられがちです。少年の責任能力、手続への被害家族の関与のありかた、手続の公開、実名報道のあり方、など確かに重要な問題が多くあります。
 しかし、少年法の手続は、あくまで少年の処遇をどうするかに視野を限定した手続です。くわえて、長崎事件だけを素材にして、自閉症児とその家族の問題を扱うのは、地域生活全般で生じているもっと日常的なトラブルへの対処を見誤らせるという意味で適切とは言いがたい面もあります。そこでこのシンポにおいて、私は、少し少年法から外の世界へ視野を広げてみようと思います。
 
ケース1
 男の子の場合、女性への関心がどうしてもあります。そこで街中をあるいているときに、思わず女性のアトをずっとくっつくように歩いてしまうとか、触ってしまうということがあります。相手の女性は、当然、気味が悪いし、触られれば怒ります。場合によれば手で跳ね除けるなんてこともありましょう。それだけのことですめば、しかしそれでよいのですが、警察へ連れて行かれるなんてこともあります。警官に理解がある場合は、これもたいていは大過なくすみます。
 しかし相手の女性が、精神的にダメージを受けたと主張して損害賠償を求めてきたらどうでしょう。警察はこの問題には介入しません。基本的には民事不介入の原則を取っているからです。
 触ったことは確かに悪い。それは謝罪しなければならないし、本人が、これから地域生活を送る上で、そういう行動パターンは可能な限り是正していく必要があることです。でもそれで、100万円を請求してみたり、親戚一同を地方から呼び出す航空運賃を請求してきたり、さらには自分が歩く可能性のある道や場所には、当該自閉症児・者とその家族は現れるな(精神的ショックが復活するから)、というような請求をしてきたらどうでしょう。こんな要求がそのまままかり通るようでは、自閉症児・者とその家族は、地域生活を送ることができません。
 現実例では、相手方に弁護士さんがつきました。法律家ですから、「道を歩くな」要求は引っ込めてくださいました。でも精神的ショックの100万は請求してこられました。女性の精神的な被害が大きいというのです。なぜ大きいのでしょう。触って少しもみ合ったようですが、たいした怪我らしいものはなく(軽い打撲の診断書は出してこられましたが)、100万円は、ほとんどが精神的ショックを理由にするものです。そして、ご本人だけでなく弁護士ですら、こんな事件だとひどい精神的ショックを受けて当然だと思っている。私にとっては、こちらのほうがショックでした。
 たしかに謝罪は必要な事件なのですが、100万もの請求は過大です。私は、被害者の方は、自閉症の男の子がとても気持ち悪い存在に見えているのではないかと思っています。なにをするのかが分からない人間が、その辺をうろちょろ歩いている、そう思っただけでぞっとする、だから落ち込む。そういう思考をされているのではないかと思っています。それが、しかも担当弁護士さんにも共感を得ている。どうしてそうなのか、こちらの方がショックでした。
 
ケース2
 ときおり前を歩いている人を後ろから押したり、突っついたりする自閉症児・者もいます。理由はわかりません。自分の視界がさえぎられるのがイヤなのか、あるいは急いでいるのに邪魔なのか、本人にはそれなりの理由があるのでしょう。でも押された人はびっくりします。階段であれば、転げ落ちることもあるでしょう。駅の中であれば、運悪くプラットホームから落ちてしまうなんてこともありえます。誰しもぞっとします。押された人、落ちてしまった人は、さぞかし怒り心頭に発することでしよう。でも擦り傷程度ですんで、ことなきを得ている場合に1000万円の請求をしてきたらどうでしょう。どうしてそういう計算になるのかよくわかりませんが、「治療費」とか「慰謝料」を積み上げてくる手法をとるようです。
 こうした事態は発生しないに越したことはありません。見守りがいれば、ほぼ防げることです。家の中でも24時間、見守りがいるなんて状態は監獄のようでどうかしていますが、外出時に事故がおきないようにすることはむしろ必要です。でも通勤・通学となると毎日のことです。親御さんも大変です。ケース1の場合は、親御さんが毎日、いっしょに付き添って駅までいっていたのですが、たまたまお父さんが駐輪場で自転車をおくのに手間取って、駅の中で独りになった朝方に発生したものです。でもケース2は、もっと自立している方で、一人で通勤できる状態でした。ときおり駅でトラブルを起すことがあるので、親御さんが一緒に会社までついていった時期もあるのですが、大変ですし、ガイドヘルプもお金が掛かります。そんな状態の中、駅でお婆さんを後ろから押して、お婆さんが、プラットホームから落ちてしまったのです。この事故のあと、社会福祉事務所へガイドヘルプの支援費の要請をしても「必要がない」という理由で却下されています。
 
チャンス?
 長崎のような事件は悲劇ですが、それほど多くはないでしょう。しかし、ここに紹介したようなケースは、日常的にあるはずです。長崎事件の関係ではアスペルガーの方がとくに話題になっていますが、ここに紹介した二例は、アスペルガーの方ではありません。
 こんな事件も、きっかけさえつかめれば「被害者の方」に自閉症児・者への理解を深めてもらい、ともに生活できる街作りの味方になってもらえるチャンスになるのですが、あまりに過大な要求をされるとそれも困難です。そしてそんな過大要求をする人が増えているように思います。
 マスメディアの活動や、親御さんたちの活動を通じて、自閉症児・者の理解が確実に広がりつつあるのですが、同時に、暖かい眼差しだけが広がっているわけではないと思わざるを得ません。社会が変化していると感じます。
 私は、これはチャンスだと感じています。療育上の苦労話、施設での虐待、賃金差別に戦う話などを通じて、人々の感動を呼び起こし理解の輪を広げていく、これはもちろん必要なことなのですが、同時に、地域で生きる以上、健常者と同じようにトラブルに遭遇し、トラブルを起す現実があるのですが、もう一段、深いところでの理解を深める機会をこうした事例が与えてくれているように思います。トラブルに対処することを通じて、そうした理解が深まるように思います。
 
トラブルへの対処の前に
 しかしトラブルに対処するといっても、親だけが対処するのは限界があります。また親だけで対処しなければならない責任もないように思います。いくつか前提的なことがらを確認しておきましょう。
 
1)親であることは犯罪ではない。
 長崎事件が起きたときに、ときの大臣の一人が、「そんな子の親は市中引き回しのうえ打ち首獄門にしてしまえ」と発言したことが報道されています。もちろん誰も支持者はいなかったと思いますが、発言内容が間違っていることが問題であるだけでなく、そんな人が大臣を勤めていることが問題です。
 もちろん子供の犯罪に対して親が刑事責任を問われることはありません。
2)民事の責任は一義的には決まらない。
 法律相談を受けていますと、相談者の方の中には、結論を急ぐ方が多くいらっしゃいます。しかもたどり着くべき結論は、一つしかない、そのように考えている方が多いようです。もちろん、そんな分かりきった事案も中にはあるのですが、多くの場合(弁護士のところまでくるようなものはみなそうだと思いますが)、そう単純ではないことが多いのです。
 慰謝料の額は、誰が責任を負担するのか、どこまでの治療費を負担するのか、そのケースによって微妙に揺れていきます。法律の条文も一義的な結論を示してくれることはむしろまれです。このことは決して否定的に評価されることではなくて、事案に応じた解決や手続を可能にするという意味では社会的に有用なことです。
 
親の責任?
 長崎事件では、裁判所の決定文が公開されました。これは異例のことですが、私はこのことは支持したいと思います。妙な形で一部分だけ公開されるのは、むしろ好ましくないと考えるからです。
 その決定文をみると、親御さん、とくに母親への糾弾とも思える文章があります。これは親から離して処遇する結論を導くために書かれたのではないかと推測しますが、この部分は、不適切ではないかと考えます(もちろん公開されないと、この指摘自体ができないのですから、裁判所の公開は支持した上です)。
 司法手続に親が非協力的になるのは、なぜか。子供の歴史は、親の歴史でもあります。事件がおきたあとの親の態度だけをみて、糾弾するのは、子供に対する場合と同様、一方的であるように思います。
 長崎事件の場合には、公開されているのは決定文だけですので私には、より詳細な事柄が分からないのですが、先に紹介したケース2の場合、事故が起きたあともガイドヘルプの支援費申請が否定されています。そうすると親か子供本人(成人です)がその費用の全額負担を強いられるのですが、毎日のことですから負担できるものではありません。そうすると子供が就労を諦めるか、親が就労を諦めるか、そのほかの対応をとるのか、いずれにしても家族にとっては大変な事態となります。親や家族はそこまで責任を負担しなければならないのでしようか。親の扶養義務、責任を今一度、考え直す時期にきているように思います。地域で支えることは、親が支えることを意味していないのですが、現実にはなかなかそうならないです。脱施設と脱家族のために方法を考える必要があるでしょう。
提案:
1、公的扶助としてトラブル対処、それを公的機関の義務と考えてはどうか。
2、権利擁護の保険ないし互助的な制度を整備してはどうか。
3、もっと詳細なケース研究が必要ではないか。







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