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浦賀マリンポート・コーチヤの概況
 横須賀市は、中央部にある大楠山・武山を中心とした複雑な丘陵が海岸に迫り、市域内の平坦地は少ない。東京湾側には重要な港湾施設が多く、相模湾側は風光明媚な海食地帯、砂浜、岬などにより構成されている。気候は温暖で、澄んだ空気と豊かな緑に包まれている。
 
 中世に源頼朝が鎌倉に幕府を開いてからは、浦賀は港として重要な役割を果たすようになった。近世になり、家康が江戸に居城を移してからは、家康は浦賀の港を貿易港として利用。その後、江戸の発展にともない、全国から江戸へ向けて船が来るようになると、享保5年(1720年)下田から浦賀へ奉行所を置き、江戸へ出入りする船すべてを検査するようになった。江戸時代も終わりに近づくと浦賀沖に黒船が姿を見せるようになり、鎖国政策を取っていた我が国にとり、江戸を守るため浦賀奉行所に海防の役割が加わった。
 マリンポート・コーチヤは、よく保全された自然林で木々の種類が豊富なために県指定記念物となっている明神山の裾野に位置します。海上バースと120艇収容可能な陸上バースを持ち、2階には青く美しい太平洋を一望できるレストランがあります。
 
 
うらり(三崎漁港)ゲストバースの概況
 三浦市は、神奈川県三浦半島の最南端に位置し、三方を海に囲まれ温暖な海洋性気候で、海岸線は約50kmです。その一部は海水浴場として適しているが、大半はリアス式海岸線で、美しい入江を形づくっています。蒼い海と豊かな緑、そして輝く太陽に恵まれています。
 
 
 江戸時代には、地理的条件に恵まれ、江戸の繁栄とともに栄えました。その後、黒船が渡来するに至って、彦根、長州、熊本などの各藩が相次いで警備にあたり、当時、この警備を行った海防陣屋は、現在の南下浦市民センターの所です。
 また、次第に海上交通が発達し、城ヶ島の東端、安房崎に警備用の「のろし台」が設けられ、その地に、“お備場”(砲台)が造られました。その後、今の灯台の位置に灯明台が建ち、ここに明治になって現在の城ヶ島灯台が建設されました。
 三崎漁港には、入港するプレジャーボート・ヨットと漁船とのトラブルを防止し、漁港の秩序維持を図るため、プレジャーボートの一時係留のためのゲストバースを2箇所設けています(もう一方は「みうら・宮川フィッシャリーナ」)。そのうちの一つがこの三崎漁港ゲストバースです。
 
下田港の概況
 下田市は、伊豆半島の東南部に位置し27kmにも及ぶ変化に富んだ海岸線は、黒潮のため四季を通じて温暖で、花卉、柑橘栽培に適し、水産資源も豊富です。市の中心街は、稲生沢川下流地域に広がり、河口にある下田港は深い谷間が陥没してできた天然の良港で東西海路の中で重要な位置を占めています。
 
 安政元年(1854年)黒船を率いたペリー提督来航による下田開港、了仙寺において下田条約の締結、プチャーチンによる日露通好条約締結、日本最初の米国領事館設置など、近代日本の幕開けとなった幕末外交上の出来事が下田を舞台に繰り広げられました。安政6年(1859年)には、横浜開港に伴い下田開港は閉鎖され、衰退したが明治に入り石材、薪炭、糸繭等の拠出港として復興に向い、その後、昭和初期まで風待ち港町として栄えました。
 1854年、ペリー艦隊の入港、碇泊により、わが国最初の開港場となりました。吉田松陰が金子重輔とペリー搭乗のポーハタン号に乗りつけ、便乗を懇願し拒否されるという、幕末開国の舞台ともなりました。港内には黒船を型どった遊覧船が就航し、石廊崎、伊豆七島への船も出ています。黒船祭には花火大会の舞台となり、漁船の基地としても有名です。
 下田の「黒船まつり」は5月、ペリーの黒船来航を記念して毎年行われる国際色豊かな祭典です。開国記念碑前での式典、米海軍音楽隊を先頭にしたパレード、花火大会など多彩な行事が繰り広げられます。
 







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