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 東京財団研究推進部は、社会、経済、政治、国際関係等の分野における国や社会の根本に係る諸課題について問題の本質に迫り、その解決のための方策を提示するために研究プロジェクトを実施しています。
 
 「東京財団研究報告書」は、そうした研究活動の成果をとりまとめ周知・広報(ディセミネート)することにより、広く国民や政策担当者に問いかけ、政策論議を喚起して、日本の政策研究の深化・発展に寄与するために発表するものです。
 
 本報告書は、「安楽死の研究」(2003年10月〜2003年11月)の研究成果をまとめたものです。ただし、報告書の内容や意見は、すべて執筆者個人に属し、東京財団の公式見解を示すものではありません。報告書に対するご意見・ご質問は、執筆者までお寄せください。
 
2004年7月
東京財団 研究推進部
 
 2001年4月10日制定され、翌2002年4月1日施行されたオランダの「安楽死法」(以下、「改正法」または「本法」ということもある。)は、安楽死を明文の規定をもって合法化した、世界で初めての画期的な法律である。安楽死問題を研究するにあたっては、安楽死の最先端を象徴する同法の立法に至る経緯および同法の内容を知ることが不可欠であるが、私は、前者については、「安楽死とオランダ法」(判例時報1499号3頁以下)、「安楽死合法化の根拠と要件(上)」(同1555号156頁以下《判例評論446号2頁以下》)、「同(下)」(同1558号156頁以下《判例評論447号2頁以下》)において、後者については、1999年8月9日オランダ国会・下院に上程された同法の法案の内容を、「オランダにおける安楽死立法の新動向」(同1647号12頁以下)、「安楽死についての新動向―オランダから―」(捜査研究576号44頁以下)、「安楽死についての―考察―日・蘭の理論と実務を比較しつつ―」(法律時報55巻2号2頁以下)等において、できるかぎり主観をまじえず、客観的に紹介した。
 その後、同法案はオランダの上・下両院の審議を経て成文法となった。骨子において、法案と相違はないものの、細部にわたってはかなり修正が施されている。
 そこで、本稿においては、今夏の訪蘭による調査を踏まえ、成文法となった同法の内容を概説したうえで、主として安楽死の違法性阻却事由化という関点から、同法の解釈・運用上の問題点、最近の同国の安楽死の実態につき検討を加えてみる。さらに、以上の検討をベースにして、わが国の安楽死について若干の提言をしてみよう。
 
 オランダ政府の英文テキストによれば、2001年4月10日成立した通称「安楽死法」の正式名称は、
 「要請による生命終結及び自殺幇助の審査手続並びに刑法典及び埋葬・火葬法1の改正に関する法律 (Review procedures for the termination of life on request and assisted suicide and amendment of the Criminal Code and Burial and Cremation Act)」
であり、これを引用する場合は、
 「要請による生命終結及び自殺幇助(審査手続)法( The Termination of Life on Request and Assisted Suicide ( Review Procedures ) Act )」
の略称を用いるものとされている(24条)。
 同法は、
第一章 定義(1条)
第二章 注意義務の基準(2条)
第三章 地方審査委員会(3条〜19条)
第四章 法の改正(20条〜22条)
第五章 結び(23条、24条)
の5か章、24か条によって構成されている。
 冒頭の第一章は本法で後いられている用語の定義で(1条)、末尾の第五章は本法の施行日(23条)と本法の略称(24条)に関するもので、いわば総則的な条文であるが、各則的部分は、既存の法律の改正(第四章)とそれ以外の新しい内容の条文(第二章、第三章)が盛り込まれている。本稿の主題は、同法が安楽死を違法性阻却とする規定を設けたことであり、その主題との関連においては、第四章が最も重要であるが、第二章および第三章もそれに準じた重要性をもつ。
 同法第四章は、第20条により刑法の、第21条により埋葬・火葬法の、22条による行政総合法の各一部改正を規定しているが、そのうち刑法については、次のような改正を規定した。すなわち、改正前のオランダ刑法293条は、嘱託殺人罪につき、「他人の明示かつ真摯な嘱託に基づきこれを殺した者は、12年以下の拘禁刑又は第五カテゴリーの罰金に処す」と規定し、同法294条は自殺関与罪につき、「人を教唆又は幇助して自殺させた者は、3年以下の懲役または第四カテゴリーの罰金に処す」と規定していた(この両構成要件は、わが国のそれとほとんど同じである(日本刑法202条))。改正法は、まず、293条につき、従前の規定を1項とし、2項として、「要請による生命終結及び自殺幇助(審査手続)法第2条に定める注意義務の基準を満たす医師によってされ、かつ当該医師が埋葬・火葬法第7条2項に従って市の病理学専門家に報告したときは、前項に定める行為は犯罪にならない (The act referred to in the first paragraph shall not be an offence if it is committed by a physician who fulfils the due care criteria set out in section 2 of the Termination of Life on Request and Assisted Suicide (Review Procedures) Act, and if the physician notifies the municipal pathologist of this act in accordance with the provisions of section 7, subsection 2 of the Burial and Cremation Act.)」という規定を新設した。
 次に、294条については、従来、一個の条文に規定されていた自殺教唆罪と自殺幇助罪を二つに分け、前者を同条1項とし、後者を2項として、「意図的に他人の自殺を援助し又はその手段を提供した者は、その自殺がなされた場合、3年以下の拘禁刑又は第四カテゴリーの罰金刑に処する。第293条第2項は、所要の修正を経て適用される。(Article 293, paragraph 2 shall apply mutatis mutandis.)」という規定を新設した。
 293条2項が新設し、これの準用を認めた294条2項後段のいう「注意義務の基準 (The due care criteria)」とは、医師の遵守事項として、改正法2条1項に定められた次の六項目である。
1. 患者の希望が自発的なものであり、熟考の末であることを確認する。
2. 患者の苦痛が耐えがたいものであり、改善の見込みがないことを確認する。
3. 患者に状況を説明し、今後の予想を伝える。
4. 患者とよく話し合い、双方がほかに適切な解決方法がないと納得する。
5. 患者にかかわりのない他の医師少なくとも1名の意見をきく。相談を受けた医師は患者と面接し、上記1〜4について注意義務基準が満たされているとみなす旨を書面にする。
6. 患者の生命を終結させる、あるいはその自殺介助を行うについて、適切かつ慎重な医療を実施する。
 この注意義務の基準は、安楽死を事実上合法視する契機となった1984年の最高裁判判例以来の判例法、王立医師会等で作成された安楽死実施の際のガイドライン、1993年に改正された埋葬・火葬法10条に基づく規則(Decree)等によって形成された安楽死合法要件を集約したものであり、可決・成立した同法の上では、法務省および保健福祉スポーツ省が作成・上程した同法案(その内容については、前掲拙稿「オランダにおける安楽死立法の新動向」参照)よりも、より厳しいものになっている。
 次に、改正法第3章は、手続的規定として、オランダ刑法293条2項の嘱託殺人および同法294条2項の自殺幇助の行為について、医師からの報告が前記の注意義務基準に合致しているか否かを審査させるため、地方審査委員会を設置する旨の規定を設けた。委員は、問題に対して法律、医学、倫理の各方面から適切な判断が下されるようにという配慮から、法律家、医師、倫理の専門家の中から、法務大臣および保健福祉スポーツ大臣によって任命され、また、委員会の意見は多数決で決せられるようにするため、奇数の人数で構成される。世界的にユニークなオランダ式の安楽死審査制度の誕生である。
 安楽死、自殺幇助行為がなされた場合の通知手続は、埋葬・火葬の改正(改正法21条)等により、次のように行われる。
1. 不自然死について、医師はそのつど、市の病理学専門家に通知する。当該不自然死が安楽死や自殺幇助の場合は、特別の形式に基づく報告書を提出することになる。(従来(同法の法案段階でも)の通知は検死官(Coromer)であったが、国会審議の過程で、病理学専門家(Pathologist)に改められた。)
2. それを受けた病理学専門家も、患者の死が自然な原因でないことを明記した報告書を作成する。
3. 地方審査委員会は、上記二つの報告書に、担当医師から相談を受けた中立の医師による書類を加えて、これを受け取る。
4. 同委員会は、医師が注意義務基準に従って行動したかどうかを評価する。医師の行為が基準に合致していると判断すれば、医師に対してそれ以上の追及は行わない。委員会の仕事は注意義務基準が遵守されたか否かを査定することにあり、検察官の役割を肩代わりするのではない。
5. 委員会が、医師が注意義務基準を遵守しなかったと判断すると、その旨が検察庁と保健検関庁に報告される。報告を受けた二機関は、医師に対して何らかの追及を行うかどうかを検討する。
 この手続構造によれば、安楽死・自殺幇助を含めた不自然死については、従来、検死官から、直接、検察官に報告させていたものが、病理学専門家から地方審査委員会へ報告させることによって、医師と検察官の間に同委員会が介在し、注意義務基準遵守の有無の判断を第一次的に同委員会に委ね、同委員会が、当該報告が注意義務を満たしていると判断した場合は、検察官の捜査の対象からはずれ、同基準を満たしていないと判断した場合のみ検察官の捜査の対象になることを意味する。
 以上を要するに、安楽死・自殺幇助の要件(注意義務基準)を決定し、医師が安楽死等を実施するにあたってはその要件を遵守するものとし、安楽死を実施した場合はそれを報告させ、地方審査委員会が当該安楽死等の当否を事後的に審査し、その審査によって合法と認められないケースのみが刑事訴求の対象となるという仕組みなのである。安楽死等を実施しても、この実体的・手続的要件が整えば、その違法性は阻却され、合法視されることになったのであり、その結果、医師は、右の要件さえ充足していれば安楽死等の行為を公表しても不利益を受けることはないとの安心感を生み、公然と安楽死等の行為に及ぶことができるし、患者は死に追いやられる不安を抱くことなく、同時に尊厳ある死を求めることができるようになったのである。
 かくして、オランダは、一方で非合法としながら他方でこれを許すという矛盾する従来の運用から一歩前進して、明文の規定をもって、一定の安楽死を合法化するという、世界で初めての画期的な挙に出たのである。
 

1 従来、オランダ語の de Wet op de Lijkezorgimg の公式英語表記は、the Act of the Disposal of the Dead であったので、前掲拙稿の日本語訳としては「遺体処理法」としていたが、本法の公式英訳は the Burial and Cremation Act とされているので、日本語訳も「埋葬・火葬法」に変えた。原文に変更はないが、英訳に変更があったことに伴う日本語訳の変更であるにとどめる。







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