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世界中から良いところを選んだ明治日本
 マレーシアにあるマラヤ大学でスピーチをしたときのことです。
 マラヤ大学の教授がずいぶん威張っているので、聞いてみるとみんなオックスフォード、ケンブリッジ、つまりイギリスの大学卒を自慢にしています。「アメリカ帰りとか、ドイツ帰りはいないのですか」と尋ねると、「いません」という返事です。「じゃあマラヤ大学は、ドイツ語、フランス語、スペイン語のコースはないのですか」「まったくありません。イギリス・オンリーです。最近少しアメリカ」。
 なんだ、それでは植民地時代と同じではないか、せっかく独立したのにと思ったので、こんな話をしました。「独立して四〇年もたつのに、なぜイギリスの植民地時代のままなのですか。日本を見なさい。明治の一番最初に帝国大学をつくった瞬間から英語、ドイツ語、フランス語、中国語、全部つくりました。そして全部比較したのです。比較して、良いところだけとったのです。イギリスを相対化しないで、イギリスだけで済ませているのでは学問と言えないでしょう。植民地のままですよ。独立精神がないのですか」
 日本の独立精神に学んでほしいと思いました。日本は明治維新のあと、帝国大学をつくるとイギリス人もフランス人もドイツ人も中国人も、みんな呼んできて、相場の三倍ぐらいの給料を払って教えてもらいます。フランス人の先生はフランス語の教科書をフランス語で教えます。だから生徒はフランス語でノートをとりました。他の言葉も同様です。そうしておいてから、後で全部比較し、一番良いものだけを選んで一番良い日本をつくったのです。そして、三倍の給料は高いから、さっさと帰ってもらったのです。
 そんな話をしてから「皆さんが一つで済まそうと思うのなら、日本語にしたほうがいい。日本語は世界で一番便利な言葉です。それこそアリストテレスやプラトンから、お釈迦様の話まで全部日本語に翻訳されている。日本語一つで世界がわかるのです。英語一つではわかりません。なぜなら、イギリスの悪口は書いていない。英語だけで見ていると、イギリスの悪いところがわからない。日本へ来てごらんなさい。イギリスの悪いことを書いた本もあるし、イギリスの良いところを褒めた本もある。日本は何でもあります」と話を続けました。
 明治の人は偉かったと思います。独立精神がありました。その結果、我々は世界中から良いところをみんな取ってきて、それが普通の教養になっています。だからアリストテレスを読んでも、カントを読んでも、どこかで聞いたような話だなと思うのです。今さら勉強をしなくても知っている。お釈迦様もそうです。孔子、孟子もそうです。なぜだか知らない間に知っている。日本人がそういうセンスの持ち主になっているということは世界の七不思議の一つで、やはり先人に深く感謝をしなければいけません。
 「日本語のコースをつくりなさい」と言うと、「それは外務省のOBの方がボランティアでやっています。我々には日本人に給料を払う力がありません」と言うから、「それが情けない。三倍払って三倍勉強しなさい。それが日本に学ぶということだ」と話しました。この話に感心しないようではダメですね。
 
まず日本の中で考えよ
 最近、日本でもそういう独立精神が消えてしまったのではないでしょうか。
 英語ができたら、もうそれで済んだと思っている。ハーバードで習ったことをそのまましゃべっている。学生ならそれでもいいのですが、大人がすることではありません。「日本人のほうが賢いですよ」と言いたいことが、私にはたくさんあります。
 ですから思想の独立が必要です。まず、日本人は日本の中で考えるのです。すると日本スタンダードができる。日本スタンダードが劣っているとは限りません。日本の中ではそれが一番良いのです。世界に通用しないという人がいますが、そんなことはありません。世界はイギリスとアメリカだけではありません。日本と事情を同じくする国には自然に広がります。事情を同じくするとは、例えば共同体精神があることです。
 民衆が信じている常識を「俗信」と言います。俗信に対立する言葉は、理論、学問、高等宗教などです。高等宗教と言っても、自分で自分のことを高等だと言っているだけです。理論や学問と言っても、自分で自分の理屈が正しいと言っているだけです。
 高等宗教はやがて俗信に負けていくのが過去の教訓です。完全に負けて俗信化してしまうか、あるいは俗信を取り入れたものだけが、いま生き残っています。理論や学問、つまりここ一〇〇年ほど「我高し」と振る舞ったアカデミズムも、いずれ同じ道を辿ることになるでしょう。そんな話をすれば、いくらでも例があります。
 最近ではアメリカの理論、経済学、その他を「自分はマスターしている。みんなこれに追いついてこい」と言っている人がマスコミをにぎわせていますが、しかし現実を見れば、日本の大学の経済学部は来る学生がいないのです。偏差値がどんどん下がっています。経済学なんか習ったってしょうがないと国民はわかっているのです。
 だから教授はますますいきり立ってしまいます。「近ごろの学生は勉強ができない。学力低下だ。基本を知らない。自分が叩き込んでやる」と授業をする。だれも来ない。「もっと面白くやってくれれば、聞いてあげる」といった調子ですが、教授には面白くする力がありません。
 経済学というのはそもそも二〇〇年前フランスやイギリスで誕生したもので、それを今日に当てはめようとしても無理があります。アメリカでもこの二〇〜三〇年、ろくな経済学はできていません。つまり、みんな旧製品です。
 日本は「日本の経済学」をつくらないといけないのです。「日本の経済学」をつくろうと心を入れかえれば良いのです。それが独立精神です。しかし、やろうとしません。
 この間、著名な外交評論家と二時間ほど対談をしました。ところが、相手の言う意見は全部ワシントン情報なのです。私がそれ以外のことを言っていると、ある瞬間その人が「えっ、そんな意見は読んだことがない」と言ったのです。
 「そりゃあそうでしょう。私が考えたことで、まだ発表してませんから」と言うと、その人が絶句してしまったので、こちらも絶句してしまいました。
 想像するに、彼はワシントン、ロンドンその他のありとあらゆる文字になった情報は全部読んでいる、友達もいるからたくさん意見交換している、それゆえ自分は国際情勢分析家として日本一であると思っているのでしょう。そこへ、日下は手づくりの話をするとは何事だ(笑)。
 誰だってみんな手づくりのことをそれぞれ言っているのですが、では私がアメリカ人だったらいいのでしょうか。私に何かアメリカやイギリスの肩書がついていれば、一生懸命「これは新情報だ」と収集して、外務大臣に報告するのかな、と想像しました。日本人の意見では外務大臣には上げられない(笑)。外務省では一番話のわかる、つき合いの広い人だと思っていたのですが、やっぱり情報分析官とはそういうものかなと寂しく思ったことがあります。
 結局、独立精神がないということです。独立精神があれば、自分で何か思いつくはずなのです。
 
自説がなければ何も始まらない
 こんなエピソードもあります。都留重人という経済学者は、私より二十歳ぐらい年上ですが、一世を風靡しました。新聞も最高の待遇をし、一橋大学の学長にもなりました。私も一生懸命読んだのですが、あまり感心したことがないのです。感心しないのは、きっと私が悪いのだろうと思っていました。
 ある会合でそういう話が出たとき、某官庁で局長次官になった人が、自分はフルブライト奨学金でアメリカの大学へ行ったとき「都留重人来る」という看板が出て、アメリカの学生たちが「それは聞かなくてはいけない。都留重人はアメリカでも有名な人だ。とんでもない秀才だったという評判がある。この人が『アメリカがつくるべき新しい経済学』という題で話をするのだから」と、大入り満員。自分は日本人の一人として光栄に思って聞きに行ったが、何だかよくわからなかった。終わったあとアメリカの学生たちが話しているのを聞いて、「なるほどそういうものか」と思ったというエピソードを話してくれました。アメリカの学生たちの評判は、「あの人はA説、B説、C説を克明に解説して並べてみせただけだ。それを踏まえた自分の説を全然言っていない。自分がない人だ。秀才というよりも、ただの高校生みたいな人だ。きょうは失望した」。
 そこから先が面白いのですが、「自説がないから批判もできない。A説、B説、C説を批判するとき、A説をもってB説を批判し、B説をもってC説を批判する。しかしそれは自分の責任でやっているわけではない。自分の立場からのA、B、C批判を、あの人は一言もやっていない」とアメリカの学生が言ったというのです。
 そこまで見抜くとは「アメリカの学生は大人だな」と私も感心せざるを得ません。自説がないから批判がない。批判がないから前進がない。前進がないから今日は損したと言ったそうです。その通りです。
 思想の独立がなければ何事も始まりません、というのが言いたい結論です。
 ところで都留重人さんには名言があります。一橋大の学長になったばかりの頃だと思いますが、「日本には経済学者がいない。経済学学者ばかりいる」と言いました。大いに同感しました。







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