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'04剣詩舞の研究(六)
一般の部
石川健次郎
 
剣舞「獄中の作」
詩舞「辞世」
剣舞
「獄中の作(ごくちゅうのさく)」の研究
橋本左内(はしもとさない) 作
(前奏)
二十六年(にじゅうろくねん)夢(ゆめ)の如く(ごとく)過ぐ(すぐ)
顧みて(かえりみて)平昔(へいせき)を思えば(おもえば)感滋(かんますます)多し(おおし)
天祥(てんしょう)の大節(たいせつ)嘗て(かつて)心折す(しんせつす)
土室(どしつ)猶お(なお)吟ず(ぎんず)正気(せいき)の歌(うた)
(後奏)
 
橋本左内像
 
〈詩文解釈〉
 作者の橋本左内(一八三四〜一八五九)は幕末の福井藩士で、藩主松平春嶽に仕えた。嘉永六年(一八五三)のペリー来航によって松平春嶽は幕藩体制改造論を提唱し、橋本左内もまた開国と富国強兵を主張して同志に働きかけた。しかし当時の幕府はこの問題とは別に、将軍後嗣の問題で紀伊家徳川慶福を推す井伊直弼が大老となり、一橋派の春嶽とは鋭く対立した。そのために世にいう安政の大獄で春嶽は失脚し、左内も囚れ(とらわれ)の身となって翌安政六年十月七日に斬首の刑に処せられた。
 この詩は、その折獄中の橋本左内が、強い信念と死を前にした心境を述べたもので、詩文の意味は『自分の二十六年の生涯は夢のように過ぎてしまった。過ぎ去った日々を振り返れば、しみじみと心に感ずることが多い。
 自分は文天祥(中国・南宋末の忠臣)の偉大な忠節心には常々感服してきたが、自分がいま文天祥と同じように土牢の中に囚れていると、かつて正気の歌を吟じ宋朝に殉じた天祥のことが強烈に忍ばれる』というもの。
 なおこの詩に影響を与えた文天祥(一二三六〜一二八二)は侵略して来た元軍に捕えられ三年間も土牢に幽閉されたが、「天地正気(てんちせいき)あり、雑然(ざつぜん)として流形(りゅうけい)を賦く(うく)・・・」に始まる正気の歌を牢内で詠み、自己の信念を貫いた。
 
〈構成振付のポイント〉
 この作品を剣舞として構成するには、詩文から展開した筋だてや流れと云ったものを考えるとよいだろう。その一例として、安政の大獄という嵐の前に、一人の勤王の志士が力尽きて倒れ、囚人(とらわれびと)になったという行程を設定する。前半は橋本左内が捕われの身となり、前奏から後ろ手にしばられた形で登場、乱暴な扱いを受けながらも強靭な精神力でこれに抵抗する。承句では牢に閉じ込められて酷しい(きびしい)取り調べを受けるなどの苦悩にあいながら、自分が傾倒してやまない文天祥の正気の歌に励まされたことで、心に曇りのない自分自身の誇りを抽象表現で見せる。
 さて後半は剣技を中心にして、左内の武人としての気骨や実行力を見せたい。勿論後半の詩文とは直接関係ない動作だが、例えば日時を戻し、過ぎた事だが風雲急を告げる京都の市内で、幕府方の捕り手との争いを剣技で見せる構想である。具体的にはまず取り手に囲まれた気配で抜刀し、暗闇の中で左右から仕かけてきた敵に対する。途中から足を払われ転倒し、手負いとなるなど苦戦の様子を見せるが、結局後半では全力をふり絞って敵をなぎ倒して大きく構えてきまる。後奏で納刀して退場する。
 
〈衣装・持ち道具〉
 
 役柄は橋本左内その人であるが、演者が男性なら衣装は黒紋付きか稽古衣が適当であろう。左内の潔白さを印象付けるために白紋付でもよい。女性も男性に準ずる。扇が必要な振付の場合は白扇か、又は黒で風雲を現わした図柄などがよい。
 
詩舞
「辞世(じせい)」の研究
吉田松陰(よしだしょういん) 作
 
(前奏)
吾今国(われいまくに)の為め(ため)に死す(しす)
死して(しして)君親(くんしん)にかず(そむかず)
悠悠たり(ゆうゆうたり)天地(てんち)の事(こと)
鑑照明神(かんしょうめいしん)に在り(あり)
(後奏)
 
吉田松陰肖像
 
黒船来航図
 
〈詩文解釈〉
 この詩は作者、吉田松陰(一八三〇〜一八五九)が安政の大獄に連座し、死を覚悟して処刑される七日前に獄中から郷里に送ったもので、その内容は『私は今、国のために一命を終らんとしている。志は半ばであるが、自分の行いは国家の前途を思ってしたことなので、主君に対しても、両親に対しても決して背く(そむく)ものではなかった。こうした事は長い歴史の中で、必ずや神仏が明らかにしてくれるものと私は信じている』とその心境を述べている。
 しかし、この詩文をもっと理解するためには、作者の吉田松陰について述べる必要がある。松蔭はいうまでもなく幕末期の勤王派の志士であり、思想家、教育者であった。長州、萩に生まれ、六歳のときに叔父吉田賢良(大助)の養子となった。吉田家は萩藩の山鹿流兵学師範で、松蔭も九歳で藩校明倫館に勤め、十一歳で兵書を藩主の前で講じた程だった。二十歳を過ぎると九州、江戸、東北に遊学し、この間に多くの志士と交わり、佐久間象山や水戸の学風には多大な影響を受けた。また嘉永六年にアメリカのペリーが浦賀に来て通商を迫った折、我が国のためにも海外の情勢を探ろうと決心して、翌年下田にアメリカの船が来たときは禁を犯して船に乗り込もうとして失敗し、藩の獄に幽閉された。しかし翌年には出獄し禁錮の身柄となったので、執筆活動や松下村塾を開いて、高杉晋作・木戸孝允・伊藤博文など明治維新の原動力となった人材を育成した。
 しかし安政五年、大老井伊直弼(なおすけ)のもとで外交問題や、尊王攘夷派弾圧に腕をふるっていた老中間部詮勝(まなべのりかつ)の暗殺計画にかかわっていたことで捕えられ、幕命によって江戸に護送され翌年十月二十七日に日本橋小伝馬町で処刑され、遺体は小塚原に運ばれた。
 
〈構成振付のポイント〉
 吉田松陰の三十年という短い生涯の足跡を見ると、死を目前にしてその生涯が如何に充実していたかが読みとれる。但しこの詩は獄中から郷里に送ったものであることと、松陰は別に和歌で「親思う心にまさる親心、今日のおとずれ何と聞くらん」と述べていることから、彼の肉親に対する深い気配りが感じられる。さてそれらのことを合せ考えて、松陰の前項で述べた生き様から、彼の人物像を中心に今回は刀を持たない詩舞構成で、詩文に述べられた松蔭の心象を演じてみたい。
 まず前奏から扇を(指し構)して静かに登場し中央に立つ。起句は扇による(四方指し)か、又は(たっぱい)の振りで『自分は今、日本に仇をなす多くの敵とたたかっている』と云う気持で舞台を大きく動く。承句からは扇を二枚にして海の荒波を表現し、統いて扇を櫂(かい)に見立ててアメリカ船を目指して漕ぐが、破綻した動き(例えば扇をとばし海に落ちるなどのアクシデント)から仮想の敵(幕府の役人)と争う振りになり倒れる。結句は『この様な世の中であっても、必ずや神仏は自分の真心を汲み取ってくれるであろう』と清寂をとり戻し、縛め(いましめ)られた手(倒れた時に紐を仮結びする)を解き(ほどき)ながら前に出て、正座して合掌する(最後に顎を引いて処刑を印象づけてもよい)。後奏は役をはなれ退場する。
 
松下村塾・内部
 
〈衣装・持ち道具〉
 黒紋付きに地味な袴がよいが、死後松陰神社に祀られ神格化した松陰のイメージを考えて、白、紫などの紋付きを効果的に使うこともよい。扇は白扇がよい。







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