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(2)空中写真でみる木更津の流域・沿岸の変遷と着目点
 戦後の空中写真の判読により、年代別に流域・沿岸の開発と着目点を述べる。
1)1955年
 
写真4-1 1955年の木更津地区(国土地理院データを加工)
 
(1)背後地の湿地の農地整備・区画整理
 氾濫原から干潟へと連続するエリアは、一般に、淡水性から塩性の湿地となっている。これらの湿地は、沿岸の漁村や農村にとっては、葦採集地、貝類漁場などの共有地、入会地であった。また、湿地の背後は、従来の土地利用では海岸砂州や河川沿いの自然堤防を利用して農地が開拓されてきた。これでは農地の区画が不定形で、規模も不ぞろいである。そのため、農業の機械化や利水の効率化には農地整備が実際された。農地の規格化や干田化の進行は、後に、宅地や工業用地への転用が容易になるきっかけとなった。農地整備や区画整理によって、沿岸部の湿地のコモンズとしての位置づけが失われ、個人へ所有権が移行していった。
(2)河道の変遷と集落形成
 氾濫原や河口域では河道形状の変遷は、人間の集落や田畑の形成から判読可能である。氾濫原では、出水時に蛇行などの河道形状や流路が変わる。河口域では、土砂堆積状況や河床材料の分布、河川水量、によって、網状水路が発達し、島状の砂州が発達する。蛇行部の内岸側は出水時に土砂堆積が進み微高地になるが、このエリアでは、蛇行部の変化に伴い、三日月状の集落形成が判読される。洪水時には、自然堤防上の微高地は数メートルの比高であっても、低地の田畑に較べて被害リスクが少ない。微高地に農家が建ち、その周辺が田畑になっている。
(3)干潟の海苔養殖施設
 盤洲干潟は、文字通り円盤状の地形を持っており、円弧状の海岸がある。海苔養殖施設は、海岸を取り巻くように、また、沖に面して平行の列をなして設置されている。木更津は、江戸時代から海苔養殖が試みられ、明治時代以降の本格化し、現在でも東京湾の主要な海苔生産地となっている。これは、河口干潟の地形特性を活かした沿岸の生物産業といえる。
(4)干潟面の掘削による港湾開発
 従来、港湾建設は自然地形を活かすのが基本であった。天然の良港といえば、水深が深い入江、岬の陰の静穏域、河口砂州の内側などにあった。しかし、干潟面の掘削による港湾開発が戦後から広く行われるようになった。干潟面を掘削して泊地や航路を建造し、それらの埋没を防ぐ防砂堤を建設した。これは、掘削技術や沖合工事技術の発達とともに、ナショナルミニマムとしての社会基盤整備の資金が港湾開発に充てられたためである。
 木更津は東京湾の要港だが、横浜、東京、千葉などの整備の後、東京湾の地方港湾として優先的に着手されたと考えられる。この写真では、港湾の泊地と荷揚げ場の建設の進行途中が判読できる。
 後に、港湾開発と干潟環境の保全と対立的にならざるをえなかった岐路が、この時代に始まったといえるであろう。
 
2)1961年
 
写真4-2 1961年の木更津地区(国土地理院データを加工)
 
(1)干潟の海苔養殖施設
 隣接する君津地区で干潟の埋立が進行している間も、海苔養殖は行われてきた。木更津にとって海苔養殖の産業的価値は、干潟の保全への意思決定の経済的背景となったと考えられる。
(2)干潟の海岸の砂嘴の発達
 盤洲干潟の形成メカニズムを示唆する砂嘴地形。砂嘴が北東部から南西部にかけて伸張している。砂嘴は海側から沿岸漂砂が先端部に向けて流れ、堆積して伸長していくが、海側が波浪を受け、陸側は静穏水域となっている。砂嘴はこのように防波堤の役割を果たす自然地形であるため、その陸側が、小型船溜まりとして利用される場合も多い。
(3)海岸の湿地の土地利用
 農地利用を目的とした区画整理や土地改良などが進む以前の湿地帯は、この時代にはまだ自然に近い状態で残存していた。干潟や沿岸部の水質の保全には、後背地の湿地は陸からの流入負荷を軽減するバッファーとして機能している。また、湿地に周年・季節的に生息する生物の生息地としても保全されていた。
 日本の農地利用では、淡水性の湿地は稲の移入以来、歴史的に開発されてきた。しかし、沿岸部では自然災害や塩害のため湿地利用が困難であったため、20世紀後半まで過度の利用が抑制されてきたと考えられる。また、沿岸部の湿地については、日本の農本主義的な見地からは「使えない土地」とみなされ、後に廃棄物投棄場所などになっていった原因となる価値観が醸成されてきた。
(4)干潟の埋立地造成
 京葉工業地帯の一翼を担うエリアとして、1960年代から隣接する君津地区の埋立が本格化した。木更津沿岸部にも埋立計画があったが、現在に至るまで干潟が保全されている。土地造成計画は、海岸の深浅図をもとに決定された。すなわち、干潮時の汀線付近まで護岸建設を行えば、最大限の面積が確保されるためである。埋立土砂は、手近に調達された。埋立地前面の海底を掘削して、ポンプ浚渫のように陸上に吹き上げて用地材料を投入した。
(5)港湾建設と空港
 港湾建設として、泊地と航路の確保のため干潟面が掘削された。泊地は陸側の海岸を掘り込む工法がとられた。
 隣接して、木更津航空隊があった飛行場が見える。日本の内湾沿岸地域では、戦前には、航空隊の拡充時に海岸付近に平地が確保された。滑走路として、海岸の陸地以外にも、水上飛行機のため静穏な海面が利用可能と考えられたためである。干潟面の埋立による空港の確保は乗法となり、同時代には対岸の多摩川河口周辺の干潟を埋立てて羽田空港が建設されることとなった。
 沿岸部利用のゾーニングとして、港湾と空港がセットになった利用がなされている。
 
3)1977年
 埋立開発が進んだ1977年。
 
写真4-3 1977年の木更津地区(国土地理院データを加工)
 
(1)海苔養殖施設
 干潟の外縁部での砕波状況が記録されている。砕波の白波は海底の水深が同じ場所を示すが、干潟の地形コンターと海苔養殖施設が平行しているのが明快に判読できる。東側の埋立地の工業地帯に隣接して、沿岸の水産業が行われている象徴的な風景である。
(2)君津の埋立地
 重厚長大産業の基地として、君津の埋立地が造成された。発電所、製鉄所、化学工業関係が産業活動を行った。工業生産は千葉県の経済の牽引力となり、多くの雇用を創出してきたが、その後、1990年代以降には、重厚長大産業自体の衰退が進み、埋立地の土地利用が問題となっていく。2000年代には、廃棄物処理のリサイクルポートとしての位置づけも検討されるようになった。
(3)漁港の建設
 1970年代に入り盤洲干潟の漁村前面には漁港建設が進んだ。改変としては木更津港湾ほど大規模ではないが、河口域を埋立て、干潟面を航路や泊地として掘削する工事が進められた。
(4)港湾建設の大型化
 木更津は、貿易や人の輸送というよりも、東京湾埋立事業に関係する船のステーションとしての機能を受け持つこととなった。例えば、浚渫船、砂利運搬船、沖合工事の重機搭載船などである。1970年代には、埋立工事は、東京湾の巨大産業となっていた。
 
4)1986年
 
写真4-4 1986年の木更津地区(国土地理院データを加工)
 
(1)盤洲干潟外縁部
 盤洲干潟の外縁部では、1980年代に入り、次々漁港建設が進んだ。一漁村一漁協が原則のもと、各漁村の地先や小型舟溜まりを拡充する計画論のためである。その結果、円弧状の海岸線の汀線付近での連続性が断たれることとなった。個々の漁港に対応する航路が干潟面に掘削され、維持浚渫が行われるので、干潟環境の「小規模ながら継続的な改変が続く」ことになる。現在は、個々の漁港は、都市型漁業の、遊漁船や潮干狩のステーションとしても機能している。
(2)小櫃川河口
 漁船や小型船舶用の航路と治水対策が主と思われるが、小櫃川河口から直線状に干潟外縁部に至る流路が掘削されている。洪水流のフラッシュには有効かもしれないが、塩水遡上パターンが変化したと考えられる。かくして、干潟の改変が進むこととなった。
(3)木更津港の防波堤
 埋立地の沿岸方向に、長大な防波堤が建設された。木更津の重要港湾としての位置づけで、大型船舶の入港に備えて、広い静穏域を確保する必要があったと思われる。また、湾側の埋立地も大きく延伸され、盤洲干潟と同規模で突出した地形ができた。干潟・浅海域環境としては、盤洲干潟から富津岬に至る海域の流れや地形の連続性が、埋立地造成以外にも、防波堤などの沖合構造物によって分断される状況となった。
(4)港湾の背後地の市街地化
 戦後は、農地が広がっていたが、その後の区画整理や土地改良によって規格化された田畑となり、1980年代に至っては市街地化されている。この間の農地の宅地転用は、港湾の背後地としての発達、交通網の発達による千葉市の近郊の都市としての位置づけが追風となったと考えられる。







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