Session 1-1
最近のアジア情勢と安全保障システム
防衛大学校 国際関係学科教授 村井友秀
1. 最近のアジア情勢
最近のアジア情勢の特徴は、中国の経済的・政治的影響力の拡大、日本の経済的停滞と影響力の縮小、インドの経済発展と東南アジアへの進出、イスラム原理主義の潜在的拡大、などである。インドネシアではアラブ諸国と同様に、現状に不満を持つ下層階級を中心にイスラムが人々の心をとらえている。不満を持つ大衆が多数存在する地域では、民主化の進行とイスラム原理主義の拡大は同時に進行している。
中国の影
中国は積極的に政治的・経済的影響力を拡大している。例えば、中国のインドシナ・メコン流域への経済的浸透は急速に大きくなっている。中国は、中国南部からインドシナ半島へ流れるメコン川を河川輸送の幹線にし、それと平行して高速道路を貫通させる「南北回廊」計画を進めている。ASEANに対する「戦略的協力関係」宣言の締結、さらにASEANの基本文書である「東南アジア友好協力協定」への域外国としての最初の加盟、など、東南アジアへの進出は、中国の国家戦略の中で優先順位が高いと思われる。現在の中国の国家戦略は以下の点に重点が置かれている。1、米国の一極支配に対抗するため、東南アジアに中国を中心とする地域統合を形成し、中国の影響力を拡大する。2、米国の一極支配に対抗するため、ロシアと中央アジアに集団的安全保障システムである上海協力機構を形成し、中国の影響力を拡大する。同時に米国の影響力が地域に浸透することを防ぐ。3、東南アジアに対する日本の影響力がこれまで以上に拡大する可能性がある日本・ASEAN特別首脳会議と日本・ASEAN自由貿易協定(FTA)締結を牽制する。4、ASEANプラス3(ASEAN10カ国と日中韓3カ国で構成)を地域安全保障機構とするように強調し、米国または日本が東南アジアに軍事的影響力を拡大することを牽制する。
東南アジアの反応
過去も現在も東南アジアの全ての国において日本は最大の援助国であるが、中国の外交攻勢に対して東南アジア諸国は積極的かつ前向きに対応している。日本のA.S.E.A.N.における貿易、投資は中国よりもはるかに大きい。2001年の実績で、日本とA.S.E.A.N.の貿易額は中国とA.S.E.A.Nの3倍強、投資はフローで14倍、ストックで56倍である。しかし、今や東南アジア諸国にとっては、「日本と中国はASEANの右手と左手」なのである。東南アジアに出来るだけ多くの大国を引き込み相互に牽制させ、一国を支配的な立場に立たせないようにすることが東南アジアの戦略である。
一方、イスラム原理主義と国際テロリズムが一部地域に浸透しつつあり、国際テロリズムへの対応として米国の影響力が拡大している地域もある。
インドの台頭
2002年ASEANは初めてインドのパジパイ首相を招き、ASEAN・インド首脳会議を開いた。ASEANの定期的な首脳会議は、日本、中国、韓国に続き4カ国となった。インドは情報技術(IT)大国であり、経済発展に自信を深めている。冷戦時代はソ連と親密な関係を築いていたインドも、経済発展にともなって米国との関係を改善した。9.11後は米国の戦略的協力関係国となっている。現在のインドの対米方針は、世界規模での米国との「自然な同盟」(パジパイ首相)を志向している。
かつて、ネルー首相は、「歴史的に見て、強大な中国が成立したときは、常に拡張主義的であり、また中国の工業と人口の急激な増加は爆発的な情勢を生み出す」と述べていた。また、中国に対するインドの戦略をネルー首相は「友好による中国封じ込め政策」(containment of China through friendship)と呼んでいた。
インドは、中国に対抗するように、ミャンマーからベトナムへ抜ける「東西回廊」ハイウエー構想の実現に積極的である。1962年には中国と国境戦争を戦ったインドも現在は経済発展を国家戦略の中心に据え、経済大国になりつつある中国との関係を改善し、東南アジアに対する進出を拡大しつつある。
日本の針路
一方、日本の影響力は減少している。中国では、これまでの「Japan bashing」から「Japan passing」へと移りつつある。東南アジアでは、「中国が先行し、日本が後追いする流れが定型化している」(リー・クアンユー・シンガポール上級相)。日本が東南アジアに持っていた巨大な経済的影響力は、中国の影の下で徐々に縮小しつつある。日本の健全な発展のためには、従来の枠にとらわれない新しい日本のイニシアチブが必要である。経済的影響力の拡大が限界にあるのならば、他の分野で影響力の拡大を図るべきである。例えば安全保障の分野は日本がこれまで多くの貢献をしてこなかった分野である。日本は東南アジア諸国全体の平和と海洋の安全保障に大きな利害を持っている。中国や朝鮮半島と東南アジアは安全保障環境が大きく異なっている。日本が進むべき方向は新しい発想が必要である。米国は長期的にはアジアが中国の影響下におかれることを警戒しつつ、当面は中国と良好な関係を維持し、イスラムテロを撲滅し過激主義を封じ込めることを主眼にしている。このような国際環境の中で、日米同盟は東南アジアにとって国際環境を安定させる重要な役割を果たしている。
米国の東アジア戦略
米国防省は2001年10月、「4年ごとの国防計画」(QDR01)を発表した。この国防計画によると、東アジアは「特に問題の多い地域」とされている。すなわち、東アジアは、大規模な軍事競争が発生しやすい地域であり、恐るべき資源を持った軍事的競争相手(中国)が出現する可能性がある地域であるにもかかわらず米軍基地の密度が低い地域である。
また、「QDR01」にはこれまでの国防計画で明示してきた米軍10万人のプレゼンスという表現は無くなった。しかし、「QDR01」は、北東アジア・西太平洋における米軍の作戦能力を高めるために次のような方針を示している。すなわち、北東アジアにおける重要な基地の維持、西太平洋における空母機動部隊の増強、戦闘艦艇と巡航ミサイル搭載原潜の母港建設、太平洋において緊急事態に対応する空軍基地の増加、米国本土から西太平洋への空軍後方支援体制の確保、西太平洋沿岸部の戦争に備える海兵隊の訓練強化、である。
現在、北東アジアに展開している米軍の戦力は次の通りである。すなわち、海軍では1個から2個の空母機動部隊と数隻の巡航ミサイル搭載原子力潜水艦、1個海兵遠征軍(沖縄)、空軍は2個航空団(日本)、1個航空団(ハワイ)、2個航空団(アラスカ)など約200機の戦闘機や攻撃機が北東アジアに配備されている。その他、韓国に陸軍1個師団と2個航空団が駐留しているが、韓国に駐留している米軍は北朝鮮に対する抑止力として機能しており、基本的に他の地域へ移動することが出来ない。したがって、日本に駐留する米軍兵力がアジア・太平洋の安全保障に大きな役割を果たすことになる。
2. アジア・太平洋地域の安全保障システム
アジア・太平洋地域の特色は、ヨーロッパと比較すると地理的・文化的・歴史的多様性である。冷戦時代には、朝鮮戦争やベトナム戦争といった地理的・文化的・歴史的軋轢とイデオロギー対立が合体した大規模な地域戦争が発生したが、基本的には米ソの巨大な軍事的圧力の下で地理的・文化的・歴史的多様性は抑圧されていた。
冷戦が終わると、米国はアジア・太平洋において一定のプレゼンスを維持したが、ロシアの政治的・軍事的影響力は急速に後退していった。イデオロギーに基づく地域的対立構造も徐々に変化し、1990年代初頭には韓国がロシアついで中国との外交関係を樹立した。また、米国はベトナムとの国交を正常化した。武力紛争も発生していた中露間の国境紛争もほぼ合意に達した。
しかし、現在においても核兵器を含む巨大な軍事力が依然として存在している。朝鮮半島、台湾海峡及び南沙諸島等未解決の対立も依然として残っている。地理的・文化的・歴史的に複雑な環境の中で、米国を基軸とする2国間同盟及び友好関係、並びに米軍のプレゼンスは、地域の平和及び安定性の維持に重要な役割を果たし続けている。しかし、一方ではASEAN地域フォーラム(ARF)などの多国間対話も一定の機能を発揮している。
東アジアの多国間対話
軍備管理及び軍縮をもたらすためにヨーロッパでとられたような包括的な地域安定化の試みは、東アジアでは欠如している。しかし、近年、安全保障問題への関心が地域内で高まり、順次軍事交流の機会が増加し、地域的安全保障に関する多国間対話の試みが進められている。
ASEAN外相会議及び1993年7月のASEAN拡大外相会議で、ARFをアジア−太平洋地域の政治及び安全保障問題の対話のためのフォーラムとして創設すべきであるということに同意した。ARF会合は1994年7月の最初の会合から年に1度を基準として開催され、徐々にその参加メンバーを増やしていった。2000年5月の高官実務者レベルでの話合いの際、ARFへの参加を希望する北朝鮮の申請は、ARFの発展及び地域の平和と安定性に貢献するものとして許可された。
現状ではARFは、ヨーロッパ型の地域安全保障の枠組として機能することは難しい。しかし、それは、アジア・太平洋の全ての参加国の外務大臣が参加する地域全体としての安全保障の協力的な対話のための唯一の活動の場を提供している。様々な政府間の会合に防衛当局者の参加を認めるという意味においてもまた極めて重要である。
安全保障対話の有効性と協調的安全保障
北東アジアにおいて、中国、ロシア及び日本は、歴史的な対立国である。しかし、対立する国家間の対話は、平和及び安定性を維持するのに効果的である。安全保障対話を促進することは、相互の不信感を緩和し、当該国家間の歴史的問題の否定的影響を軽減する可能性がある。
対話の意義及び有用性は、参加国によって保持された脅威認識の相互理解を促進することにある。参加諸国間で対話を促進させることによって、最悪のシナリオ及び安全保障ジレンマは、回避され得る。意思の疎通のない接触は摩擦をもたらすだけである。自国の安全保障が、他国の安全保障の価値を考慮することなしに確保しえないという事実を考えると、多国間の安全保障対話の意義は軽視できない。さらに継続的な安全保障対話は、多国間及び協力的安全保障レジームのために必要不可欠な基軸となる信頼醸成及び紛争予防措置の発展を助長することが期待される。
国家間における安全保障対話、並びに信頼醸成措置の結果に基づいて創設された東アジアの協調的安全保障制度は、同盟システムが基本的に保有している対立構造を緩和することが出来る。基本的機能が軍事力による抑止と防衛である同盟は、第三国との間で不必要な誤解及び不安をもたらす傾向があり、軍備競争を引き起こす可能性をもっている。1996年4月の「日米安保共同宣言」及びそれに続く「日米防衛協力のための指針(ガイドライン)」に対しても不安を持つ国家は存在する。安全保障対話の実施は、そのような誤解を一掃するための有効な施策の一つである。更に、国家間の継続的な安全保障対話によって形成された地域的信頼醸成措置及び紛争予防に関する措置が、地域環境を安定化させるように機能すれば、国家間関係が敵対的になる可能性を少なくすることが出来る。
安全保障対話及び協調的安全保障の問題
安全保障対話を効果的かつ実行可能なものにすることは容易な事ではない。2国間の安全保障対話は、必ず相互不信感を軽減したり、敵意及び対立的な歴史に基づく様々な問題を解決するということは出来ない。
また、2国間の対話は第三国の疑念を引き起こす傾向があるということも事実である。安全保障対話の目的である政治的意図の透明性を高めるために、全ての地域大国を包含する安全保障対話フォーラムが、創設されるべきである。
ただし、信頼醸成措置及び紛争予防措置を向上するために必要な実施規範(norms of conduct)を作成することは容易ではない。東アジアの問題に影響力を持つ大国は、これらのプロセスへの全面的な支援を常に行うとは限らない。米国は、多国間安全保障協力の支援を拡大したにもかかわらず、軍事分野における信頼醸成措置の確立まで行うことには消極的である。これは、大陸が問題の中心であるヨーロッパとは異なり、東アジアの戦略的環境が本質的に海洋に関するものであり、それゆえに、地域の信頼醸成措置は米国の海軍の作戦に影響を与える可能性があるからである。
中国も安全保障フォーラムでの制度化に積極的ではなかった。歴史的な経験が現代の中国の国際的関与に影響している。19世紀の後半の半植民地化及び20世紀前半の混乱によって、中国の指導者は国家主権と力を重視し、中国の主権及び行動の自由を侵害する恐れがある国際的規範及び規則化を避ける傾向がある。中国の軍事力の増大によって、中国は多国間アプローチよりも二国間アプローチを選択する傾向があり、地域の安定と協調的安全保障を促進する障害となっていた。更に、多国間の協調的安全保障制度に欠くことができない軍事分野での信頼醸成措置は、米国だけが圧倒的な軍事力を保有している東アジアでは確立することが困難である。
さらに、多国間の協調的安全保障システムは、集団的安全保障の軍事力による抑止と防衛のメカニズムの代替になることはできない。集団的安全保障は軍事衝突を想定した枠組みであり、多国間による協調的安全保障体制の目的は、安全保障環境の維持と改善である。
協調的安全保障概念は、主権国家をコントロールする超国家的な権力がない現実の世界では、主権国家が自己中心的にならざるをえないという事実を十分に考慮してはいない。更に、紛争当事者が軍事大国であれば、他の弱小加盟国が対処することは難しい。
協調的安全保障制度は加盟国間の協力を促進すると主張するが、それは同時にそれぞれの加盟国の利益が相互に衝突する枠組みでもある。加盟国間の利害の不一致が安全保障に対して直接的な影響を与えない貿易及び経済協力制度と比べると、協調的安全保障体制における利害の衝突の危険性は大きい。
3. 21世紀における北東アジアの戦略的環境
多国間の協調的安全保障制度を創設することは容易ではなく、創設されたとしても、現実の軍事紛争に対処することは困難である。実際、協調的安全保障制度は対立的関係を緩和し、同盟システムの排他性を軽減する役割しか果さない。
中国は、19世紀以前に中国が東アジアの覇権国であったことを忘れてはいない。基本的に中国は現状維持国ではなく現状変更国家である。東アジアにおける抑止のメカニズムの中で日米同盟は、地域における米軍の駐留を可能にする最も強力で、効果的なものである。そして、米軍は、その存在が東アジア諸国の多くの国とって欠くことのできない安定剤として歓迎される唯一の軍である。この意味では、日米同盟の維持から生じる安全保障上の利益は、二国間関係だけではなく東アジア全体の大きな利益になっている。
ただし、米国人は、米国にとって死活的な国益が犯されたと感じたときには、大きな犠牲を覚悟して戦うが、犯された国益が周辺的な国益であると考えるときには大きな犠牲を払うことに同意しない。1993年10月、ソマリアで作戦中の米軍は18人の戦死者を出した結果、撤退した。一方、2003年3月のイラク戦争に際して、60%の米国人は戦死者が500人に達しても戦うべきだと主張し、30%の米国人は5000人の戦死者も許容すると答えている。戦争は「損害が許容度を超えた」と感じた側が負けるのである。「損害の許容度」は「守るべき価値の大きさ」に比例している。
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