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(2)糸満漁民の経済
 
アギヤーシンカの構成と儲け分け
呼び名 役割 モーキワキ(儲けの配当)
テーソー(親方) 責任者、袋網や母船の所有者 1人前+網前・船前としての配当(大型の県外出漁組では1.5人前の配当をつけるところもあった)
トゥムヌイ サバニや袖網の所有者 1人前+網前・船前としての配当
ヘーヌイ(平漁夫) ヤトゥイングワ(雇子)など 経験や能力に応じて1.3人前、0.8人前、0.5人前と差をつける場合があった。
 
 大型の追込み網漁の場合、サバニ10隻、1隻に4〜5人のヘーヌイが乗り込みました。全体で約50人程。このような集団が20組近く糸満に存在していました。
 1人前のヘーヌイは、本島組で100円程度、長崎五島組は400円程度(年によっては1700円)の稼ぎがありました。瓦屋根の家が700円で建てることができ(昭和前期)、また、夏場の農作業日雇いや機織職工の日給が30銭であったことを考えると、糸満漁民の稼ぎはかなり多かったといえます。
 
(3)入漁権と入漁拒否
 近世以来、糸満漁民は沖縄各地の村などに入漁料を支払うことによって漁業を行なってきました。しかし、1908(明治41)年の本部村漁業組合のように、糸満漁民が地元の地先で漁を行なうことを拒否する例が増えてきました。さらに、1918(大正7)年には、沖縄各地の漁業組合の関係者が県会議事掌に集まって糸満漁民による地元地先での漁業を行なうことに反対を表明しました。
 糸満漁民は、追込み網漁という優秀な漁業技術を持っていたために、沖縄近海での漁業を続けることが難しくなってきたのです。このことが、糸満漁民が県外・海外へ乗り出して行く理由の一つとなりました。
 
「漁業者間の紛議」(琉球新報 明治41年11月8日)
 
「漁業入漁権協議」(琉球新報 大正7年3月25日)
 
「琉球国惣絵図」にみる海方切
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NPO法人琉米歴史研究会所蔵
村や間切の地先の海で魚・貝・海草などを採る権利は地元にありました。現在でいう漁業権が設定されていたわけです。その境界線は海方切(うみほうぎり)と呼ばれ、1719(尚敬7)年に定められました。広範囲に漁業を行なっていた糸満漁民は、地元の村や間切に謝礼を支払うなどをして漁業を行なっていました。







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